保育と教育のお仕事

私は保育や教育のお仕事に取り組んできましたが、具体的に保育園や幼稚園を運営したわけではありません。また保育士や教諭の免許があるわけでもありません。しかし子どもは4人ほど育て、社員をはじめ多くの人たちの成長に関わることができました。

実際にお仕事はでは保育や教育のアドバイスやコンサルティンをする機会がたくさん得られ、子どもの発達を見守るソフトウェアの開発をしたり、育つ場を創造するためのツールや仕組みなどもたくさん手掛けてきました。これはどこに原点があるのかを見つめてみると、もちろんメンターがいて恩師があり保育道や見守るメソッドとの出会いが大きいのですが、同時に自然農といった実践によるものが大きいことが分かってきました。

そもそも野菜をはじめあらゆる植物や木々は種から成長します。人間も同様に最初は赤ちゃんからはじまります。

本来、教育という言葉はエデュケーションですが、これはエデュカーレという言葉が語源で引き出すということです。何を引き出すか、それは種から元々持っている力を引き出していくということです。種に教え込んだり押し付けたり、余計なものを刷り込んだりすることが教育ではないことがわかります。また保育というは、育つを保つと書きます。これは自発的に育つのを見守るという意味です。無理やり育てたり、同じ成長をするように型にはめ込んだりするものではありません。

しかし実際の教育や保育現場にいくと、引き出すことや育つことを無視したやり方を今でも続けているところが多数があります。これは農業でも同じことが言えます。

例えば、自然農だと余計なことはせず種を蒔いたらその種が育つように環境を調えていきます。種が育つのを見守りながら最適な距離で適切な環境を用意していきます。種の育つのをよく観察して場を調えていくのです。これが慣行農法だと、農薬をはじめ肥料を蒔き、無理やり人間の都合に合わせて栽培していきます。そして同じ野菜になるように種までも遺伝子組み換えなどまでして改良していきます。

前者の自然農は種の発達や成長を保障しその喜びや仕合せを優先するという考え方で行われ、後者の慣行農法は野菜の喜びや仕合せなどはある程度無視しても自分たちの都合のよい考え方で行おうとします。

教育や保育であれば、子どもの仕合せを最優先にするのか。あるいはそれは多少無視しても大人の都合に合わせていくのかという話になります。もちろん、野生児で縄文時代のような時代ではありませんから現代に合わせて環境は変わり教育や保育も変わっていきます。しかしその中心や根源を、種が自ら育つことを見守り、その種の生命を引き出すということにしているのか。あるいはそうではないかというのは大きな違いになっているように思います。それは見守っていく環境にも影響が出ます。

私たちは自然の姿をまず知って、自然がどうあるのかを学び、そのあとに自分たちはどこまで何をするのかを決めることが大切なように私は思います。つまり、そのものの種が自然に育つ喜びや仕合せをどう保障し、そのうえで如何にこの時代に適応していくかのバランスを調和していくのです。

保育や教育のお仕事は、そういう意味で自然や人々が和合していく幸福な社會の創造に関われ、自らのいのちを傾けるのに相応しい重要なものです。有難いご縁や学びに感謝しながら学び直していきたいと思います。