食事の前にいただきます、ご馳走様があります。いただきますの方は、なんとなくすべてのいのちに感謝していただいているということを感覚的に理解している人が多くあります。しかしご馳走様というのは何かということをあまり考えることはありません。これはどういうことか少し深めてみます。
もともと、今のように豊富に食材があるような現代と違ってむかしは食事の材料を集めるだけでも大変な苦労がありました。特に季節的にできるもの、できないもの、あるいは遠方にしかないもの、高い木の上や深い谷、あるいは野生動物の多い危険な場所にあるものもありました。そういうものを走り回って集めるために「馳せると走る」が入ります。そして仏教では、韋駄天がこの修行中の僧侶や人々のために食べ物を走ってかき集めていたとし韋駄天は食卓の神様として慕われるようになっていったといいます。
私のいる場でも、親友の禅僧が泊まると必ず朝から水屋や台所周辺でお祀りしている神様に韋駄天の真言「オンイダテイタモコテイタソワカ」を唱えて祈祷してくださいます。
この韋駄天という神様は、元々はヒンドゥー教の神、スカンダが仏教と混淆して仏法を守る護法神になったといいます。実際にはスカンダ(Skanda) を音写して塞建陀天または私建陀天と漢訳されたのが建駄天とも略記するようになり、『金光明経』「鬼神品」第十三中の誤写によって建駄天が違駄天となり、最後は道教の韋将軍信仰と集合して韋駄天と称されるようになったということです。結局、呼び名は変わっても色々な神様が混淆して取り込まれてお互いの神様としてお祀りしていこうというのは和合の思いやりがあり私にはしっくりきます。
この韋駄天の遺徳が、ご馳走様という言葉になっていったのですがこれはみんなや誰かのために利他を盡し、真心を盡し、おもてなしをする姿に感謝するものです。つまりは、この今日の食事をご用意していただいている方の苦労を惜しまず韋駄天のように働いてくださったことへの感謝の言葉ということになります。
勝手に過去の時代に思いを馳せると、仏陀のためにまた生き方を貫く僧侶たちのために何かできることはないかと、食材を駆け回り走り回り布施や喜捨を集めていく姿が想像できます。
今もむかしも、縁の下の力持ちの存在に光は支えられていると実感します。そういう存在をいつまでも忘れず、そういう存在あってこそ今があることを決して驕らず謙虚に生きていきたいという恩徳に報いていく象徴こそこの韋駄天さまかもしれません。
私も、いつまでも韋駄天の心で生きていきたいと思います。