三つ子の魂

三つ子の魂という言葉があります。昨日、心のふるさとは三つ子の魂という言い方をブログでしたので改めてこの心のふるさととの関係を深めてみようと思います。

元々、私たちは幼児期の子どもを何もできない存在として認識するのか、あるいは赤ちゃんをはじめ完全な存在として認識するのではその価値観が逆転します。私は後者で、産まれてくるときに完全に全てをもって誕生してくるという考え方です。

これは現在の研究でも証明できていて、脳のシナプスの状態などを調べると生まれたてが最大であとは刈込といって自分が望まない能力や機能を捨てていくといいます。何もできない存在が知識でできるようになるのではなく、完全である存在が要らない能力を捨てていくことで元々ある力を残していくことでこの世の中に適応していくというのです。

そう考えてみると、幼児期というのはすべてを持っている完全体でありその時の心の在り方がその人の元の存在ということになります。その元の心に何があるのか、そこに三つ子の魂があるということでしょう。この三つ子というのは、決して三歳までのという意味ではなく原初の、あるいは元々の魂という言葉の方です。

最初にあった魂をそのまま持っていて、それを人生の最期までやりきっていくことでその人の一生を全うするということでしょう。

しかしその魂が全うできない理由が刷り込みというもので発生します。これは初心な存在に別の認識を与えて外から違うものとして認識させていくということです。動植物であっても、人が飼育すれば別の物になっていきます。それは意図するものに変換していくということです。

そのままあるがままがいいと育てていけば、後は人格を磨いて自己良知を高めていくことで教養が身に着きます。そのためには、心のふるさとを持ったままでその後の人生を歩んでいく生きる力を見守っていく必要があります。現代は、この逆をしていて心のふるさとよりも知識や技術、型にはめていくような金太郎飴のような汎用型を育て、あるいは今の世の中で金銭的や地位や名誉が成功するように刷り込んでいく。都市化され合理化された環境の中に、懐かしいものは後回しにしてきました。

本来、私たちはこの三つ子の魂は先祖代々で継承してきたものです。懐かしい暮らしをしていれば、年齢問わずそこに居心地のよい何かを感じます。そういうものを場として用意していなければ、私たちは大切な三つ子の魂を忘れてしまいます。

この心のふるさとを思い出すということは、今の時代、何よりも重要でそれをどう今の教育の中核に据えるかが日本の未来、子孫たちの仕合せに大きな影響があるように私は思います。

引き続き、暮らしフルネスを通して心のふるさとの場を醸成していきたいと思います。

心のふるさと納税

先日からふるさと納税のことを色々と深めていますが、改めて気づくことがたくさんあります。そもそも納税の意味合いから考えていくと、何のために納税するのかということから見直す必要が出てきます。日本では、日本国憲法30条に国民は、法律めるところにより、納税義務ふ。」と記されます。国の発展のために、納税は義務ということです。その税金がどう使われているかが問題で、税金を納めることは共生協働社会を生きていく上において確かに役に立ちます。

会社でも税理士がいて、しっかりと納税を管理してくれています。私たちが日々に生きていると、あらゆるところに税金がかかります。相続税などもですが、税金というのは私たちの暮らしにとても大きな影響があります。

ふるさと納税は、納税と書いていますが実際には都道府県、市区町村への寄附です。納税というのは行政側からの視点で、実際には税年収や家族構成などの条件で決まる「上限額」までは寄付金控除という制度がありその年の所得税や翌年の住民税が減る仕組みです。これは実質的な自己負担額2000円で寄付先の自治体から寄付額の最大30%相当の返礼品をもらえる制度となっています。

最近では、そのポータルサイトもヤフーや楽天など便利な返礼品選びのウェブショッピングサイトのようになっていてみんな寄附や納税のことよりも如何にお得に返礼品が手に入るかを躍起になって探しています。所得が高い人の方がより得をする仕組みで、所得が低いとほとんど所得税や住民税が減ることもないので使いません。つまりお金を持っていない人は得をしないという制度です。この「得」という字を使っているからずっと損か得かばかりを考えます。もしこれが「所徳」であれば、寄附の意味合いも変わり喜捨や布施という日本古来の精神性に回帰できると思いますが。

話を戻せば私たちの住んでいる飯塚市もふるさと納税で毎年全国10位以内に入る自治体です。特にハンバーグが有名で、私たち飯塚市民も一度も食べたことのないどこぞのハンバーグが飯塚市の有名な商品のように大量に全国へ返礼品として発送されていきます。他にも飯塚市で日頃実感することもない高額のスーツやコーヒーなどもです。

そもそもこの「ふるさと」という言葉も少し厄介です。私は子ども第一義の理念で子どもの仕事をしていますからよく「心のふるさと」という言葉を使います。この時に使っているふるさとと、ふるさと納税のふるさとは同じ響きでも定義は全く変わります。

私がよく認識している古語のふるさとは、懐かしい心の居場所のことです。この「懐かしいものがある」ところが本来の「ふるさとがある」ところということです。私は現在も故郷に帰り日本の未来の子どもたちのために心のふるさとを甦生しようと日々に挑戦をしています。古民家をはじめ伝統在来種や文化伝承などすべては、その懐かしい未来をどう創造し、子どもたちの心のふるさとを譲り遺していけるかと徳の循環に取り組むためです。

先ほどのふるさと納税は、ふるさとという意味でも単に一度は訪れたことのある古い場所くらいの意味しかありません。そしてショッピングサイトの方においてのふるさとの定義もまた、その場所で売られているお得な返礼品くらいのことしかありません。

これでは、かえってふるさと納税をすることで懐かしい未来が喪失していく可能性があるように私は思います。目的がお得ではなく、もしも恩徳ならどう考えるでしょうか。本来の懐かしいふるさとに寄附をするとはどういうことが理想なのか、それはふるさとの中に「心のふるさと」が入っていることです。この心とは、「懐かしいものがちゃんと次世代や未来へと結ばれていくような徳に喜捨していくこと」だと私は感じます。そうやってかつての近江商人をはじめ、二宮尊徳氏など偉大な日本の先人たちは子孫のためにふるさとを発展させてきたのです。

未来のずっと先々の子どもたちのためにというモノサシで観てみたら、何を最も優先して取り組んでいくのか。当然私は、これからも子どもたちの未来のために心のふるさとへと納税していきたいと深く思います。

新たな試みを始める前に、ちゃんと本来の姿を鑑みて理念を調えておきたいと思います。

地域?

地域というものは何をもって地域と定義するのか、一般的にはある一定の範囲内における地理的なエリアのことをいいます。しかし、私たちがよく使う地域が失われているという言葉や地域が機能しているなどという言葉はただの一定の地理的なことを話しているわけではありません。

ある時は、循環のことをいい、またある時は心のふるさとのことをいい、またある時は伝統や伝承などの文化のことを指します。つまり、地域というのは地理だけではなくもっと立体的な存在であるということです。

地域というのは、元々は私たちが暮らしを通してその暮らしを成り立たせているエリアのことです。最初は、山の中だったかもしれませんし、その麓の小さな集落だったかもしれません。それが次第に大きくなり日本全体になり都市化されていきました。この都市化というものは、先ほどの地域という言葉の反対にあるものです。

都市化された都会は、合理的で貨幣経済の活動を中心にした場所です。そこに心のふるさとを求める人は少ないと思います。もちろん都市化といっても、下町や長屋があったところは都会でもあの地域は十化など呼ばれ、先ほどの文化なども存在します。

これが失われていくのいが都市化といってもいいかもしれません。都会にもまだこんなところがあったのかと、過去の遺物のようになっているのがこの地域でもあります。

実際には、田舎のことや地方を地域と呼ぶ人もいますが今では田舎や地域も観光や工業地帯が広がりあまり地域というほどではありません。特に、稲わらなどの循環もあるわけではなく、心のふるさとのような暮らしもなく、伝統や文化も廃れていれば小さな都市化された場所というだけです。

私たちが都市化していくのはなぜでしょうか?世界人口の55パーセントは都市に住みます。つまり地球にいる人類の半分以上は、ある一定のエリアに集中しているということです。

通常なら砂漠のオアシスに動植物が集まっているというのはわかりますが、砂漠のような場所に人口が集中しているというのは可笑しなことです。工業化されていくと、工業地帯に人が集まるように都市に人は集まるのです。そして永遠に際限なく不足を探しては増産を続けます。これが現代の状況です。

私がなぜ暮らしフルネスを故郷で実践するのか、そして子どもたちの未来のために場を遺そうとするのかは、遠い先の未来を省観て、近くをあまり見ないようにするためです。

時代と逆行しているように見えても、実際には地球のリズムとはピッタリです。

引き続き、折り合いをつけながら新しい挑戦と成長と安らぎを続けていきたいと思います。

植物との関係

最近、少しずつ薬草を暮らしの中に取り入れています。人は意識次第でどうにでも見えるものが変わっていくものです。今まで雑草として思っていなかったものが、暮らしに取り入れていくとそれが次第に薬草に見えてきます。薬草を見ていると、よく植物の一生の観察をしていくものです。

どの時期にどう採取してそれを取り入れるのか、その方法は様々です。新芽のままに使うものもあれば、乾燥して用いるもの、あるいは粉にしたりするもの。形状も工夫できます。また、ある植物はすりつぶしたまま貼ったり、塗り込んだり、あるいは飲んだり、蒸留して湯気にして呼吸で吸ったり、蒸したり燃やしたりとそれも色々とあります。

むかしの人たちは植物のもつ偉大なエネルギーや人体との影響をよく観察していたように思います。そしてその土地の持つ元々の力を直感し、それを上手に取り入れることで調和していったのでしょう。

まだ今のような物質的な科学があまり存在しなかった時代、ではどのようにその効能や効果を発見したかということです。

1つには、観察力というものがあります。むかしの人たちの観察力は今よりも大きく優れていたように思います。どのような小さな微細な変化も見逃さず、ありとあらゆる角度から研究しています。長い時間をかけて、じっくりと丁寧にやっていたのでしょう。

また1つには、体験や経験からの洞察です。五感をフル稼働して、そのものがどのようなものかというのを直観から洞察するのです。自然の特徴や、気候や風土の智慧を組み合させてそのものの存在をつかみとったように思います。

つまり私たちは科学の前に、五感や直観や洞察というものがありその鋭敏な感覚によってあらゆる自然の叡智や治癒を学んでいたということになります。

今では薬も、薬が病を治すと信じ込まされています。本来は、病は自分の自然治癒力で治すものです。薬はあくまで自然治癒力を整えたり援助したりするものということでしょう。薬は、本来は毒です。毒も病に入る時、浄化するために活用されます。これは腸内細菌の善玉菌と悪玉菌などとの関係と似ています。発酵も腐敗ですし、腐敗も発酵です。その両方を上手に調和させるところに中庸があり健康もあります。

むかしの人たちは智慧をもってその方法を自覚していたのでしょう。植物をさらに深めつつ、暮らし方、生き方を磨いていきたいと思います。

 

稲の循環~和の伝承~

カグヤでは今年も無事に稲刈りが終わり、有難い収穫を味わいました。御蔭様で13年ほど、無肥料無農薬のむかしの田んぼでは田んぼの元氣も増え、収量も同時に増えて味わいも格別です。ある大学とご縁があり、うちのお米を調査したら抗酸化力が通常の有機農法のお米よりもさらに2倍ほど高いと大変驚かれていました。

田植えから草刈り、稲刈りとご祈祷、丁寧に暮らしをととのえていくだけで収量もよくなる不思議な田んぼとして周辺の農家からも驚かれているそうです。

もともと稲というのが循環の象徴でもあります。稲わらもむかしから生活の中に溶け込む藁製品になっていきました。例えば、草鞋やゴザ、鍋敷きや藁ぶき屋根、納豆づくりや芋の保存、他にも神事のしめ縄などにも使われてきました。捨てるところは何一つなく、まさに稲は日本人のむすびや繋がりの循環を支えてきたのです。

今では、稲藁を用いた繋がりは減ってきています。それは機械化や合理化によって、みんなでお米作りをすることをやめたことや効率優先で農薬などを用いるようになったこと、そして収穫した稲藁はそのまま裁断して田んぼにまいてしまうことなどから地域や人々との結びつきも希薄になりました。

私たちはお米を食べますが、先人たちは単なる「食べ物」ではなくそれ以上に「和の精神や生き方を体現する存在」として稲を尊い存在にしていたように思います。

子どもたちは現在、稲刈りを経験することもなくなってきています。またお米がどのようにできて、本当に美味しく食べる機会もなくなってきました。私たちの挑戦の一つとして竈で炭火で炊いたお米を毎月一度、保育園で炊いて子どもたちに食べてもらうような研修をしたところがあります。今では、園の大切な行事として伝承するところまで来ています。

お声をお聴きすると、子どもだけでなくそれだけで地域との結びつきが増えていったと喜んでいただきました。長い時間を経てきた和の伝承を、私たちも一緒になって次の世代へと結んでいきたいと思います。