雨乞い

私の場の道場には、神社がお祀りされておりそのご神体に闇龗神がいます。これは八大龍王とも呼ばれ、私たちの先祖が代々お祀りしてきた神様です。特に私たちの住んでいる場所から一直線上に八木山の龍王山があり家の麓には八龍権現池があります。そして八大龍王神社がありその奥社には多田妙見神社があります。この神様が闇龗神です。

私たちの場所は、雨乞い神事を執り行うのに適しているところです。常に龍の気配を身近に感じて雨を祈ります。この雨乞いというのは、雨を降らす祈りです。

今では雨乞いなど遠い昔の過去の物語のようで誰も意識することはなくなっています。便利になった世の中で、各地には水道やため池が増え、治水もポンプなどで運営しています。雨に頼らなくてもある程度は人間の思い通りです。

しかし以前は、雨が降らなければどうにもなりませんでした。干ばつがくればすぐに食糧難、そして餓死です。また洪水が来れば同じく食糧難になり家もすべて破壊され疫病が蔓延し餓死です。雨の動向一つで私たちの暮らしは脅かされ、すぐに死が身近に訪れました。

そういう時、私たちは何をしていたかということです。現代は、地球の天候は極端になり世界各地で激しい自然災害が発生しています。一昨年の豪雨の体験では、私も英彦山で恐ろしいほどの川のような雨が降るのを体験しました。もはやこの規模になると、人智は及ばずただ祈るしかありません。

本来、雨乞いとは何かということを今一度思い出す必要を感じています。

雨乞いとは、雨を降ってもらおうとか雨を少量にしてもらおうと希ったものではありません。これは、適量適度に穏やかでいてくださいと祈ったものです。降らなければ問題であるし、降ってもも問題。だからこそ、ほどほどに降っていただきたいと願いました。少し足りないくらいでちょうどいいと願ったのです。

その真心は、穏やかで安らか、和やかに静かのままでという優しい祈りです。

私たちは自然災害を前にして、なぜこうなったのかを考えました。これは単に災害をスピリチュアル的に鎮めるという物質的な話だけではなく、心の在り方、心の持ち方のことも真摯に内省して自己を見つめる機会にしたのです。その証拠に、日本人は自然災害を前にするととても謙虚な心が出てきます。そしてみんなで助け合って道徳を実践します。

長い年月、自然と共に調和共生してきたからこそその心や生き方が自然に陶冶されてきたように思います。私は、毎朝、この闇龗神に御参りして祝詞を奏上しています。私は宗教には全く興味がなく、どこかの宗派に属する気もなければ入信するつもりも一切ありません。つまり無宗教です。

しかし信仰はあり、自然というものと調和したり畏怖を念を感じるとき深い反省といのりの気持ちが出てきます。そして先人たちが暮らしの中で大切にしてきた智慧としての祝詞や詩やお経、道具などは尊敬の念で勝手に使わせてもらっています。

他人に言わせると、数珠もって祝詞あげて法螺貝吹いてふざけるなと思う人もいるかもしれませんが、たまたまそれらの智慧にご縁で触れただけで、そのうち石もって水もって植物着て火を吹いてなど入ってくるとサーカスかと笑われるくらいになるはずです。でもこれは宗教ではなく、自然と人間の智慧と調和を暮らしで結ぼうとする私なりの「雨乞い」なのです。

雨乞いを今でもやっていくのは、いのちの根源に感謝しいつも穏やかで安らかに調和したいと願う生き方を実践していきたいからです。

子どもたちや子孫へ、自然との優しい関りがいつまでも継承されていくように私は私のやり方と生き方で真心を実践していきたいと思います。