真の調和

調和というのは、渾沌のことです。これは自然そのものの姿です。自然は常に調和していますが、その意味は自然は常に渾沌としているということです。そしてその自然を感じるとき、私たちは渾然一体となっています。この渾然一体こそ、私がイメージする徳の本体であり徳を可視化顕現するときの様子です。そしてそれを「場」によって実現するのです。

場というものは、その中にあらゆる個性や持ち味のものが混じりあいます。無秩序で混沌とするのです。しかしそれは別の観方をすれば、それぞれの個性や持ち味が活かされているということに気づきます。そしてそれを味わうとき、私たちはそのものに徳が具わっていることに気づきます。同時に、自分の徳をあるがままに認めることができるのです。

世界や人類は、この渾沌を否定し、調和を別の意味に置き換えて刷り込みました。具体的には、みんなに合わせて大人しくしていることを調和などと教えます。自分あるがままを否定し、周囲に合わせて自分を消していくのです。そんなものは調和ではありません。私は徳積をライフワークにしていますから、自分らしく自分のあるがままで言行一致の生活を心がけています。すると、それは周囲からは変人や尖がっている、またある人からは狂っているとさえ言われますが私に言わせればそれはお互い様でしょうと思います。

みんな自由でいいといっても、自由を優先すると以上のように周囲に合わせないことを否定され、時には自分勝手にやっていることが周囲に嫉妬されるものです。しかし自らが自然の渾沌を否定したら、自然は不自然になりその分、分かれていくばかりで渾然一体に入ることはありません。

この肉体をはじめ、私たちはすべて渾然一体です。ありとあらゆる臓器をはじめ、腸内の菌類もすべて渾沌としたなかにいつも存在しています。その渾沌を否定して、もし臓器を一つの機能だけにしたり、腸内細菌を一つだけにしてあとは全部殺菌したらどうなるでしょうか。そんな馬鹿なことをする人はいませんが、実際には都市化された日常の中ではそれを誰も疑わずに常識だと周囲に押し付けようとします。

あらためて今こそ、人類は原点に帰りこの渾然一体であることの大切さを學び直すときに入っているように思います。世界大戦戦争前夜で、戦争はやむなしとその後の世界を語る人もいますが、それもまた渾然一体を否定して調和を歪ませているだけではないかと思います。

一人一人が、日々の暮らしの中で真の調和を実践することで世界は変わっていくものです。徳の世にするというのは、渾然一体の自然の叡智を生きることです。

子どもたちのためにも、自然に寄り添った共生と渾然一体になるような場を磨いて伝承していきたいと思います。

治癒の徳

自然治癒というものがあります。これはもともとすべてのいのちは治癒する力を持っていてその力によって自ずから治癒するということです。この治癒は、人体であれば自らの自然免疫力で病気を治癒するのと同じです。

一般的には私たちは刷り込みがあり、治癒は病院の先生や薬がするものと勘違いするものです。しかし実際に病院の先生は診断をし知識や技術があるだけで薬は実際には毒でもありますから治癒するのは自分の力で行っているものです。

つまり自然治癒というのは、元来産まれながら具わっている治癒力によって行われているものということです。これはすべてのものが宇宙の一部であることの一つの証明でもあります。

私たちはこれを自然でも同じように行います。自然こそ自然治癒の存在そのものです。自在自由に自然は全てのものを治癒します。人間がたとえ人工的に自然の治癒を破壊し続けたとしても自然はいつかは元通りに治癒します。それは宇宙の仕組みであり自然も地球も一部だからです。

現代の病気の治療のように、人間は自然を科学的な見地によって「人工的に治癒しよう」とします。そもそもこの治癒というのは人工的にはできないものです。せめて加工という言い方の方が近いように思います。事実は治癒そのものは人間の限られた知識でするものではなく、自然の叡智で治癒するのをお手伝いすることしかできません。叡智には人間は敵いません。そして人間は自然の一部ですから人間が治癒されることによって同時に自然も治癒します。

人類が治癒することの根本に気づけば、人間は自然と共生をはじめます。自然と共生するからこそ、自然治癒を一緒に助けていくことができるのです。病気というのは、この治癒の根本を忘れてしまい治癒を誤解し治癒できる気になっていることです。治癒は自然の営みです。

よくよく自然を観察すれば、治癒する力は膨大に私たちの全生命に降り注いています。それが自然では水をはじめ土、火や光などに姿を変えて治癒を感じます。

真の治癒をどう人間が思い出すか、そのために治癒に気付ける仕組みが必要です。暮らしの中で、その治癒の徳を実践していきたいと思います。

捨てるということ

人生は選択の集積ですが、そこで要らないものを捨てていくという作業をしています。自分には要らないと思うものを捨てていくのですが、実際には捨てれないものばかりが出てきます。この捨てるというのは、磨いて削るということでもあります。実際には、簡単に手放せるものではなく何かのたびにそのものと正対してそれを体験し、そこで学んだことを糧に自分を変えていくということです。

つまり人は一生懸命に、自分の初心を貫いていくように生き方を定め道を歩めば自然に磨かれて削られていく。その最中、私たちは何かを捨てているということになります。

そして同時に拾うというものがあります。この拾うというは、新しい発見やご縁に恵まれるということです。私たちは、自分という玉を磨いて光らせていけばいくほどに余計なものを捨てていき、同時にその光によって新たなものを反射させていくことで拾うということです。

人が手で持てるものはほんの少しです。いくら持とうとしても自分にもてる限界があります。では何を持つか、いや、何を持たないかということです。その持ち方においても、ずっと持つや、大切に持つや、一端持たないか、持つことを忘れるかなど、色々と経験します。そうやって、捨てることや拾うことの他に捨てないや持たないなどということも学びます。そして、持させていただいていると境地や、捨てさせていただく、拾わせていただくといった磨き方にまで発展していきます。

この要らないものを選択するという行為は、磨き方に結ばれ、ただひたすらに磨く喜びに出会い続ける道です。

磨く喜びは、毎日、この今、一瞬の中にあります。どのように磨いていくのか、そして磨きたいかは、その人の一生をずっと彩りますし、その磨いた光は子孫代々まで続いていきます。魂の本体は、この光にあり磨く中で自覚するものかもしれません。

徳を學ぶということは、シンプルに言えばこの磨き方を學ぶということでしょう。

子孫のためにも、今を丁寧に磨いてすべてから學んでいきたいと思います。

秋の場

よい場というのは時間をかけて醸成していくものです。場づくりというのは、そこにどれだけの心で正対してきたかという思いの集積があります。澄んだ心で接してきたなら、その場は澄み切っていきます。逆に澱んだ心でその場にいけば澱んだ場ができてきます。場を調えるとは、お掃除やお手入れ、また配置や布置を丁寧に直し、ありとあらゆるいのちを感じて感謝していくなかで実践していくものです。

長い時間をかけて取り組めば取り組むほど、場は揺らぎません。場が揺らがなくなると、自分もまた揺らぎにくくなっていきます。その理由は、場が応援してくださっていくからです。場が応援するというのは、場が変化し場が主人を助けようとするからです。

これは家でも同じです。家というものを、一つの生命体と思いいつも気をかけてお手入れを続けていくと家が落ち着いてきます。これは家がその家族と一体になっていくからです。これは家でなくても部屋でもできます。部屋を調えるのは先ほどのいのちへの感謝と同じです。まずは、いのちを感じているかということが重要です。

私たちは無機質な物質であっても、まるで生きているものとして接することができます。そうすることで、不思議ですが無機質な物質が物質ではなくなり生きている存在のように変化していきます。これは場づくりの基本です。そして感謝をすることで、また丁寧にお手入れをすることで関係が結ばれていきます。

お互いに思いやり結んだものを大切にお手入れしていけば居心地がよくなります。居心地のよさは、お互いの思いやりや感謝が循環しているということです。これを徳ともいい、私たちは暮らしの中でその徳を磨いて自他や子孫の仕合せを生きてきました。その道具たちは、今でもたくさん遺っています。

私の身近には、大切にされてきた道具たちがたくさんあります。その道具を、また丁寧に磨き直し、持ち味を活かし、新しいお役目を共に喜び合います。その時、場が一斉に喜び、応援してくれるのです。

いのちは、新たな役割があればそれを受け容れ燦然と輝きます。すべては全体快適であり、自然や宇宙は役割交代や役割循環を楽しんでいるかのようです。

季節は廻り、秋になります。秋は秋の美しさ、喜びがあり、先人たちは深く秋を愛しました。秋の場を、調えていきたいと思います。

ブロックチェーンアウェイクニング

飯塚にはブロックチェーンアウェイクニング(BA)場があります。ここにはブロックチェーン技術を見守りお祀りする妙見神社もあり、マインドフルネスをはじめ心身が調う環境が用意されています。

もともとこの場所は、私の先祖代々の土地ですが遠くには龍王山を望み近くには八龍権現池があり、高台にあるため風の通りがよく広大な空が眺められるようなところです。

このブロックチェーンアウェイクニングというのは、ブロックチェーンの目覚めという意味です。これは単なる技術だけを磨く場所ではなく、その在り方や生き方、その本筋を見極めようとする意味があってその名前にしています。

世間でよく評されているブロックチェーンは、一般的には分散型か中央集権型かと比較される技術ですが私はそのどちらかではなく、中庸でありいのちが輝くような全体快適なものであると感じています。白か黒かではなく宇宙のような発想ですが、そもそも目に観えないものをどう技術で可視化していくかが科学技術の発展ですから目に観えないものを語っても何ら問題はないはずです。

そしてこの目には観えないものを観えるようにするのに「場」が必要なのです。場とは、技術の粋を究めた場所であり思想を顕現させた技術です。

私はいつもご縁やタイミングに導かれることが多く、この場所は盟友で同志の故高橋剛さんの遺志を継いで創設したところです。彼は、心のあるブロックチェーンエンジニアで教育者でした。彼は、プログラムを打ち込む指先から自分の心がシステムに入るとよく言い真心で取り組むことを後輩たちに語り続けていました。また、技術者である前に教育者でありこの技術の在り方や真摯に取り組む姿勢を重んじました。今でも、彼の遺志は後輩に受け継がれています。

私はブロックチェーンエンジニアではありませんが、教育者という面もあります。彼の遺志を継いで、その思想や生き方、そして技術者たちにどうあることが日本や世界に真心を実践していくのかをこの場(BA)で磨いています。

一見すると経済活動とは無縁のような徳を積む活動ばかりを勤しんでいるように見られますが、実際には経世済民のど真ん中を愚直に深めて磨いています。ブロックチェーンを使った徳積帳というものを開発して、この場から教育を発信しています。

新しいものは、別に目新しいから新しいのではありません。温故知新、懐かしいものを尊重して、その大切な中心をしっかりと捉えてこの時代にどうそれを伝承していくのかということの中にこそあります。

つまり懐かしいものが新しいものに転換されていくのです。

私の取り組む場(BA)には、それがあります。時間をかけることや、次世代のことを考えること、また宇宙や地球の全体を鑑みてどう全体快適にしていくか。まだまだ道は途中ですが、場を丁寧に磨き上げていきたいと思います。

歴史の和合和解

私たちの歴史は勝者の歴史です。勝者にとって都合のよいことだけが歴史として今でも遺り私たちに受け継がれていきます。しかし歴史を深めればすぐにわかりますが、膨大な数の敗者たちがいます。その敗者にもそれぞれに歴史があり、そこには文化や伝承というものもありました。

かつての日本では、大和朝廷に服従せずに逆らう存在を「まつろわぬ民」と呼びました。まつろうが従順という言葉なので、その反対はまつろわぬということです。

かつての日本には、大小多くの少数部族や民族がありました。それを統一していく過程で、それらを滅ぼしていくのです。一部の民族たちは大和朝廷に吸収され時に結ばれ、子どもや子孫たちを多く残したはずです。私たちの遺伝子の中にもまたそのまつろわぬ人々の血が受け継がれているともいえます。

歴史ではすぐに敵か味方がとし、争いますがもしも最初から和合をするようにお互いに協力しあっていたら余計な争いもなかったようにも思います。どちらかが一方が、服従か滅亡かと迫れば抵抗するのは当たり前です。現在でも、中東の問題、欧州の問題も然りです。

力による支配というのは、その後の歴史を省みるとそのあとも簡単には解決していきません。そしてそのまつろわぬ民たちの子孫は、頭では覚えていなくても遠い記憶や遺伝子では感覚的に覚えているものです。

そういうまつろわぬ民たち、悲惨な歴史の上にある私たちはどうあるべきか。私は、そういう存在にも深い敬意をこめて祈ることだと思います。人は素直に謝ることや、認めて反省することで関係を結び直していくことができます。

どうしようもなかったことを理解しあい、お互いに学び直していこうと努力していくことで和合していくのです。現在の裁判でよく使われている和解は、あれは和解とは程遠いものですが実際の和解は時間が解決していくものです。

長い時間をかけて、私たちの肉体や精神に宿るあらゆる魂は今も和解に向けて活動しています。そういうものと一つである自己の存在に気づくこともまた、歴史を深く學ことの一つです。

子孫のためにも場をととのえ、歴史の和合和解の仕合せを結んでいきたいと思います。

三つ子の魂

三つ子の魂という言葉があります。昨日、心のふるさとは三つ子の魂という言い方をブログでしたので改めてこの心のふるさととの関係を深めてみようと思います。

元々、私たちは幼児期の子どもを何もできない存在として認識するのか、あるいは赤ちゃんをはじめ完全な存在として認識するのではその価値観が逆転します。私は後者で、産まれてくるときに完全に全てをもって誕生してくるという考え方です。

これは現在の研究でも証明できていて、脳のシナプスの状態などを調べると生まれたてが最大であとは刈込といって自分が望まない能力や機能を捨てていくといいます。何もできない存在が知識でできるようになるのではなく、完全である存在が要らない能力を捨てていくことで元々ある力を残していくことでこの世の中に適応していくというのです。

そう考えてみると、幼児期というのはすべてを持っている完全体でありその時の心の在り方がその人の元の存在ということになります。その元の心に何があるのか、そこに三つ子の魂があるということでしょう。この三つ子というのは、決して三歳までのという意味ではなく原初の、あるいは元々の魂という言葉の方です。

最初にあった魂をそのまま持っていて、それを人生の最期までやりきっていくことでその人の一生を全うするということでしょう。

しかしその魂が全うできない理由が刷り込みというもので発生します。これは初心な存在に別の認識を与えて外から違うものとして認識させていくということです。動植物であっても、人が飼育すれば別の物になっていきます。それは意図するものに変換していくということです。

そのままあるがままがいいと育てていけば、後は人格を磨いて自己良知を高めていくことで教養が身に着きます。そのためには、心のふるさとを持ったままでその後の人生を歩んでいく生きる力を見守っていく必要があります。現代は、この逆をしていて心のふるさとよりも知識や技術、型にはめていくような金太郎飴のような汎用型を育て、あるいは今の世の中で金銭的や地位や名誉が成功するように刷り込んでいく。都市化され合理化された環境の中に、懐かしいものは後回しにしてきました。

本来、私たちはこの三つ子の魂は先祖代々で継承してきたものです。懐かしい暮らしをしていれば、年齢問わずそこに居心地のよい何かを感じます。そういうものを場として用意していなければ、私たちは大切な三つ子の魂を忘れてしまいます。

この心のふるさとを思い出すということは、今の時代、何よりも重要でそれをどう今の教育の中核に据えるかが日本の未来、子孫たちの仕合せに大きな影響があるように私は思います。

引き続き、暮らしフルネスを通して心のふるさとの場を醸成していきたいと思います。

心のふるさと納税

先日からふるさと納税のことを色々と深めていますが、改めて気づくことがたくさんあります。そもそも納税の意味合いから考えていくと、何のために納税するのかということから見直す必要が出てきます。日本では、日本国憲法30条に国民は、法律めるところにより、納税義務ふ。」と記されます。国の発展のために、納税は義務ということです。その税金がどう使われているかが問題で、税金を納めることは共生協働社会を生きていく上において確かに役に立ちます。

会社でも税理士がいて、しっかりと納税を管理してくれています。私たちが日々に生きていると、あらゆるところに税金がかかります。相続税などもですが、税金というのは私たちの暮らしにとても大きな影響があります。

ふるさと納税は、納税と書いていますが実際には都道府県、市区町村への寄附です。納税というのは行政側からの視点で、実際には税年収や家族構成などの条件で決まる「上限額」までは寄付金控除という制度がありその年の所得税や翌年の住民税が減る仕組みです。これは実質的な自己負担額2000円で寄付先の自治体から寄付額の最大30%相当の返礼品をもらえる制度となっています。

最近では、そのポータルサイトもヤフーや楽天など便利な返礼品選びのウェブショッピングサイトのようになっていてみんな寄附や納税のことよりも如何にお得に返礼品が手に入るかを躍起になって探しています。所得が高い人の方がより得をする仕組みで、所得が低いとほとんど所得税や住民税が減ることもないので使いません。つまりお金を持っていない人は得をしないという制度です。この「得」という字を使っているからずっと損か得かばかりを考えます。もしこれが「所徳」であれば、寄附の意味合いも変わり喜捨や布施という日本古来の精神性に回帰できると思いますが。

話を戻せば私たちの住んでいる飯塚市もふるさと納税で毎年全国10位以内に入る自治体です。特にハンバーグが有名で、私たち飯塚市民も一度も食べたことのないどこぞのハンバーグが飯塚市の有名な商品のように大量に全国へ返礼品として発送されていきます。他にも飯塚市で日頃実感することもない高額のスーツやコーヒーなどもです。

そもそもこの「ふるさと」という言葉も少し厄介です。私は子ども第一義の理念で子どもの仕事をしていますからよく「心のふるさと」という言葉を使います。この時に使っているふるさとと、ふるさと納税のふるさとは同じ響きでも定義は全く変わります。

私がよく認識している古語のふるさとは、懐かしい心の居場所のことです。この「懐かしいものがある」ところが本来の「ふるさとがある」ところということです。私は現在も故郷に帰り日本の未来の子どもたちのために心のふるさとを甦生しようと日々に挑戦をしています。古民家をはじめ伝統在来種や文化伝承などすべては、その懐かしい未来をどう創造し、子どもたちの心のふるさとを譲り遺していけるかと徳の循環に取り組むためです。

先ほどのふるさと納税は、ふるさとという意味でも単に一度は訪れたことのある古い場所くらいの意味しかありません。そしてショッピングサイトの方においてのふるさとの定義もまた、その場所で売られているお得な返礼品くらいのことしかありません。

これでは、かえってふるさと納税をすることで懐かしい未来が喪失していく可能性があるように私は思います。目的がお得ではなく、もしも恩徳ならどう考えるでしょうか。本来の懐かしいふるさとに寄附をするとはどういうことが理想なのか、それはふるさとの中に「心のふるさと」が入っていることです。この心とは、「懐かしいものがちゃんと次世代や未来へと結ばれていくような徳に喜捨していくこと」だと私は感じます。そうやってかつての近江商人をはじめ、二宮尊徳氏など偉大な日本の先人たちは子孫のためにふるさとを発展させてきたのです。

未来のずっと先々の子どもたちのためにというモノサシで観てみたら、何を最も優先して取り組んでいくのか。当然私は、これからも子どもたちの未来のために心のふるさとへと納税していきたいと深く思います。

新たな試みを始める前に、ちゃんと本来の姿を鑑みて理念を調えておきたいと思います。

地域?

地域というものは何をもって地域と定義するのか、一般的にはある一定の範囲内における地理的なエリアのことをいいます。しかし、私たちがよく使う地域が失われているという言葉や地域が機能しているなどという言葉はただの一定の地理的なことを話しているわけではありません。

ある時は、循環のことをいい、またある時は心のふるさとのことをいい、またある時は伝統や伝承などの文化のことを指します。つまり、地域というのは地理だけではなくもっと立体的な存在であるということです。

地域というのは、元々は私たちが暮らしを通してその暮らしを成り立たせているエリアのことです。最初は、山の中だったかもしれませんし、その麓の小さな集落だったかもしれません。それが次第に大きくなり日本全体になり都市化されていきました。この都市化というものは、先ほどの地域という言葉の反対にあるものです。

都市化された都会は、合理的で貨幣経済の活動を中心にした場所です。そこに心のふるさとを求める人は少ないと思います。もちろん都市化といっても、下町や長屋があったところは都会でもあの地域は十化など呼ばれ、先ほどの文化なども存在します。

これが失われていくのいが都市化といってもいいかもしれません。都会にもまだこんなところがあったのかと、過去の遺物のようになっているのがこの地域でもあります。

実際には、田舎のことや地方を地域と呼ぶ人もいますが今では田舎や地域も観光や工業地帯が広がりあまり地域というほどではありません。特に、稲わらなどの循環もあるわけではなく、心のふるさとのような暮らしもなく、伝統や文化も廃れていれば小さな都市化された場所というだけです。

私たちが都市化していくのはなぜでしょうか?世界人口の55パーセントは都市に住みます。つまり地球にいる人類の半分以上は、ある一定のエリアに集中しているということです。

通常なら砂漠のオアシスに動植物が集まっているというのはわかりますが、砂漠のような場所に人口が集中しているというのは可笑しなことです。工業化されていくと、工業地帯に人が集まるように都市に人は集まるのです。そして永遠に際限なく不足を探しては増産を続けます。これが現代の状況です。

私がなぜ暮らしフルネスを故郷で実践するのか、そして子どもたちの未来のために場を遺そうとするのかは、遠い先の未来を省観て、近くをあまり見ないようにするためです。

時代と逆行しているように見えても、実際には地球のリズムとはピッタリです。

引き続き、折り合いをつけながら新しい挑戦と成長と安らぎを続けていきたいと思います。

植物との関係

最近、少しずつ薬草を暮らしの中に取り入れています。人は意識次第でどうにでも見えるものが変わっていくものです。今まで雑草として思っていなかったものが、暮らしに取り入れていくとそれが次第に薬草に見えてきます。薬草を見ていると、よく植物の一生の観察をしていくものです。

どの時期にどう採取してそれを取り入れるのか、その方法は様々です。新芽のままに使うものもあれば、乾燥して用いるもの、あるいは粉にしたりするもの。形状も工夫できます。また、ある植物はすりつぶしたまま貼ったり、塗り込んだり、あるいは飲んだり、蒸留して湯気にして呼吸で吸ったり、蒸したり燃やしたりとそれも色々とあります。

むかしの人たちは植物のもつ偉大なエネルギーや人体との影響をよく観察していたように思います。そしてその土地の持つ元々の力を直感し、それを上手に取り入れることで調和していったのでしょう。

まだ今のような物質的な科学があまり存在しなかった時代、ではどのようにその効能や効果を発見したかということです。

1つには、観察力というものがあります。むかしの人たちの観察力は今よりも大きく優れていたように思います。どのような小さな微細な変化も見逃さず、ありとあらゆる角度から研究しています。長い時間をかけて、じっくりと丁寧にやっていたのでしょう。

また1つには、体験や経験からの洞察です。五感をフル稼働して、そのものがどのようなものかというのを直観から洞察するのです。自然の特徴や、気候や風土の智慧を組み合させてそのものの存在をつかみとったように思います。

つまり私たちは科学の前に、五感や直観や洞察というものがありその鋭敏な感覚によってあらゆる自然の叡智や治癒を学んでいたということになります。

今では薬も、薬が病を治すと信じ込まされています。本来は、病は自分の自然治癒力で治すものです。薬はあくまで自然治癒力を整えたり援助したりするものということでしょう。薬は、本来は毒です。毒も病に入る時、浄化するために活用されます。これは腸内細菌の善玉菌と悪玉菌などとの関係と似ています。発酵も腐敗ですし、腐敗も発酵です。その両方を上手に調和させるところに中庸があり健康もあります。

むかしの人たちは智慧をもってその方法を自覚していたのでしょう。植物をさらに深めつつ、暮らし方、生き方を磨いていきたいと思います。