道の先生

昨日は、飯塚の古民家和樂で銀杏拾いをみんなで行いました。ご神木のお恵みをみんなで拾って感謝していただくだけで仕合せな時間を過ごすことができました。

元々私たちは、自然のリズムで自然と一体になって生きてきました。その自然のリズムは、周囲の自然と共生してはじめて実感できるものです。

むかしの暮らしは、一年を共にするパートナー(自然)たちとお互いに慈しみ分け合い助け合い生きていました。これを和合ともいい、大和心とも言えます。自然と一体になっていることの中に、お互いを尊重しあう関係があり愛し合う関係もあります。

お互いの気持ちを通じ合わせて一つになる時、私たちは言葉にできない多幸感を味わうことができます。

この和樂での銀杏拾いは、古民家甦生してから4年目になりますが年々、関係性が築かれ深い愛着も産まれてきます。最初の年は、鬱蒼としていて銀杏すらあることに気づきませんでした。それから2年目になると大量に落ちた銀杏の実が異臭を放っていて掃除が大変だと辟易していました。それが3年目になりみんなで分かち合おうと拾ったものを配ったり、みんなで食べたり贈ったりしていたら大きくて美味しいと喜ばれ感謝されました。そして今年は、去年来られた方々がご家族で来られたり、また味わいたいと集まってきて友達や知人なども増え大家族のように和気あいあいと過ごしています。

これは銀杏が結んでくださったご縁であり、銀杏が発している「元氣」であることは間違いありません。私たちはそのものが持っている元氣に触れることで、自分も元氣になります。元氣というのは、どこにあるのか、それはこうやって形になっていく中で実感できるものです。

お互いが和合して、助け合い見守り合い共生して和やかに生きていくことはもともと自然界が望んでいることです。もっと言えば、宇宙が望んでいることかもしれません。

自然のリズムというのは、そういう自然との接点のなかで暮らしで結び合うご縁や機会を増やしていくことでしょう。一緒に銀杏拾いをした年配の方々からは、銀杏に因んだ懐かしいお話をたくさんお聴きできました。

100年後、200年後も、私たちがこの世を去ってもこの銀杏の樹はその先もずっと生き続けてくれると思いますが、子孫や子どもたちにこの自然との共生や和の心を伝承する道の先生としてあってほしいと祈ります。

自然は道を教えてくれる唯一無二の先生です。

いつもありがとうございます。

和の心の根源

今の時代は、歪んだ個人主義が蔓延しすぐに敵対関係にし何でも分けて考える癖がついているとも言えます。そこに個々の我執というものが邪魔をして本来の和合した関係から遠ざかっているのも事実です。そんな時、日本民族の大切にしてきた和の先人たちはどのような意識で生活をしてきたか、そして日常の暮らしの中でどうその意識を役立ててきたかを学ぶことはこの今の時代においてとても大切なことのように思います。

日本には、むかしからお互い様や御蔭様という精神文化があります。これは関係性の中で調和させていこうとする姿勢、また折り合いをつけて和合しようとする和の心です。

この和の心というのは、どのようなものか。それをかつての先人たちは日常生活の中で智慧として用い、体感と意識を磨いてきたように思います。例えば、私は古民家甦生をしますが甦生するときにはまず家と一体になっていきます。家のことを深く尊敬し、知ろうとします。そしてその家の歴史や個性、そして一つのいのちをもった人格の存在として認めるところからはじめます。なるべく、善いものを遺したい、そして長所を活かしたいと、そのものが美しいと思えるところ、素晴らしいと感じるところを伸ばしていけるように知恵を絞ります。そうしていると、お互い様と御蔭様が訪れて感謝が循環しどんなことをしても好いことになっていきます。

この好い関係というのは、日頃から存在そのものを大切だと感じる関係のことです。もともと私たちの存在は宇宙がつくったものです。しかし気が付くと、世間が自分をつくってしまっている人が増えています。それくらい、周囲の目を気にしては評価や裁きを恐れて生活しているとも言えます。

自分のままであることや、自分らしくあることをやめてしまえば本当の意味での存在に気づけなくなるものです。自分の存在に気づく人は、周囲の存在の有難さにも気づきます。お互いの存在があるから、お互い様であり、そして御蔭様となります。なので、折り合いをつけるのにもよくないことがあってもお互い様だからと許しあい、善いことがあれば御蔭様と御礼をするのです。

存在そのものを思うとき、人は深く全てを丸ごと感謝します。それが一円融合であり、和の心の根源ではないかと直観します。

時代が変わっても、先人たちが大切にしてきた心の姿勢を継承し、次世代へとその生き方を伝承していきたいと思います。

正に勝つ、吾に勝つ、速やかに清らかに。

本日、英彦山の守静坊の仙人苦楽部では合氣結びの仙人が来られます。もともと英彦山でお祀りする神様は正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミ)といいます。

この神様は、天照大御神の御子で天安河にて須佐之男命が行った誓約によって生まれた神様です。また別名に、天之忍穂耳命(アメノオシホミミ)とも言われます。この神名の「ホ」は稲穂のことをいい「ミミ」は実をたくさんつけて頭を垂れる稲穂のことで「立派に実った大きな稲穂」という名でもあります。稲穂の神、農業神として信仰されています。

名前に「勝」が三つも入り印象深い名前ですが、これには理由があります。この神様はもともと素戔嗚尊が天で自身の清い心を示すために生んだ五皇子の長男です。日本書紀』神代紀第六段では素戔嗚尊は天照大神の前で「自分の心が清らかならば男神が生まれ、そうでなければ女神が生まれる」と誓約をしました。そして天照大神に借り受けた八尺瓊勾玉をカリカリと噛んで掃き出し五皇子を産みました。誓約に勝った素戔嗚尊の勝ち名乗りが「正哉吾勝」「勝速日」と考えられ最初に生まれた天忍穂耳尊の名前の一部となったという伝承です。その時、天照大神も同時に素戔嗚尊から草薙剣を受け取って宗像三女神を産んだといいます。そして誓約が終わったあと天照大神と素戔嗚尊は剣と勾玉を返すという形でお互いに生んだ子を取り替えたという伝承です。

まさに英彦山には、この伝承に相応しい場所があり神様としてお祀りされて今も息づいて遺っています。

今回、合氣道のご縁をいただいたのにこの正勝吾勝勝速日天忍穂耳命が深く関係しています。その理由は、合気道の開祖である植芝盛平氏が「真の武は、正勝、吾勝、勝速日であるから、いかなる場合にも絶対不敗である。」と語っていたことにも由来します。もともとこの正勝吾勝勝速日天忍穂耳命は『吹き棄つる気吹(いぶき)の狭霧(さぎり)に成りませる神』といわれます。

その植芝盛平氏の口述録『武産合気15版』にはこうあります。

「剣を使う代わりに、自分のいきの誠をもって、悪魔を祓い消すのである。つまり魄の世界を魂の世界にふりかえるのである。これが合氣道のつとめである。魄が下になり、魂が上、表になる。それで合氣道がこの世に立派な魂の花を咲かせ、魂の実を結ぶのである。そして経綸の主体となって、この世の至善至愛なる至誠にご奉公することなのです」

まさにこの気吹によって、というところに和合の根本があるのかもしれません。

そして植芝盛平氏の道歌にはこうもあります。

「正勝吾勝御親心(おおみごころ)に合氣してすくい活かすはおのが身魂ぞ」

ということで、英彦山の守静坊で合氣道を学ぶことはこの場所の根本ルーツを学び直すことにも結ばれるように直観しました。

現代のまさに世界大戦や環境汚染、人心荒廃や金融の奴隷のように全ての生命が軽んじられる現代において最も必要なことはこの『和合』であるのは日本人ならきっと誰もが心の奥底では感じているはずです。

垣根を超え、世代を超え、世界を超え、人種も未来も過去のしがらみなどもすべて超え、まさに全宇宙、あらゆるいのちの全てを超え、和合して一つになって問題を解決していこうとする場が必要だと私は何よりも感じています。

和合を学ぶのに英彦山ほど素晴らしい場所はこの世界にはありません。子どもたち、子孫のためにも世代の責任として真の平和、そして人類をはじめ地球の真の調和を志、正に勝つ、吾に勝つと速やかに清らかに場を磨き続けていきたいと思います。

今を楽しむ

世の中には大きくわけると、物事を楽しむ人と楽しまない人がいます。楽しむ人は、好きなことにしていきますし楽しまない人は好きなことまで好きではないことにしていきます。

その違いは何か、そこには色々な執着や心の葛藤があるようにも思います。今を楽しむことに長けている人は、どんなことも一期一会に味わいます。喜怒哀楽すべてを味わい盡していくなかで、そのものを深く感じているのでしょう。

この今を楽しむというのは、未来への不安や過去への辛さなどを忘れている状態とも言えます。今を味わう人には、今を味わうことに精いっぱいでそんな未来や過去のことまで意識がいきません。逆を言えば、先のことや過去のことばかりに囚われているから今にならないともいえます。

今に専念しているというのは、今を味わうということです。今を味わっていても時は経ちますし、必要なところに導かれていくものです。計画性がないからといってもいつ人は、運命などから事故や災害などに合うかもわかりません。思った通りにならないことの方がほとんどです。しかし、思った通りではなくても運が善い人たちは思った以上のことに出会い導かれ続けていくものです。それをご縁ともいいますが、ご縁は味わってこそご縁の醍醐味を感じることができるように思います。

今を味わうことは、今を生き切ることです。そして今を生き切るために、物事を楽しもうと深く味わう生き方があるように思います。結局は、方法論よりも生き方が全てを決めているように思います。方法論は正論であっても、それを楽しめないならもったいない時間を過ごすことになります。

人生は一度きりで、二度と同じ今もなく同じこともありません。勇気を出して新しいことに挑み続けているのが人生そのものともいえます。私はすぐに何でも新しいことにしてしまうので、ルーティンが変化ばかりですがこれもきっと今を誰よりも楽しむからかもしれません。

今を楽しみながら子孫へと、徳のバトンを繋いでいきたいと思います。

今やることに集中する

色々と自分の自信のなさや弱いところがあると人は不快になるものです。結局は、自分に打ち克つ話であって相手は関係がないことがほとんどです。相手を変えようとしても変わりませんから自分に専念した方が解決に向かうことがほとんどです。

その自分に専念とは何か、それは今、やることに集中することです。もともと志があり、その志に向かって道中を歩む中で様々な障害や困難がやっていきます。そのどれもが信じることができるか、やり切ることができるかということが試練として訪れます。

この信じるというのは、自分が自分を信じることができるかということです。そのためには、他責でもなく、誰かに依存するのではなく、全ての責任を受け容れ自分自身が全体を思いやり決心したことに勇気を出して忠実に挑んでいくのです。道中に色々なことを言われたり、時には誤解され邪魔をされても、今やることに集中するのです。思い返せば、私の人生はずっとそれの連続でした。

そのうち必要な時のすべてを経て、その信念が結実したとき悔いのない清々しい終わりを迎えます。この終わりは、未来へのはじまりであり私にとっては人類や次世代以降の子孫たちへのいのりそのものです。それも徳の本体です。

そもそもこういう信念は誰かにわかってもらおうとするものではなく、自分がより真摯に誠実に今、脚下に実践し内省を繰り返すことで磨いていくものでしょう。自分自身の問題ということです。

子どもたちにまだ残っている先人たちの遺徳と願いに見守れながら、新たに暮らしを見守るバトンを渡していけるように今、やることに集中していきたいと思います。

魂と祈り

私の周りには志をもっている職人さんたちがたくさんいます。茅葺職人さんをはじめ、畳職人さん、また自然酒の職人さんなどです。他にもたくさんおられますが、共通するものは素材の方を大切にしているということです。

茅葺職人さんでいえば、萱を育て萱場を守ります。畳職人さんはイグサ場を守ります。自然酒の職人は、自然農法の田んぼを守ります。みんな素材があってこその職人さんで、素材の大切さを深く理解しておられます。

同様に私は、在来種の高菜の畑と種を守ります。素材というものは、唯一無二で素材を守るためにその素材を加工して世の中に活用していくという具合です。かつて、私たちは自然の恩恵に深く感謝してその恩恵を守り続けてきました。そこには、素材の持っている徳だけではなく、その素材に対する尊敬や感謝、祈りなどの生き方がありました。生き方とは、その生きる姿勢であり、自然や素材に対してどれだけ純粋に崇高な魂で接していくかということです。

見た目だけを誤魔化したり、舌先三寸をだましたり、耳障りのよい言葉を並べて嘯いていたりと、現代はほとんどの人たちが赤信号みんなで渡ればこわくないと、不正直なこと、不誠実なこととわかっていても見て見ぬふりをして魂の純度を濁していきます。

そもそも環境がよくなく、純度を濁すような世界にいたらそれもあるでしょう。しかし、同じ環境にあっても守られる人たちがいます。それが先ほどの職人さんたちです。その理由は、魂の祈りを続けるからです。

自然の前に立つと、私たちは自然に魂が祈り始めます。なにものか分からなくても、かたじけないと感謝が湧きます。そこには畏敬があります。畏敬は、神秘性でもあり、それを昔の人たちは神とよび何かをそこに感じました。

神が宿るところには、魂の祈りの場があります。

それぞれには、それぞれの神秘性があり、私はそれを祈り続けます。そしてその場には、素材が誕生しいのちが輝くのでしょう。

子どもたちのためにも、魂と祈りの伝承を実践していきたいと思います。

私たちはかつて循環型の暮らしを磨き上げていました。伝統文化に触れれば触れるほどにそれを感じるものです。例えば、藁という素材。これは稲作と一緒に循環するものですが、数々の藁細工をはじめ暮らしの道具がこの藁から誕生しました。むかしの稲作は、そのどれもが稲を大切にして稲に守られるような思いやりが循環しました。

これは稲に限らず、竹なども同様です。自然界にあるもの、身近な暮らしにあるものはどれも大切にされ暮らしの中で用いられました。まさに、自然の巡りと一緒一体になった心安まる暮らしがあったのでしょう。

現代は、ほとんどが使い捨てです。またかつての自然物を循環する暮らし自体が失われています。先ほどの藁であれば、稲架けをする農家も減ってきました。稲架けとは、収穫した稲わらを逆さにして吊るして登熟させる方法です。むかしは登熟させるのに乾燥機を使わずに天然の太陽と風で天日干しをしていました。今は機械で刈込み藁はそのまま田んぼへと返します。むかしは鎌で手刈りでしたからどの農家もみんな稲架けしていました。

そして脱穀した後の藁があらゆるものに使われるのです。ある時には、屋根に、ある時には長靴や草鞋に、そして神事や行事のしめ縄やゴザにあらゆるところに活かされました。そしてそれは自然に還り、見事なまでに土壌の肥料などにもなります。

お米は単に食べるためだけの「モノ」ではありませんでした。まさに共に循環型の暮らしをする最高最大のパートナーだったのです。そのパートナーを単なるモノのように接するようになってから、田んぼは力を失いました。

日本の田んぼは、本来は日本人の元氣の根源であり至高の場でした。

次世代のことを思うと、心が痛みます。国家や金融の奴隷になりひたすらに循環しない生活を追い続けた先に懐かしく美しい暮らしは遺っているのでしょうか。一度、やめてしまえば伝統や伝承はなかなか甦生しません。だからこそ遺っているうちに、ちゃんと継承し新たな美しい暮らしを育て上げ磨いて紡いでいくことが私たちの子どもたちにできる唯一のことではないかと私は思います。

まだ、やれることがある、遺っていることがあることに感謝して心して今一念、藁に向き合っていきたいと思います。

共生と安心

烏骨鶏がだいぶ育ってきて、声変わりもしてきました。最初はピヨピヨと可愛らしい鳴き声でしたが今ではコッココッコと大人の声です。私たち動物は、子どものころと大人になると声でも変わります。

身体も大きくなり、自立して移動範囲や生活範囲が広がっていきます。また体の持つ機能を上手に活かし、自然界をはじめそれぞれの社会生活の中で生きていく術と糧を得ていきます。

幼い頃は、親鳥がせっせと餌を運んででは大きくなるまで面倒をみます。この期間は、深い信頼関係を得る時間でもあります。

今回、よくなびいてくる烏骨鶏が一羽いて色々な機会に一緒に連れて外にいきました。言葉も意思もそんなにわかりませんが、安心して信頼しているのがよくわかります。人間も本来は、言葉や見た目、年齢、性別などがたとえ一緒でなくても深い信頼関係さえあればお互いに安心して共に過ごす仕合せを感じるものです。

今の烏骨鶏たちで4代目になりますが、長生きしているものには15年くらい生きているものがいます。オスの方が長生きで、メスをよく守ります。鶏の世界では、智慧としての秩序や序列があります。群れをよく守るものが周囲が認めるリーダーとなります。そして体調が弱いものや病気がちな鶏は敬遠され肩身が狭くなります。

自然界では厳しい環境で生き残るために、まずは自分のいのちを先に燃やすのを優先するということでしょう。しかし、人間が飼育するようになると自然界の厳しい環境が人間の助けによって柔和になっていきます。すると、人間と共生することの方の智慧が増えていきます。

人間がよく飼育する犬をはじめ、猫や鶏は人間によくなついています。また燕をはじめアシタカクモやヤモリやハエトリクモなども人間を恐れている感じではなく共生しているという感じさえします。トンボなども人間によく寄ってきます。人間が益があると思って共生してきた関係の中に、お互いの信頼関係や安心が継承されているのかもしれません。

共生という安心は、自然界を生きていくために私たちが得てきた最も大切ないのちの源泉です。人間に限らず、これは関係性の中にあるものです。例えば、植物や野菜ともこの共生や安心は結べます。

それは安心だという関係を結ぶまで、お互いが深く愛しあうことです。この愛し合う関係というのは、自然の恩寵であり宇宙の原点かもしれません。

そしてこの関係性の中に場があり徳があります。徳の場を磨いていきたいと思います。

優しい包丁

先日、代々刀剣を打つ鍛冶師の方から包丁を購入するご縁をいただきました。私の愛用の包丁は、玉鋼で打たれたものですが非常に滑らな切れ味で食材が美味しくなります。

以前、鍛冶師と出会う前はホームセンターなどの市販の包丁を使っていました。シャープナーなども合わせて購入して、切れなくなるとすぐに研いでいましたが長持ちせずにすぐに買い替えていました。

最初に包丁を換えようと決心したのは、松坂の研師とのご縁からです。研ぎの奥深さ、そして鍛冶師との関係、そして一生使う道具をお手入れしていくことの大切さを学びました。

玉鋼の包丁と出会ったのもそのあとです。日本刀を手入れするうちに、硬くて柔らかいしなやかな鉄のことを知り、鉄にのめり込んでいきました。もともと鉄瓶をはじめ、鉄はあらゆるところで日常的に触れていたので鉄を知るのにそんなに抵抗感もなく色々と深めていきました。

研ぎは、砥石を社員の祖父の伝来ものをいただきそれを用いて包丁を研いでいます。独特の砥石と鉄が交じり合う香りをかいでいると、心も静かに落ち着きます。

定期的に研ぎをしますが、綺麗に研ぎ澄まされた包丁は食材を大切に思いやっているのがわかるほどの切れ味です。

私は隕鉄で鍛造した日本刀を守り刀に持っていますが、以前手入れ中に誤って少し指先を切ったことがあります。その時は、熱いと感じるだけで痛みも一切なく、そしてすぐに傷口がふさがり治癒した体験があります。あの時、切る側だけではなく切られる側の気持ちも体験し、如何に切れ味のよいものには心が宿っているかを実感したのです。

包丁は、使捨てのものではなく最後の最後まで研いで使えます。自分の一代では使い切れないかもしれません。しかしそれをまた次の代が使っていきます。研ぎ切った小さな伝来物の包丁に触れたことがありましたが、まるで老木や長老のような優しい雰囲気で最期まで使われるもののいのちの尊さや美しさ、尊厳に大きな感動を覚えたことがあります。

私たちはすぐに物を買い、捨てます。しかし物ではなく、そこには使い手と用いて、そして道具との心の関りや繋がりが日々に産まれます。そういうものを大切にする心の中に、私たちは日々の心がけというものの生き方を学ぶように思います。

新たに出会った包丁ともこれから関係が増えますが、それぞれの古民家でおもてなしをするときの一つの個性になるように思います。出会いに感謝しています。

徳のある暮らし

暮らしというのは、いつもプロセスの中に喜びや仕合せがあるものです。スピード社会でプロセスを省いて結果さえ出せばいいことだからと結果ばかりをみんなで評価していたら暮らしもそのうち失われていくものです。本来の結果とは一つ一つが重なって時間をかけて結果が出てきます。しかし、現代はプロセスを如何に取り除いて早く結果を出すかが求められます。それが至上の価値だとも思い込み、企業もこぞって競争して早くそれを実現しようと躍起になっています。その結果主義の最たるものが学校で人間の教育の仕方にまでになっているのはとても残念なことです。

子どもたちは本来、プロセスに喜びを感じるものです。遊びというものもプロセスが楽しいから遊びこむことができます。もちろん、目標もあったほうが楽しくなることはあります。しかしそれはプロセスの大切さやそれを深く味わうために用いるもので楽しみや喜びを増すものだからです。

私は暮らしフルネスの中で、丁寧な暮らしをしているとよく周囲に言われます。いちいち、そのものの意味や価値、その意義を味わいながら取り組むからそう見えるのでしょう。実際に手間暇というのは、めんどくさいと思われますがその逆で実は自分も喜び、周囲も喜ぶ、自他一体の幸福の循環を生み出すものです。これを私は徳の循環とも呼んでいます。徳が循環するような世の中になっていけば、誰もが気が付けば丁寧な暮らしになってしまい喜びや仕合せを深く味わえるようになります。それは誰にでも今からでもすぐにできることです。

今の時代の空気感は情報社会でもお金を使うところでも効率優先、結果主義の便利さこそが至上の価値になっています。これは一言でいえば、「心を使わずに脳みそだけで処理する世の中」がいいとなっているということです。

私が提案している暮らしフルネスは、この逆で敢えて心の方を先に使い、心の豊かさが循環し徳が積める生き方を実践していくことです。これは単に丁寧な暮らしのことをいうのではなく、真心を盡す暮らしのことをいいます。

例えばお漬物を合成添加物や保存料、着色料を使わないから丁寧な暮らしをしているというわけではありません。もちろん、私が取り組む日子鷹菜は、そんなものは入れませんが大切なのは真心を籠めて取り組むそのプロセスや結果が単に丁寧な暮らしのようになったということです。

丁寧な暮らしを目指しているのではなく、真心を使うことを忘れないということを大切にしているのです。

似て非なるものもたくさんあります、これは脳が心にとって換わっているからです。情報化社会の中では、心まで脳で心風に処理されるからです。大切なのは、知ることではなく行うこと、知行合一に真心をまず実践することです。脳を使わないというわけではありません、まずは順番として心を用い、脳はそれに付随して活かすという具合です。それを日々の暮らしのなかで日常的に実践していけば脳と心のバランスは保たれ本来の謙虚さや感謝のままの自分でいつもいられるということです。

先人たちはそれを「徳のある暮らし」と呼び、一生かけてその徳を磨いて恩に報いたように私は思います。むかしのものは懐かしいものには、その徳の智慧の伝承が詰まっています。先人たちの生き方に習い、この時代も次世代につながっていることを忘れずに徳を伝承していきたいと思います。