和を尊ぶ

歴史の一つには、人の間の紛争というものがあります。どの時代も、人は人と争います。その陰には様々な権力者たちの思惑があります。本来、自然にはそういうものはなくそこに関わる人の間に紛争が発生します。

以前、宇宙から観たら地球は国境の線はないとあり人間が地図で国境を分けたことで国境が産まれているのもわかります。他にも人肌の色の違いやそれまでの生活文化の違いで上下を分けるなども人の間での話です。

そもそも最初はどうだったかということに思いを馳せると、最初はこんなに分かれていたものはありません。よく言う神様という存在もまた分かれてはいなかったのでしょう。山は山として、川は川として名前もなくそのままあるがままの自然の一部として認識していたものです。

人間は分けてあるところから認識することで、分けていることによる紛争が起こることがあります。そんなことなら分けるのをやめればいいと思いますが、権利や権力が蔓延ることでそれは終わりを見せません。

先日、不動明王の徳をあるところでお聴きする機会がありました。人間の煩悩や欲望を縄で捕まえて剣で切り、炎で燃やし浄化するというのです。それぞれの山々には不動明王の信仰がありますがそのお山で宗教の紛争があった歴史を観るととても残念な思いがします。

そもそも渾沌として渾然一体になっているこの宇宙や自然において、分けるということが如何に真理に遠ざかっているのかを直感します。分けて考えるのではなく、お互いが大切にしているものをどう折り合いをつけて守っていくか、あるいはその渾沌とした中にある和をどれだけ大事にしてきたかということが紛争を已める切っ掛けになるようにも思います。

分けたことで和を学び直すのはいいのですが、分けたままで和にしようとするのは無理があるということでしょう。分かれているものをもう一度、最初から結び直すことが歴史の一つの役割かもしれません。

分けた本人たちはもうとっくに亡くなってしまい、子孫たちがその禍根をいつまでも継承しているところもあります。それはとても残念なことで、今だかららこそまた渾沌に回帰するチャンスだと和合し子孫へと恩徳を結んでいきたいものです。

自分にできることはどれだけあるかわかりませんが、和を尊び小さな実践を積み重ねていきたいと思います。