諦めのわるい境地

昨日は親しい同志たちと、徳積堂でゆっくりと過ごすことができました。彼らと私の共通点は諦めのわるいところでしつこく人間社会の課題に対して粘り強く見守り続けることです。お互いに社会の中でも役割や使命も異なりますが、目的や本質は同質のものを持ち続けています。だからこそ、お互いが話し合うことはお互いに智慧を共有することもでき、元氣も湧いてくるものです。

そもそも目的が一致している人たちがいるというのは心強いものです。バラバラの場所で働いていたとしても、有機的に心が結ばれます。こういう自律分散した働き方というのは、実際には組織にしていなくても和合して協力しあえるものです。

時代の要請もあり、それまで正しいと信じた人たちが時代の価値観の変化によって歪が出てきます。信念が強ければ強いほどに、善かれと思うものが良くないこともたくさん産み出します。この世の中というのは、陰陽が常にバランスを保とうとするように常に中庸で働きます。地球が丸いように、また元の自然に還るように私たちはどちらかに偏らないところにいるようにといのちは働きます。

いのちの性質というものは、少しでも長く存在しようとすること、また全体と調和しようとすること、波動や振動を揺らして静かに動こうとすることがあります。

私たちが認識して切り取った一部のものは、それ自体もまた全体快適に働きます。つまり自分と他との境界も取り払い、固定された目に見える物質とそうではないハタラキの境界も取り除けば中庸という意識を持たなくてもそれは中庸になっていくようなものです。

つまりすべてお任せ、今に真心を盡すことが諦めのわるい境地なのかもしれません。同志が集まると常に新しい扉が拓いていきます。それぞれの役割に感謝しながら、道を一歩また一歩と進めていきたいと思います。

歴史の謎解き

古代史を深めていると、謎解きのような暗号がたくさん出てきます。歴史の中で、それぞれの政権が変わり歴史の改ざんがたくさん行われてきました。その改ざん方法は、名前の文字を変えたり、時系列を入れ替えたり、男女を入れ替えたり、場所を換えたり、あるいは空想上の人物を入れたり消してしまったりと様々です。

文字で何かを記録するというのは、そういうことができるということです。また遺跡なども、本来はないものが建っていたり、別の地名にしたり、漢字を別の当て字にしたり、地形を変えたり、埋めたり燃やしたりと現物の方も消されています。

しかし、完全に消せるかといえば消せないものがあります。それは山であったり、岩であったり、配置であったりと、それに口伝であったり、伝統文化や伝統的な暮らしやお祭りであったりと工夫があります。

そういう一つひとつを繋ぎ合わせて結び、記憶を辿り謎を解くのです。そこにはたくさんの兆しや印が隠れています。そしてその暗号を紐解くのは「場」にこそあります。

その場所に行けば、不思議ですが何かを感じるのです。それはそこで誰かが何かをし、そこで過ごしたという事実がちゃんと場の記憶として遺っているのです。それを感受することができる人たちこそ、私はこの歴史の謎解きができる人だと感じます。

歴史の謎解きは、道のようなものです。かつて誰かが歩いた道は、自然に歩道ができます。しかし長い歳月や誰かの意図的な行為により道が消えてなくなります。しかしそのかつての道を静かに心を落ち着けて澄んだ真心で歩んでいると次第に記憶が宿ってきます。それが「場の記憶」のようなものです。

そういう記憶を一つ一つ結び直す中で、場はまた甦生します。私が取り組む場の甦生には、こういう歴史の謎解きというものもあるのです。

子孫のためにも丁寧に場を清め場を調えていきたいと思います。

歴史の先生

私たち人類の先生とは何か、地球という人も言えば自然という人もいます。あるいは長老という人もいます。しかし実際に何が私たちを人類を導くかといえばもっとも身近にある先生は歴史です。

私たちは歴史に学べばちゃんとした道に導かれていきます。しかしその逆に歴史から何も学ばないと同じことを永遠に繰り返します。歴史から何を学ぶか、そこに人間が持っている癖や文明の持つ業のようなものに気付けるように思います。

人類は、今でも存続していますが人類が築き上げた文明は何度も滅んでいます。しかも、ほとんどが同じ理由で滅んでいます。現代は、資源争奪が激しくなり地球にあった活用可能な資源もまた消費によって回復が難しい状態に入ってきました。今回の文明が滅べば、長い時間をかけて大変な困難が訪れるように思います。

そもそも一つの寿命のように、長い時間をかけてゆっくりとじっくりと寿命をのばしていくようなものと、その反対に急いで短期間で一気にとやって寿命が短いものがあります。文明はこれと似ていて、その寿命をどうのばしていくか、そしてどう寿命を甦生していくかということも歴史から学べます。

この寿命一つであっても、奪う仕組みと有機的に結び与えるという仕組みがあります。それもまた歴史から学べます。歴史は、単なる記録ではなく起きた出来事の検証と反省、改善の中心的なものです。もちろん、勝者の歴史とあるように嘘の歴史もありますがしかしその嘘の歴史を含めてよくよく吟味して学べば歴史の正体にも気づきます。

人間が何をしているのか、人間がどうなっているのか、人間がどこにいくのかが分かるのです。

だからこそ今一度、私たちはよく歴史を學び直して別の道を覚悟をもって決断していくことが必要です。そういう意味でも、生きた歴史を後世に伝えてそれを伝承するお役目の人たちを守り育てていく必要も感じます。

文化事業というのは、言い換えれば歴史の語り部や伝承者を守り育てていく事業です。人類の一人一人がそれぞれにみんなでその真の歴史の一端を担っていくのが本来の歴史の学び方の基本になるように私は思います。

不思議ですが歴史を学ばないものは、歴史が繰り返すようにできている。これは何か揺るがない法則であり、言い換えれば歴史は先生そのものであることの証明でもあります。

最後に岡倉天心の言葉です。

「われわれは、われわれの歴史の中にわれわれの未来の秘密がよこたわっているということを本質的に知る」

未来を知ることは過去を知る事、先生とは歴史そのものということでしょう。これからも歴史の先生から学び続けていきたいと思います。

歴史の甦生

古代からの日本の経緯を紐解いていくのはとても面白く豊かなことです。先人たちの智慧を学び、足跡を学び、そして歴史を学び直していく。本来は、こうやって歴史を常にイキイキと甦生させていく中でこそ私たちは真の智慧を磨いていくことができるように思います。

私たちのルーツは一体どこにあるのか。

私はこの筑豊というエリアに産まれ、北部九州を中心に古民家甦生などに関わる機会が増えました。古いものをよく扱っているからか懐かしいものや伝統的なものを身近に感じることがあります。

そこには今にも息づく道具たちや場所がたくさんあり、そのお手入れをし時にはお掃除をし祈ることで何か不思議な記憶にアクセスすることがあります。それは歴史の教科書に書いてあることではなく、文字で理解するものではなく、まさに心でその場で感じる取ることができます。

そういう感覚があるのはなぜかということを突き詰めてみると、そこには自分の心身体の中で生き続けている遺伝子や先祖たちの息遣いを感じるからです。思い出や記憶は、証拠がないといわれるかもしれませんが証拠などは感覚が気づくものです。それぞれの気づきの証拠を集めれば、そこには一つの真実があります。

現代は物質文明で科学で証明できるものしか信じません、同時に何かをしようとするとエビデンスを出せなどといわれます。もうすでに完結していることを知って、好奇心を失い探求するのをやめてしまうくらいならそんなものは知らなくてもいいかなと私は思います。

子どもたちが持っている好奇心もまた、終わった歴史、誰かによって押し付けられる歴史、またショーケースに入ったホルマリン漬けのような歴史によって失われていきます。そんな勉強は、受験には役立っても実生活には智慧として活かされることはないように私は思います。

生きた歴史、活き活きする歴史は、今の私たちの生きる道や學ぶ好奇心の中にこそあります。そういう真の歴史をみんなで探索していく場や機会が増えていくことは、郷土や郷里の活性化にもなります。まさに歴史はブロックチェーン型、自律分散型がぴったりです。

色々とこれからも新たな歴史の道を愉快痛快に開拓し学び続けていきたいと思います。