一念

その道を究めるというのは、その道のイメージの先を創造するということです。言い換えれば未来を創造する力があるということでしょう。そもそも信じるというのは、何を信じているのか、それは今の世界を丸ごと信じているということです。本来は、こうあるものという強い思いこそが今に宿りそれを未来にします。そう考えてみると、未来を観ているというのは今を盡しているともいえます。

私が一昨年より深めた三浦梅園先生をはじめ二宮尊徳など、常に遠くをはかり今を生き切っておられました。つまり、遠くが観えるというのは未来を観ているということです。その時の未来は、過去か未来かの二元論の未来ではなくまさに今此処のこの瞬間にあるすべての未来をみつめているように思うのです。

今の心、今を信じる心、それを念じるとも書きますが念じ続けているように道を歩んでいるのです。これは専門家や学者が言葉遊びをするような単なる文字や物質としての言語ではなくまさに次元も超えて宇宙そのものと一体になっているような「一念」のことです。

この「一念」とは、先に一念がありそのあとに未来が着いてくるというものです。つまりそういう未来を信じるということを決心覚悟するということが一念発起ということでしょう。

常に一念を持っている人は、生き方に出てきます。一念を生きるように、そういう人生を歩んでいくのです。そういう未来を信じる人たちが集まり、その未来を具現化するのです。人には、同じように色々な一念があります。それも異なります。ある人の信じるがあれば、別のある人の信じるがあります。しかしその信じるものがこの世を創っていきましたから、こうありたいと願ったことや祈ったことは代々長時間をかけて醸成され今に生きているものです。

例えば、ある先祖が悲惨な戦争を体験し一念を定めて生きたとします。寿命が尽きてこの世に肉体は残らなかったにしてもその一念はいつまでも生き続けて、その一念を信じる人たちが後を継承していくのです。

いつの日か、必ず実現したいと思う未来へと一念を抱いて取り組んでいくのです。一念は、数珠繋ぎのように一念の連鎖をしていきます。それを永遠に永続することが念仏ということかもしれません。私たちは本来の人になること、一人になること、一念をもつことを生涯をかけて道を歩み学び続けていきます。

どうやったら人になるのか、歴史を鑑みるとそこに挑んだ先達たちの後姿がたくさん遺っています。そういう余韻や残り香を感じながら、念をまた一つ強くし磨いていくのも仕合せなことです。

私の未来が八百万のいのちの喜びになるかは、この先のかんながらの道が定めていくでしょう。真摯に豊かに一期一会の今を磨いていきたいと思います。