私たちの歴史は勝者の歴史です。勝者にとって都合のよいことだけが歴史として今でも遺り私たちに受け継がれていきます。しかし歴史を深めればすぐにわかりますが、膨大な数の敗者たちがいます。その敗者にもそれぞれに歴史があり、そこには文化や伝承というものもありました。
かつての日本では、大和朝廷に服従せずに逆らう存在を「まつろわぬ民」と呼びました。まつろうが従順という言葉なので、その反対はまつろわぬということです。
かつての日本には、大小多くの少数部族や民族がありました。それを統一していく過程で、それらを滅ぼしていくのです。一部の民族たちは大和朝廷に吸収され時に結ばれ、子どもや子孫たちを多く残したはずです。私たちの遺伝子の中にもまたそのまつろわぬ人々の血が受け継がれているともいえます。
歴史ではすぐに敵か味方がとし、争いますがもしも最初から和合をするようにお互いに協力しあっていたら余計な争いもなかったようにも思います。どちらかが一方が、服従か滅亡かと迫れば抵抗するのは当たり前です。現在でも、中東の問題、欧州の問題も然りです。
力による支配というのは、その後の歴史を省みるとそのあとも簡単には解決していきません。そしてそのまつろわぬ民たちの子孫は、頭では覚えていなくても遠い記憶や遺伝子では感覚的に覚えているものです。
そういうまつろわぬ民たち、悲惨な歴史の上にある私たちはどうあるべきか。私は、そういう存在にも深い敬意をこめて祈ることだと思います。人は素直に謝ることや、認めて反省することで関係を結び直していくことができます。
どうしようもなかったことを理解しあい、お互いに学び直していこうと努力していくことで和合していくのです。現在の裁判でよく使われている和解は、あれは和解とは程遠いものですが実際の和解は時間が解決していくものです。
長い時間をかけて、私たちの肉体や精神に宿るあらゆる魂は今も和解に向けて活動しています。そういうものと一つである自己の存在に気づくこともまた、歴史を深く學ことの一つです。
子孫のためにも場をととのえ、歴史の和合和解の仕合せを結んでいきたいと思います。