教育の本質

私の人生を振り返って見ると最初に「教育」というものの本質に気づかせていただき、この道を教えていただいたのは吉田松陰先生だったように思います。もちろん、学校の先生には色々と教えていただきましたがはっきりと教育とは何かということを直観したのは松下村塾だったように思います。

17歳のころにその教育という愛に気づいてから、ずっと毎年欠かさず松下村塾へは参拝とご報告に伺っています。そもそも人を教えていくという道は、偉大な愛があります。愛を受けた生徒たちがその後もその愛に報いようと志を立て、己を磨き、學問に勤しみ修養し続けていきました。

肉体が滅んでも、心は燦然と輝き魂は永遠に生きているような至誠の生き方や後ろ姿に励まされ草莽崛起の立志の御旗は150年経っても色褪せません。まだ国防は終わってはおらず、何をもって国防とするのかということもまだ問の中です。

吉田松陰先生は、教育というものをこう定義しています。

「教えるの語源は「愛しむ」。誰にも得手不手がある、絶対に人を見捨てるようなことをしてはいけない。」

常に愛をもって人に接するというのが真の教育者ということでしょう。それは相手の徳性を深く厚く慈愛をもって見守っていく太陽やお水のような生き方をしていくということです。そしてこうもいいます。

「どんな人間でも、一つや二つは素晴らしい能力を持っているのである。その素晴らしいところを大切に育てていけば、一人前の人間になる。これこそが人を大切にするうえで、最も大事なことだ。」

「人間はみな、なにほどかの純金を持って生まれている。聖人の純金もわれわれの純金も、変わりはない。」

愛するというのは、条件をつけないということでしょう。大事なのは、自分が愛したかということであってそこに教育の本質があるように私は思います。

そして松下村塾というものの偉大さを感じるものにこの言葉があります。

「自分の価値観で人を責めない。一つの失敗で全て否定しない。長所を見て短所を見ない。心を見て結果を見ない。そうすれば人は必ず集まってくる。」

日本人の今まで伝承してきた教育のかたちは、「子どもたちを愛しむ」という真心にあるように私は思います。時代が変わっても、私たちの民族の中に脈々と流れているその伝家の宝刀を如何にこれからも大切に守っていくか。

これから日本がどのような状況に入っていくのかは混迷を深めていきますが、条件に左右されることなく子どもたちのために真心を実践していきたいと思います。

眼のバランス

私たち人間というのは、そのものの姿によって好悪の感情を抱くものです。毛虫の時は毛嫌いし、蝶になれば美しいと愛でようとする。その本体はどれも同じであっても、それを別物として認識しては好き嫌いを分けています。他にもイノシシなども売り坊の時は可愛いとなり、大人になったら気味悪いとなります。人間でも生きているときは美しいと思っても死んだら幽霊だと怖がります。

そんな当たり前のことをと思うかもしれませんが、これは本当に当たり前なことなのかということです。この世の中のあらゆるものは変化を已みません。その変化していく姿に私たちは思い込みで好悪感情を持ち評価しているものです。

先ほどの毛虫であれば、その毛虫が将来大変貴重で美しい蝶になると言われたら毛虫への感情も変わりその毛虫が好きになったりするものです。その逆に、醜い毒蛾になるといわれたらすぐに捨てるか遠ざけるでしょう。人によってはそれぞれに選り好みもありますからそれが好きな人もいるかもしれません。

何を言っているかというと、それは全てその人の偏見で観て感情も執着をもっているということです。

それが分かってくると、この好悪感情は一瞬にして変わってしまうものであることがわかります。例えば、銀杏の実が臭いと毛嫌いしていたものが一度炭火で焼いて食べて美味しいことが分かった瞬間から喜んで実を集めだすようになります。しかもそれまでの環境が反転して、臭いすらいい臭いに感じ、愛しく実が落ちるのを眺めるほどです。

結局何が言いたいかというと、好きか嫌いかというその人の偏見によってそれは裁かれますがそのものの価値はその人の好悪感情とは関係がないということです。

そうやって偏見を持たずに自然を見つめ直すとき、すべての自然にはそれぞれに尊い価値があり、お役目があり、徳があることに気づきます。小さな石ころであっても、鬱蒼と生えている蔓であっても、それぞれの本質がありいのちがあります。それをそのままに観えることができてはじめて人は、あるがままの味わいを感じることができるように思います。

そしてこの好悪感情というものがどれだけ現実に影響を与えているかを知ります。事実を歪め、本質を澱ませ、根源を忘れさせます。

好悪感情があることで、様々な感情の経験を体験でき私たちは臨場感をもってこの人生を謳歌していけることも確かです。しかし同時に、自然そのものの素晴らしさや不完全であることの美しさなども実感することでいのちが一体になって共生する豊かさを感じられ仕合せになることも確かです。

人間に眼が二つあるように、心の眼と情の眼をバランスよく重ねてそのどれもを丸ごと愛せるようになれたらいいなと思います。人間らしく自分らしくというのは、生きるうえで大切な羅針盤なのかもしれません。

引き続き、観るを省みて眼のバランスを調えていきたいと思います。

雨乞い

私の場の道場には、神社がお祀りされておりそのご神体に闇龗神がいます。これは八大龍王とも呼ばれ、私たちの先祖が代々お祀りしてきた神様です。特に私たちの住んでいる場所から一直線上に八木山の龍王山があり家の麓には八龍権現池があります。そして八大龍王神社がありその奥社には多田妙見神社があります。この神様が闇龗神です。

私たちの場所は、雨乞い神事を執り行うのに適しているところです。常に龍の気配を身近に感じて雨を祈ります。この雨乞いというのは、雨を降らす祈りです。

今では雨乞いなど遠い昔の過去の物語のようで誰も意識することはなくなっています。便利になった世の中で、各地には水道やため池が増え、治水もポンプなどで運営しています。雨に頼らなくてもある程度は人間の思い通りです。

しかし以前は、雨が降らなければどうにもなりませんでした。干ばつがくればすぐに食糧難、そして餓死です。また洪水が来れば同じく食糧難になり家もすべて破壊され疫病が蔓延し餓死です。雨の動向一つで私たちの暮らしは脅かされ、すぐに死が身近に訪れました。

そういう時、私たちは何をしていたかということです。現代は、地球の天候は極端になり世界各地で激しい自然災害が発生しています。一昨年の豪雨の体験では、私も英彦山で恐ろしいほどの川のような雨が降るのを体験しました。もはやこの規模になると、人智は及ばずただ祈るしかありません。

本来、雨乞いとは何かということを今一度思い出す必要を感じています。

雨乞いとは、雨を降ってもらおうとか雨を少量にしてもらおうと希ったものではありません。これは、適量適度に穏やかでいてくださいと祈ったものです。降らなければ問題であるし、降ってもも問題。だからこそ、ほどほどに降っていただきたいと願いました。少し足りないくらいでちょうどいいと願ったのです。

その真心は、穏やかで安らか、和やかに静かのままでという優しい祈りです。

私たちは自然災害を前にして、なぜこうなったのかを考えました。これは単に災害をスピリチュアル的に鎮めるという物質的な話だけではなく、心の在り方、心の持ち方のことも真摯に内省して自己を見つめる機会にしたのです。その証拠に、日本人は自然災害を前にするととても謙虚な心が出てきます。そしてみんなで助け合って道徳を実践します。

長い年月、自然と共に調和共生してきたからこそその心や生き方が自然に陶冶されてきたように思います。私は、毎朝、この闇龗神に御参りして祝詞を奏上しています。私は宗教には全く興味がなく、どこかの宗派に属する気もなければ入信するつもりも一切ありません。つまり無宗教です。

しかし信仰はあり、自然というものと調和したり畏怖を念を感じるとき深い反省といのりの気持ちが出てきます。そして先人たちが暮らしの中で大切にしてきた智慧としての祝詞や詩やお経、道具などは尊敬の念で勝手に使わせてもらっています。

他人に言わせると、数珠もって祝詞あげて法螺貝吹いてふざけるなと思う人もいるかもしれませんが、たまたまそれらの智慧にご縁で触れただけで、そのうち石もって水もって植物着て火を吹いてなど入ってくるとサーカスかと笑われるくらいになるはずです。でもこれは宗教ではなく、自然と人間の智慧と調和を暮らしで結ぼうとする私なりの「雨乞い」なのです。

雨乞いを今でもやっていくのは、いのちの根源に感謝しいつも穏やかで安らかに調和したいと願う生き方を実践していきたいからです。

子どもたちや子孫へ、自然との優しい関りがいつまでも継承されていくように私は私のやり方と生き方で真心を実践していきたいと思います。

場のハタラキ

場のハタラキというものがあります。これは自分が直接的に何かをしなくても、その場がその代わりにハタラキをするということです。これは別の言い方では、やるべきことは全てやってあとは運や天命に任せるというものにも似ています。

これは自分でやると小さな力でも、その小さな力で大きな力を引き出すということにもなります。テコの原理なども、小さな力で大きな力を使います。場のハタラキは、これにさらにもっと偉大な力を使うということです。

例えば、場には想いが宿ります。他にも時が宿ります。重力も宿り、引力も宿ります。他にはいのちが宿り精神が宿ります。つまりありとあらゆるものを器の中に容れて宿らせることができるのです。そしてその場は、目には観えませんが偉大な調和が生れその中で奇跡のようなハタラキをはじめます。これは、物事がなぜかうまくいったり、不思議なご縁を引き出したり、一期一会の見事なタイミングがあわせたりします。

なぜかその場にいけば、いつも物事が善いように運ばれる。なぜかこの場所に来ると心が落ち着き、不思議と話も仕事もうまくいくということが発生するのです。

それがそのようになるのは、その場を創っている人が中心にあるのは間違いありません。ではその場をつくる人は何をしているのか。それは日々に心のお手入れをして場を調えているのです。場を調えることで場のハタラキはさらに活性化していきます。そのためには、生き物に接するように、あるいは神仏に仕えるように謙虚に丁寧に実践していくしかありません。

私は場道家として、場の道場でこのような場のハタラキを研究し実践していますが次々に場のハタラキが可視化され、多くの人たちに感じてもらうようにもなってきました。私が取り組んでいるのは、単なる場所貸しではなく、場のハタラキを受けられる場を提供しているということでしょう。

1000年先の子孫たちに伝承されていくように、まだまだ長い時間をかけてじっくりと醸成していきたいと思います。

心を活かす生き方

中村天風先生という方がいます。この方は今から約150年前に誕生されのちに天風会というものを創設し心身統一法というものを生み出して多くの方々に影響を与えました。

私もはじめて志のため海外へ留学する際には、自分の弱い心を奮い立たせようと座右の書として何回も読み直しました。その後は、就職して営業職についてからもいつも名刺の中に中村天風先生の言葉をメモし仕事の合間の車内の中で何回も言葉に出して発していたことを覚えています。

その中で最も私が影響を受けたのは、積極思考というものでした。これは、消極的な生き方をしないということ。病気も弱い心もすべてはこの自分の中にある消極的な思考が引き寄せているというものです。

例えば、病気になるとだるいやきつい、熱があるなどから不安になったり心配事が増えて、そのうち治りも悪いと不平や不満ばかりがでてきます。本来は、その病気は自分の免疫をつけてくださっている大切なものであったり、自分を見つめ内省する機会いなったり、あるいは病気の治癒に専念できる有難い周囲の方々や両親をはじめ会社の人たちなどの存在があっているのです。不平や不満や不安や不信などが、消極的な生き方を育て、そのことによって永遠に病気の根源が治癒しないのです。それを積極思考にして絶対安心の境地に入る時、不思議なことに私たちは病気そのものの根源が絶たれるともいいます。

これは「生きる姿勢」の話でもあり、「心の在り方」でもあり、どんな今でも真摯に生き切ったかといういのちの根源との繋がりの話です。

天風先生はこう言います。「絶対に消極的な言葉は使わないこと。否定的な言葉は口から出さないこと。悲観的な言葉なんか、断然もう自分の言葉の中にはないんだと考えるぐらいな厳格さを、持っていなければだめなんですよ。」

消極的精神に対してのどうあることが積極的精神であるか、こういいます。

「どんな目にあっても、どんな苦しい目、どんな思いがけない大事にあっても、日常と少しも違わない、平然としてこれに対処する。これが私の言う積極的精神なんであります。」

常に平然と平常心で対処していく、それがまず積極的な精神を持つということです。そしてこうもいいます。

「運命だって、心の力が勝れば、運命は心の支配下になるんです。」

どんな状態であったとしても心の力が消極的なものの打ち克てば運命すらも心が支配できるというのです。そして心についてはこう言います。

「心も身体も道具である。」

道具のように大切に使い使いこなしていけば、いいというのです。だらこそ常に人生に対して、心と体を心身統一していこうといいます。

最後にこうもいいます。

「人生は生かされてるんじゃない。生きる人生でなきゃいけない。」と。

頭で知識で理解することができても、それを自分のものにするには常に日々の自己を磨き続けなければなりません。日々に様々な出来事が発生しても、それをどのように受け取り、心と身体を使って感謝や歓喜に換えていくのか。人生の醍醐味というのは、この小さな体験をどれだけ厚く豊かにしていくかということかもしれません。

子どもたちや子孫の仕合せのためにも、先人たちが人生をかけて遺してくださった生き方や知恵を実践で伝承していきたいと思います。

タイミングの中

まだまだ酷暑は続きますが、夜になるとコウロギや鈴虫などの音色が響いてきます。それに一部では銀杏の木も葉の色が黄色に移り変わり、桜の葉もほとんど落葉しているところもあります。

季節は全体として動いても、その季節に合わせてどう対応するかはそれぞれに異なります。桜といっても一本から個性があり、同様に虫にも動物たちにもそれぞれに自分にあった季節の対処というものがあります。

みんな同じようにと思い込んでいるのは人間だけで、実際には個体個体ですべて異なります。みんなに合わせていても、自分の身体には合わないこともあります。自然の生き物は、自分の身体感覚に正直でありその身体感覚に合わせるからこそ自分に最も相応しいタイミングというものがわかります。

私たちはタイミングというもの中に、季節だけではなく時機やあるいは死期というものまで直観するものです。タイミングとは中庸であり、最も相応しいことがわかるというものです。

そのためには周りに合わせていてはわかりません。自分の内面や身体感覚とよく向き合い、丁寧に自分というものと正対して調和していく必要があります。人間は無理をする生き物です。特に誰かのためにや、みんなのためにとなると余計に無理をします。無理をするとき、意識は自分の身体感覚からズレていくことがあります。なぜ無理をするのか、どこが無理をしているのかなど丁寧に向き合うことで何が自然体であるのかということに気づきます。

しかし自然体に気づいたとしても、自然体になるというのとは別のことですから自然体でいるための道を歩んでいく必要が出てきます。その一つには、認めることや恕すこと、諦めることなど色々な執着を手放していく努力があったり、あるいは自分の喜びに集中することや、徳を磨いていくことなどもあります。

自然の生き物たちは上手に自然の流れに従いつつ、調和しては季節の巡りと道を合わせています。タイミングに生き、タイミングに死にます。自然というものの素敵さというものはこのタイミングの中にあるということかもしれません。

引き続き、よくタイミングを内省しながら丁寧に暮らしを紡いでいきたいと思います。

場の徳

人は場を通して心を広げていけるように思います。それは波紋のようなものです。波紋は波動ともいえます。お山の中にいて、色々な生き物たちの音が聴こえてきます。この音は、波紋として全体に響きます。その音は、水の音や風の音、そして植物の触れる音、鳥の声、虫の羽ばたき、木々の揺らぎなどあらゆるものが自然の波動を合わせていきます。

その合わせていくものに心を寄せていくと、次第に境界線が取り払われ少し遠くで行われる波紋も感覚が拾うようになっていきます。身体の中にある様々な感覚と一体化していく感じです。それを感じていると、お山全体の波紋や波動を感じます。

たとえば、深夜の静けさに包まれているときのお山の状態。そして朝から昼にかけての状態、一日のの中で何度もその波紋や波動を感じます。すると、次第に自分がお山になっているのかのような感覚を得られます。すると、とても穏やかで静かな心になります。シンプルに心地いいのです。この心地よさというのは、心が地に着いているということでしょう。別の言い方にすると、落ち着いているということです。

心は場に落ち着くと、心は全体と結ばれていきます。心地よさというのは、波紋や波動が好循環して調和しているということでしょう。

お山には、そのような調和を司るいのちが宿っているようにも思います。お山にいき静かに瞑想をし、あるいは自然と結ばれると心が落ち着くというのはお山自体にそういう場があるからです。

その場をどう守っていくかというのは、如何にその靜けさを保つかということに他なりません。英彦山の宿坊で、ただ一人閑かに暮らしていると先人たちが何をこの場で取り組んできたのかが感覚的に伝わってきます。

先人たちが磨いてきた場の徳を、これからも大切に守っていきたいと思います。

守静坊の護符

今日は、一年のうちに7回しかないといわれる己巳の日と大明月が重なる日といわれます。この巳(み)とは、十二支の蛇のことで陰陽五行では土は金を生むということから蛇は金運、宝の神様とし弁財天のお遣いといわれています。また大明月というのは、暦では七箇の善日といわれ「物事の始まりを天が明るく照らしてくれる日」という意味があります。これが合わさった大吉日ということになります。

これから英彦山の守静坊で護符づくりを行います。この護符は、もともと御守りや魔除けとして太古の時代より伝承されてきました。今ではあまり護符や御札はその価値や意味も次第に薄れていますが、むかしは偉大な効果があるものとして人々の間で大切にされていました。これだけ悠久の歴史の篩にかけて今でも残っているのは、それだけの価値があるものだからということでしょう。

私は現在、英彦山で懐かしいお山の暮らしを甦生しています。護符づくりもその一つです。昨日から場を調え、周囲をお掃除し、隅々まで新しい湧水で拭き清めていき宿坊全体を清浄にしていきます。またこの場のすべてをご供養して室礼をし、供物などを捧げます。また護符用の和紙は、ご神木のサクラの木の下に一晩安置してサクラの徳が宿るようにいのります。

そして弁財天の祠をお掃除し、同様に供物を捧げ焼香や読経、法螺貝を奉納し場を清めます。私自身も食べものをはじめお酒も控え、麻やヒノキや和晒しで眠り早起きしてお水を換えて供物を調え火を入れて座禅をします。その後は、弁財天に祈祷をし前日同様なことを全て行い禊をしてから場をととのえます。この日は朝からは甘酒だけにし、鏡を磨いたあとは火と水と音だけで過ごします。

護符は、秋月の手漉き和紙ですが楮ではなくミツマタを使い今回は材料のところからこだわり何度も祈りを捧げながら半年かけて職人さんと共につくったものです。そして墨は200年前の固形墨を削ります。赤は辰砂を使い、龍脳の粉を少し混ぜていきます。そこに守静坊の汲みたての湧水を使い、版木は江戸時代のこの宿坊で伝承されてきたものを手で一つ一つ丁寧に押して力を篭めて入れていきます。

護符は丁寧に乾かし、最後に祭壇の前で法螺貝を吹き立てたあと大切に仕舞います。

ご縁のある方々がこの護符のご縁でさらによりよくなりますようにと真心を籠めていきます。よく護符は祈祷師の霊的力量次第ともいわれますが、私はそんな霊的力量に軸足を置かず、むかしの人たちが丹誠を籠めて丁寧に手間暇をかけて取り組んできたプロセスの方を尊重してつくるようにしています。

印刷機などの便利な道具で簡単にスピーディに大量につくれる時代だからこそ、長い時間をかけて、一つ一つの意味を噛み締めながら何一つ怠らず謙虚に真摯に真心を籠めて取り組むと不思議ですがそういうところにこそ神が宿るような気もしています。

そして己巳の日、大明日という大吉日に縁起を担ぐのも、このおめでたい日だからこそ「予祝」として先に叶うと丸ごと信じて、先人たちの生き方の実践し続けていきたいと思います。

暮らしの中の護符に感謝、おめでとうございます。

記憶と感情

懐かしい写真を整理していたら幼馴染の誕生日を祝う動画が出てきました。今から12年前のものです。そこでまだ生前の声や雰囲気が感じられ、仕合せそうな姿がありました。

私たちはむかしの映像や記憶をそれぞれの思い出として心に宿しています。ほとんど思い出さないようなシーンであっても、映像や写真を観るとその時の情景が甦ってきます。

この時の情景は、その時の感情によって変化します。嬉しい時に見れば嬉しい感情が増幅し、悲しい時に見れば悲しさが増幅します。私たち人間は、感情がありその感情に様々な記憶が揺さぶられ記憶が鮮明になっていきます。

感情は常に記憶と結ばれていて、私たちはその記憶と共に感情を顕すのでしょう。思い出したくないものや、これ以上記憶したくないようなことがあれば感情が途切れることもあります。

それくらい感情は記憶とは切り離すことができないものです。最近、テレビや動画が便利にいつでも見れるようになり脳が記憶のように認知しているものがあります。心から顕現してくるような記憶ではなく、頭で映像を見ているようなものです。映画やドラマのシーンなどもまるで記憶にアクセスしたかのように鮮明です。

私たちは他にも夢を見ます。これは寝ている時の夢のことです。この夢もまた、記憶の一部が顕現したものです。まるで別の未来や別の過去があったかのように自分の経験してみてきた記憶が別のものに改造されています。

すると同時にまた別の感情が呼び覚まされます。私たちの感情は記憶であり、記憶が感情そのものをつくっています。つまりは、記憶を甦生するのは感情であり感情があるから記憶が常に新しくなっているということでしょう。

そして感情はすべての生き物にあります、それは無機質のものにも存在します。小さな虫でも、あるいは動物でも夢を見ます。これは私が観察してきた犬やクワガタでも夢を見ていました。何を見ているのだろうかと思うとき、記憶を観ていたことを感じました。

私たちの正体は、この記憶の中に存在するということなのかもしれません。

日々の暮らしは、記憶の再現です。感情を丁寧に調えて、記憶を磨いていきたいと思います。