場を調える意味

明治以降、日本人は様々な暮らしを大きく変化させていきました。特に大きく変化したのは、自然との関係です。自然をコントロールしようとし、自然と共生してきた智慧を捨てていきました。もう150年も経てば、ほとんど人は亡くなっていますからその当時がどうだったかのを語る人もいなくなります。

ではどのように変えられてきたかに気づくのか、それは暮らしを深く見つめると実感するものです。例えば、それまでに使われてきた道具をよく観察します。明治以前の人たちが、どのような道具を使ってきたか。包丁一つとっても、石臼一つとっても、いのちが壊れないように、自然が傷まないようにと配慮したものばかりです。現代は、錆びない研ぎもいらない包丁ですし全自動電動ミキサーなどになっています。

手間や暇や時間をかけないことが良しとする考え方に換えているのがわかります。それにいのちのようなものよりも、見た目だけ整えていればいいという考え方になっているのもわかります。自然物から人工物へと物との接し方も変わります。つまり自然との暮らしよりも、人工的な生活に転換してきたということです。

都会などまさに人工的な生活をする場所です。自然物はほとんどなく、すべて自然は人工的なコントロール下にあります。これはすべて金融経済を優先する仕組みで成り立っています。人類は金融経済を優先するために、あらゆる自然物からお金に転換し搾取をするという構造で世界のグローバリゼーションは進化させていきました。小さな範囲で行われていた時はまだしも、地球上のありとあらゆる場所でそれを進めてきましたからもはや地球に自然の共生していた場所はほとんど失われてきました。いつ終わりが来るのが誰にもわかりませんが、壮大な文明実験をしているということでしょう。

かつて、人類の文明は歴史を観ると何度も滅んでいます。その滅んだ理由も、様々ですが根本は人類の欲望との調整です。飽くなき欲望の果てに、人間はすぐに謙虚さを失います。自然災害が来ることも忘れて、気が付くと自然の猛威の前に立ち尽くすだけです。

自然災害というものは、実は人造の災害であるというのはわかります。もともとあると思っている人間は謙虚に暮らします。それがないと思ったところから問題が発生します。

映画でも地球滅亡などをテーマにしたものがたくさん出ていますが、どれもハッピーエンドで救われるものばかりです。実際に暗くなっても仕方がないということでしょう。しかし明るいか暗いかが重要なのではなく、やっぱり謙虚かどうかということが肝心ということでしょう。

謙虚さというのは、自然を身近に感じる暮らしをし続けていれば忘れないものです。自然のリズム、自然の持つ壮大な循環の中にいると、如何に自分がそのちっぽけで同時に偉大な一部であることを自覚できます。

その安心感と有難さを覚えるとき、人は欲望との調和が保たれます。欲望を助長していくだけの環境ではなく、調和が保たれる環境、つまり「場」をどれだけこの世に実現させていくかが子孫のためには大切になっていくだろうと私は思います。

子どもたちのためにも、今いる自分の場を調えて場からこの世界を改善していきたいと思います。