諦めのわるい境地

昨日は親しい同志たちと、徳積堂でゆっくりと過ごすことができました。彼らと私の共通点は諦めのわるいところでしつこく人間社会の課題に対して粘り強く見守り続けることです。お互いに社会の中でも役割や使命も異なりますが、目的や本質は同質のものを持ち続けています。だからこそ、お互いが話し合うことはお互いに智慧を共有することもでき、元氣も湧いてくるものです。

そもそも目的が一致している人たちがいるというのは心強いものです。バラバラの場所で働いていたとしても、有機的に心が結ばれます。こういう自律分散した働き方というのは、実際には組織にしていなくても和合して協力しあえるものです。

時代の要請もあり、それまで正しいと信じた人たちが時代の価値観の変化によって歪が出てきます。信念が強ければ強いほどに、善かれと思うものが良くないこともたくさん産み出します。この世の中というのは、陰陽が常にバランスを保とうとするように常に中庸で働きます。地球が丸いように、また元の自然に還るように私たちはどちらかに偏らないところにいるようにといのちは働きます。

いのちの性質というものは、少しでも長く存在しようとすること、また全体と調和しようとすること、波動や振動を揺らして静かに動こうとすることがあります。

私たちが認識して切り取った一部のものは、それ自体もまた全体快適に働きます。つまり自分と他との境界も取り払い、固定された目に見える物質とそうではないハタラキの境界も取り除けば中庸という意識を持たなくてもそれは中庸になっていくようなものです。

つまりすべてお任せ、今に真心を盡すことが諦めのわるい境地なのかもしれません。同志が集まると常に新しい扉が拓いていきます。それぞれの役割に感謝しながら、道を一歩また一歩と進めていきたいと思います。