私たちはかつて循環型の暮らしを磨き上げていました。伝統文化に触れれば触れるほどにそれを感じるものです。例えば、藁という素材。これは稲作と一緒に循環するものですが、数々の藁細工をはじめ暮らしの道具がこの藁から誕生しました。むかしの稲作は、そのどれもが稲を大切にして稲に守られるような思いやりが循環しました。

これは稲に限らず、竹なども同様です。自然界にあるもの、身近な暮らしにあるものはどれも大切にされ暮らしの中で用いられました。まさに、自然の巡りと一緒一体になった心安まる暮らしがあったのでしょう。

現代は、ほとんどが使い捨てです。またかつての自然物を循環する暮らし自体が失われています。先ほどの藁であれば、稲架けをする農家も減ってきました。稲架けとは、収穫した稲わらを逆さにして吊るして登熟させる方法です。むかしは登熟させるのに乾燥機を使わずに天然の太陽と風で天日干しをしていました。今は機械で刈込み藁はそのまま田んぼへと返します。むかしは鎌で手刈りでしたからどの農家もみんな稲架けしていました。

そして脱穀した後の藁があらゆるものに使われるのです。ある時には、屋根に、ある時には長靴や草鞋に、そして神事や行事のしめ縄やゴザにあらゆるところに活かされました。そしてそれは自然に還り、見事なまでに土壌の肥料などにもなります。

お米は単に食べるためだけの「モノ」ではありませんでした。まさに共に循環型の暮らしをする最高最大のパートナーだったのです。そのパートナーを単なるモノのように接するようになってから、田んぼは力を失いました。

日本の田んぼは、本来は日本人の元氣の根源であり至高の場でした。

次世代のことを思うと、心が痛みます。国家や金融の奴隷になりひたすらに循環しない生活を追い続けた先に懐かしく美しい暮らしは遺っているのでしょうか。一度、やめてしまえば伝統や伝承はなかなか甦生しません。だからこそ遺っているうちに、ちゃんと継承し新たな美しい暮らしを育て上げ磨いて紡いでいくことが私たちの子どもたちにできる唯一のことではないかと私は思います。

まだ、やれることがある、遺っていることがあることに感謝して心して今一念、藁に向き合っていきたいと思います。