夜半から秋の雨が時折降り、今朝から澄んだ瑞々しい風が吹いてきます。この時期の雨は慈雨のように柔らかさを優しさを感じます。鳥の鳴き声もどこか、この秋風のようで存在自体に癒しを思います。
不思議なことですが、秋の風景はどれも癒しを感じます。これは深い悲しみや哀しみを恕すかのようです。
千峯雨霽露光冷(せんぽうあめはれて、ろこうすさまじ)君看双眼色(きみみよそうがんのいろ)不語似無憂(かたらざればうれいなきににたり)という禅語があります。
私にとっては、今朝のような澄んだ風景のなかにこれを感じます。春の天上に吹く風は、耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶことへの優しさやその有難さを感じます。しかし秋の天上に吹く風は、悲しみや哀しみを乗り越える美しさや喜びを感じます。あくまでこれは感覚の話ですが、澄み切った宇宙の中には何もないようで深い情緒があるように思います。
変化はすべてのいのちの中に宿ります。時として、そのいのちは自分を通してすべてを映します。そのものになって顕れてくるのです。それが心ともいいます。心を通して風景を映すとき、その人の眼にもその風景が宿ります。
もの言わぬその人の奥深い眼のさらに奥に、その人にだけ持っている心があります。同時に如何に愉快に楽しく明るくもの言う人の奥深い目のさらに奥にもまた深い悲しみがあるのです。
人はすべて単純のようで単純ではなく、誰もが悲しみや哀しみを宿しています。たくさんの人が、それぞれにたくさんの人生を宿し、それぞれの役割を全うしていきます。その全ては天上の風がいつも四季折々に姿かたちを換えて見守ってくださっているということでしょう。
毎日、ふとした時に見上げる空に心は深く通じています。そして風はそこから吹いてくることを思い出させます。
癒しはいつも天上の風から訪れます。
秋の慈雨に感謝しています。