表裏一体の中の気づき

現代の世の中では問題はよくないことの代名詞のように語られます。問題があればそれを早く取り除こうとし、あるいは問題をなかったことのように扱います。問題を抱えている状態を最悪の状態とし、問題を発生させる人を毛嫌いします。問題を掘り起こそうとすると、それはそのままにしておくようにと先送りします。

これは現代人の刷り込みの一つになっているように思います。そもそも問題がなければ解決はしません、解決するために問題はあります。解決と問題は一つのものです。教育では、問題がなくなることを解決といいますが実際には問題から解決までに本当に大切なプロセスや気づきがあるということはあまり教えません。問題があればすぐに解決、解決できない問題は後回し、こういうことを続けてきたから問題や解決の本質が分からなくなってきたように思います。

問題や解決というものの間には、大切なプロセスや気づきがあると先ほど書きましたがこれを先人たちは智慧とも呼んでいました。智慧がある人は、工夫ができます。この工夫は数々の問題を解決するなかで得られたものですがこれは人生を歩んでいくなかで偉大な助けを与えてくれるものです。

私も振り返ってみると、問題だらけの人生でしたが解決を急がずに問題を観察することで色々な智慧が増えていきました。本当の解決、根源的な解決を目指すほどにこれが全体を結ばれていて簡単ではないことがすぐに気付きます。そういう時は、時間をかけてじっくりと醸成する期間を待ちます。そうしているうちに、その時が必ず訪れます。つまりタイミングがあるのです。その一期一会の時機を逃さずに、その根源的な問題に手を入れ、根源的な解決に取り組むのです。

この根源的というのは、そもそものところです。本来、何のためにそれをやるのか、そしてどうあるのかという生き方や道のところにあります。方法論や工夫は後から無数に無限に出てきますがまずは原点に気づくまで篩にかけていくのです。

人は気づけばその瞬間に問題も解決も中和され調います。気づけるかどうかは、魂の力や胆力、忍耐などが必要になります。人生は今に集中していくことの連続ですが、今に集中できるのはそれだけ問題を直視し解決を観察する根源の力が試されているように思います。

人生は困難や苦難も増えますが、そこに暢気さや楽観さというものがあれば全体として調和し感謝も感じやすくなります。楽と苦は表裏一体、問題と解決も表裏一体。

何でも表裏一体であることを忘れずに、明るく元氣に道を歩んでいきたいと思います。

愛と美しさ~魂の実践者~

昨日は、ご縁あって魂の実践者、サティシュクマールさんにお会いしてお話をすることができました。88歳とは思えない、快活で明朗、そして寛容で柔和な姿にも感銘を受けました。どの言葉も強い波動があり、声から伝わってくる熱意や情熱に圧倒されました。

お話もとてもシンプルでこの世の現実をよく直視しておられ澱みなく真理や真実を語っておられました。またその状況をよく分析し、自分はどう生きるかということもはっきりと伝道しておられます。実践から出てくるその言葉も、深く玩味して一つ一つを丁寧に歩んできた道から得られた知恵に満ちています。

私をご指導してくださったメンターの方々と全く同じように、安心することやお任せすること、今に集中すること、一歩ずつ丹誠を籠めて歩んでいくことなど生き方を優先するうえで大切なアドバイスをしていただきました。

環境活動家とも言われますが、環境活動はその主軸が人間になっています。しかし実際には自然から學ぶ環境活動家こそが本来の地球と一体なっている人間の使命だとも言われます。

私たちの身体の全ては、他の生き物たちと同じ素材と元素でできています。私たちも地球の一部です。そして大地を歩くとき、私たちは足から地球と結ばれています。地球から離れません。地球のものがなければ生きていけないのです。それは地球の循環といういのちの中で私たちも存在しているからともいえます。

そして何かをすることが役に立つのではなく、私たちがそのままであることが真に役に立つことといわれます。一つのりんごの木があり、そのりんごはただそこにあるだけで葉を落とし、根をはり、実をつけ、活き活きと枯れても養分になり周囲の生き物たちや自然に恩恵をあたえ一切の無駄もなくゴミなども出しません。自然は完全無比です。それを私は徳と呼びます。

サティシュさんがいう、ゆっくり味わい、小さく身近なものを大切にし、簡素でシンプル、迷いがない暮らしを生きることは自然そのものの徳の在り方だと私は感じます。私たちは親祖から今に至るまで自然の徳が循環するのを観てその偉大な叡智に救われてきました。

私も今、暮らしフルネスという実践をしていますが、お話の全てに共感するところしかなくさらにこれからも自然に深く真摯に精通していきたいと強い覚悟を持ち直す一期一会になりました。

日本の先人たちが、見つめてきたものを私も見つめる中でさらにそれをこの時代に甦生させて子孫たちへの道を切り拓き伝承していくことにいのちを没頭していきたいと思います。

仲間や同志、ご縁に深く感謝しています。私も、愛と美しさをいつまでも忘れないで最期の日までかんながらの道を一歩ずつ歩んでいきたいと思います。

ありがとうございました。

 

よい振動(ゆらぎ)

それぞれの人や物には波動というものがあります。人でいえば、善い波動を醸し出している人と悪い波動を発している人がいるのがすぐにわかります。物にも清々しく凛とした物もあれば、禍々しい何かを出している物があります。これは感覚で直観していくものですが、誰もがその感覚を持っているものです。

例えば、善い波動を出している人は心の状態が静かで穏やか、平和で愛が溢れていたりします。それは日頃からその人が生き方やあり方をはじめ波動を調えるような暮らしを実践しているからとも言えます。

イライラや不安、恐怖や怒りなど感情に呑まれている人はその波動を発します。波動の面白さは共鳴していくということです。これは音楽とも似ています。どのような音を出しているかで周囲の反響が変わります。音楽家が発する音で私たちはとても大きな影響を受けていきます。

以前、ヘルツのことを深めたことがありますが周波数次第では心が穏やかになったり心がざわついたりするのです。私たちは振動というものを持っていて、海の波のように、また風のように音のように振動をし続けています。振動の中にいるとも言えます。

正確には振動とは何かが振れ動くことを言い、波動はこの振動がつぎつぎと伝播していく動きのことを言います。揺れ動いてそれが周囲に伝播していくということ。一人が善い振動を出せば、周囲の人たちも善い波動が伝播していきます。

そう考えてみると、朝の太陽が出している元気な波動を浴びて波動を調えたり、お山のお水のせせらぎの近くの優しい波動を浴びて調えたり、鳥の鳴き声や木々が風でせせらぐ波動、田畑の共生しあい助け合う波動、私たちは身近な自然から波動の伝播の仲間になることもできるのです。

日々の暮らしの中で、どのように波動を調えていくか。

欲望や強い怒りや恨みや恐怖は波動が乱れていきます。情報というものもまた脳を利用して行われる波動の一つです。常に調和するために、波動をどう調えていくのかに取り組むのは今の時代だからこそ科学的に取り組んでいく必要を感じています。

波動を調えながら、子どもたちによい振動(ゆらぎ)を伝承していきたいと思います。

自然に倣う

現在、企業では人の採用に多大な費用を使って集めています。人口が減少していく時代は、今までの人数が確保できず体制を維持できなくなることから採用に躍起になります。高齢者の再雇用や外国人の採用、最初は女性からはじまりましたが今ではDXやAI,そしてロボットを導入して乗り切ろうとしています。

そもそも拡大をしていくことはできても縮小していくことができない経済モデルの中では人口減少というのは悪になります。しかし、いつの時代も人口は増減しておりその中で社会が上手にバランスを取って国家を運営してきました。

自然界においても、増えすぎれば減るのは当たり前で常に自然のバランスが壊れないように調整しています。競争社会というのは、自転車操業に似ていて走っていなければ倒れてしまいます。誰かが走り抜ければ、自分も負けないと無理をして競争します。そのうちにみんなのスタミナが切れて全部倒れていきます。

本来はみんなで協力して、ゆっくり走ったり弱る人を牽引したり助け合った方が遠い未来までずっと走り続けることができます。時代が大きな企業やどこかだけの企業に占有されるのがよい時もあるかもしれませんが、そうではない時代は小さく協力しあって分散しながら和合していく方がよい時もあるものです。

変化というのは、揺れ戻しというものがあり時代時代に右に触れたら左にいくように必ず中庸に回帰します。暑すぎる夏があれば、寒すぎる冬がきます。これもバランスによるものです。自然を変えることはできませんから、私たちは自然に従うしかありません。

先人たちはその理を自覚していましたから、自然の中で自分をどう振舞っていくことがいいかをみんなで考えて適応してきました。暑すぎないように寒すぎないように、自然のご機嫌をお伺いしながら自然が喜んでくれるように働きました。それは素材選びから、場所選び、そして好循環するように工夫してきました。

今の時代は工夫の意味も変わってしまい、何でも人間の思い通りになることを推奨してきました。その結果、誰も止めることができないような走り方をする人たちばかりが世の中の大多数になり、それが常識となってそろそろ環境も人も疲労困憊しています。

例えば、誰かが増やさないで足るを知るという選択をすること、消費をしないで生産をしようと選択をすること、また得を追いかけず徳を磨こうとすること、そうやって自然の営みの邪魔をしないように生きていくことで世の中に一つのモデルを示していくことはできるように思います。

世間はあと数年後のことで危機だ大変だと騒ぎ立てますが、本来は百年後、数百年後の危機に備えた暮らしをしていくことが人類の智慧だったはずです。

今、なぜ世間と別の道を往くのかといえば子孫の未来のためにや先祖たちが託してくださった思いを大切にしていこうと思うからです。

恐怖は勇気を引き出すものです。世の中が不安と恐怖で満ちるとき、同時に世の中は安心と勇気も満ちていきます。バランスは、いつも日々の実践の中で気づき磨かれるものです。

自然がそうあるように、自然に倣い行動していきたいと思います。

お山の徳

日本にはたくさんのお山があります。このお山ではあらゆる人たちが長い間、お山の暮らしをしてお山と共に生きてきた歴史があります。山は、私たちが生活しているような平地の里とは異なり寒さも厳しく食料も乏しいものです。しかし、よく観察しているとお山の霊氣に満ちていて不思議と元氣が漲ってきます。

私たちは、山の中にいることで里や平地にいるときよりも何か大きなエネルギーをいただいているような気持ちになります。これは、お山の持つ徳のようなものかもしれません。

そのお山も山によってまったく種類が異なります。例えば、低いものもあれば、横に広がったものもあり、また岩でできているものもあれば谷が深いものもあります。それぞれに山の個性があり、それぞれにその山の気質があります。

以前、群馬の赤城山にいったときは強い圧力を感じ、滋賀の伊吹山にいったときは生命力を感じ、出羽三山や大峰山のときは澄み切った空気を感じ、京都の鞍馬山では厳父と慈母のようなぬくもりを感じました。

お山に入るタイミングなのかもしれませんが、何回も訪れているとそのお山の持つ深い心やいのちに触れていると自分の心身の調子も変わってきます。私たちはお山に入ることで、そのお山に抱かれそのお山の源氣を纏います。

英彦山は、宇宙根源の元氣を纏っていてまるで仙人たちの棲む伝説の蓬莱山の気配があります。

きっと先人たちがお山を歩くのは、そのお山の気質の學ぶことが修行だからです。私たちは場所の影響を受けて育ちます。それは植物だけではなく、動物をはじめ昆虫もすべてのものが同じです。その場所が化けたものが私たちのいのちの姿だともいえます。

それぞれのお山にはそれぞれの気質に合った人たちもいます。面白い個性を混淆和合させ、真の平和のために貢献していきたいと思います。

日子の徳道

英彦山の遊行をはじめて体験し、お山の中にいにしえから存在する岩窟や暮らしの跡を辿りました。お山の中は、静かに先人たちの信仰の功徳の数々を遺し場所場所にその祈りの深さや積み重ねてきた行の声を聴くことができました。

これまでもお山には何度も親しみ、存在を深く感じていましたがその場所で悠久の時を暮らしてきた人々の息遣いを実感したのは今回がはじめてでした。苔むして自然に還った庭園、土砂が流れ込んでいる岩窟、また落石した巨石群に大雨で流れた石畳、自然は人々が手入れをしなければあっという間に人間のいない元の姿に回帰していきます。

しかし不思議なことに、人間が長い歳月をかけて信仰して祈るあとには道だけはいつまでも遺っています。その消えかけて失われてきた道を、よくよく辿り歩んでいく先に先人たちの願いや生き方を実感するのです。

私が歩いたように、先人たちも同じように道を歩んでいます。時には一生のうちに何千回も、あるいは一期一会で一度きりだったかもしれません。しかし、その生き方を通して私たちは人間として何が最も大切なことかを学び、自分の人生にとって重要な気づきを得たように思います。

人生はそれぞれ、人それぞれ異なりますが杖がその行く末まで連れていくものです。

この日子山での遊行が、この先にどのような展開になっていくのかはご縁のお導きにお任せしていきます。ただ、この一期一会の方々と祈りながら歩んだ道は一生の宝物になりました。

人生は道です。

道は今も無窮であり、歩く人の志と六根清浄に由り変化します。

また美しい朝霧の光に包まれつつ、この先もまた一途に日子の徳道を歩んでいきたいと思います。

お山を歩く

英彦山の山中を歩いていると、かつての宿坊跡や石垣や墓石など多くが苔むして存在しています。むかしはどうだったのだろうかと想像すると、信仰が盛んな場所だったことはすぐにわかります。いくつかの岩窟を巡り、また祈祷をしたであろうとする場所場所を感じるとこのお山に棲み、どのような暮らしをしていたかも感じ取ることができます。不便極まりないお山の生活の中で、何をしていたのか。それでもこの場所に居る理由に思いを馳せます。

もともといつからこのお山が信仰の場所になったのか、伝説を辿れば最初に入山した僧侶によると遺っています。しかしもっとそれよりも前にも、人がここを訪れこの場所を聖なる場所として大切にしてきたことがわかります。

今では人工林も増え、間伐していない鬱蒼な森が広がっていますがむかしはきっと岩と苔、そして多様な木々に包まれた水が湧き出る場所だったようにも思います。

今から400万年前に火山の影響でできたお山が、長い歳月をかけて今に至ります。

巨石や岩窟を観ては、その当時の溶岩がどのように変化して固まったのかを感じ取ります。明らかに人間よりも数十倍から数百倍の大きな存在を前に、深い尊厳を感じます。

私たちのご先祖様たちはその前で祈り、火を熾しお水を供養し祈りを捧げてきました。その道を踏み分け歩いていくのは、お山に生きた人たちの懐かしい気配を感じます。そういう人たちをまた尊敬した人々の気配も感じます。

私たちは日々にあらゆることで穢れます。そういう時、その穢れを清浄にしようとした生き方の人々をきっと深く尊敬したのでしょう。これは、僧侶をはじめ、侍や儒者なども同じです。

お役目として、美しい生き方を守ろうとする人々、そしてそれを尊敬しいつまでも人間らしい姿を生きようとみんなでお山を歩いて穢れを浄化しては和合し助け合って暮らしてきたように感じます。

私たちはずっと、お山の存在に助けられて今があるのを感じます。この時代も、子どもたちが健やかにあるようにむかしと変わらずにいのちを大切にし、みんなで徳を磨き、恩に報いていきたと思います。

懴悔懴悔六根清浄

私たちは一日に一度、あるいは何度も自分の行いや日常の一言一句や振る舞いを内省することで自分の心を見つめることができます。これは有名な論語の「曾子曰わく、吾日に吾が身を三省す。人の為に謀りて忠ならざるか、朋友と交わりて信ならざるか、習わざるを伝うるか。」にあるように何度も何度も自分の真心を確認するのです。

そうやって自分本来の生き方を守っていくなかで、本来の自分はどう思ったかと二つの自分と一つに対話をして調和していくことが安心立命の精進になっているということでしょう。

お山での修行の一つには、お山を歩きながら懺悔懺悔六根清浄(さんげさんげろっこんしょうじょう)というものがあります。この懴悔の語源は元々はサンスクリット語(梵語)の「クシャーマ」(耐え忍んで許すこと)からきているといいます。元々は懺摩という言葉が悔やむ意味で、それがそのまま「懺悔」となりました。

悔やむという字はの意味は、自分の行いや過ちに対して心を痛めることをいいます。そしてこの「悔」の字は心臓の象形である「りっしんべん」に髪飾りをつけて結髪する女性の象形である「毎」を組み合わせ、「心が暗くなる」や「くやむ」を意味する会意兼形声文字として成り立った漢字だといいます。

仏教では、僧侶が日々に懴悔し仏様にゆるしを請い、自分の犯した罪を仏の前に告白し悔い改めるときに使われる言葉ともいいます。

もともと懺悔は現代は「ザンゲ」になっていますが、江戸時代中期以降までは「サンゲ」と呼ばれていました。

山伏たちが山歩きをしながら「懺悔懺悔六根清浄」と唱えるのは、自分の日々の行いを振り返り色々な日常で発生してきた罪穢れの数々を見つめ直していると心が痛みます。それをお山の清浄な場において悔い改めて耐え忍んで許していこうという声掛けによって心を清々しく浄化して新たな生に生きていこうとする覚悟の歩みのように私は感じます。

私も、一日の中でつい感情に呑まれそうになり、気分で行動や言動が揺さぶられてしまうことがありそんな時は振り返ると自分の立ち振る舞いを思い出し心が痛み反省します。感情の御蔭で私たちは色々なことを深く味わい今生の精彩を感じることができますが同時に心は静かに生き方を見つめ続けています。その両輪を丁寧に味わい盡していくなかにこそ、本来の自分というものを和合していくことができるようにも思います。

これから二日間、大切な仲間たちと一緒に日子山を歩きます。秋の清浄なお山の元氣をいただきながら、真心と感情を和合する仕合せを味わい盡していきたいと思います。

ありがとうございます。

 

働き方の智慧

IT産業で働く人たちのうつ病は他の産業の2倍ほどになっているともいわれます。もともと深夜まで働き、太陽も浴びず運動不足で食生活も不規則、過剰なストレスに目や指先、肩ばかり酷使すれば血流も悪くなり脳の疲労も蓄積していくことはすぐに予想できます。それが働き盛りの30~40代のときにちょうどピークに達し、そこから精神を病み休職するという流れです。

もともと私たちの身体は健康を保つことで最大のパフォーマンスを発揮できます。それは肉体的にも精神的にも自律神経的にもすべてが調和した状態を維持するということです。

そのために、身体を動かし、よく食べよく寝て自然のリズムを味わいよく笑い楽しく元氣になっていることが大切です。人とのつながりもまた、心の安心につながります。

少し前の時代に、「24時間戦えますか~」と栄養飲料のCMがありました。あれを飲むと一時的に興奮状態になりましたが、そのあと数日間ずっと疲れが出続けたものです。そもそも人間はロボットや機械ではないから連続して休まずに働き続けることができません。人間は休息をとることで、全体調和のバランスを取ります。特に、あらゆる器官はいつも働き調和に努めていますから休みを交代でバランスよくとっています。心臓についても、あれだけ一生産まれてから止まることがなく働き続けるものでも心臓のゆらぎといって呼吸し吐き出すときに休みをとっています。

休み方や食べ方、眠り方、暮らし方を社会人になる前に生活習慣の自立の発達の最終段階として大学などで學ぶことが必要な時代になっていると感じます。

それだけ現代は、働き方が変わり仕事の質も変わり、生き方にも大きな変化を与えているからです。病気は、大切な人生を変えるサインでもあり、自分という大切な存在に気づくチャンスでもあり、健康で幸福に生きるためのヒントになります。

暮らしフルネスは、そういうことが総合的に智慧として集合した生き方の実践です。子どもたちには一生、健康で幸福に過ごせるように日本人の先人たちが紡いできた暮らしを伝承していきたいと思います。

比べない

幸福度というものは、他者との比較で実感するものです。自分がどれくらい幸福かというものも、他者を知らず自分だけでいるならばそれが幸か不幸かわからないものです。生まれながらの場所で、最初から具わった状態で自分がそこでどのように感じるかはその感じ方次第です。ある人は、大変凍てつくような厳しい土地であったり、またある人は砂漠の焼けるような暑さの中であってもその場所に適応してその場所で幸福を味わうものです。

しかし、ここに経済的な文明人が入ってきて豪勢な家や車、便利な家電家具、またあらゆる世界の美味しいものを自由に食べて煌びやかで楽しそうな生活を見せられると、若い人や子どもは好奇心から体験したいと思うこともあるのでしょう。そうやっていつも情報をテレビなどでとって、その煌びやかな富に満ちた生活を憧れるような広告やモデルやドラマなどを見せられていたら自分の今の境遇と比べてしまうものです。

北朝鮮なども、私たちには非常に貧しくて悲惨な独裁国家というイメージを持たされていますがもしも他の国のことをその国民が知らなければ本人たちはそれを不幸とは思いません。韓国ドラマを観たりすると死刑になると若者たちが犠牲になっていましたが、それはその生活を観てしまうと自国があまりにも惨めになり政府への反発が出たりするからというものでしょう。

そう考えてみると、人は他者と比べないことがもっとも幸福の近道であることがわかります。自分には今の場所、今の環境で十分と足るを知る暮らしができているのならどんなに外的環境が変化しても幸福度は変わらないということになります。

むしろ必要以上にたくさん持てば持つほどに、幸福度は下がってくるともいいます。余計なものが増えていけばいくほど、足りていたはずが足りないことに転換されていきます。

想像すると、むかしの縄文人たちはその日暮らしです。しかし一年間、どこになんの食べ物があり、何を食べると生きていけるかは知っています。服装も簡素なものですが、縄文土器をはじめ装飾品などをつくり楽しむ時間がたくさんありました。食料は少なくても、食料を加工していく時間もまた楽しい時間だったのかもしれません。

今では便利な機械で合理化されて、手作業でやろうとする人などほとんどいません。それだけ効率化され便利な世の中は、忙しいのです。みんなで忙しくしては、他者を羨ましがるような生活を胃しています。

結局は、人は比べることで自分を見失うことが幸不幸の問題なのかもしれません。与えられた天命を知り、自分を盡していくことが幸福の傍にいることです。子どもたちのためにも、シンプルで丁寧な生き方を磨いていきたいと思います。