現在、福智修験道について深めていますが眠ったままの歴史が掘り起こされていくたたびにその当時のことが思い出されていきます。山の中には、かつての遺跡や祈りの形跡があります。現在では、そこには道も廃れ誰も人が寄り付きません。しかし、確かにかつての人たちの心の拠り所であったことがわかります。
本来、信仰というものは宗教などではなくそれぞれの心の拠り所のことです。ある人は、それが風景であったり、故郷の山であったり、あるいは大樹であったり海であったり星であったりもします。不思議なことですが、私たちは関係を結ぶ中に心をつなぎ、それによって自分の最も安心する場所を築きあげていくように思います。
心の支えを持っている人は、芯が強くなります。根が深くなります。人は心の支えがあったから乗り越えられるようなことがたくさん出てきます。何を心の支えてにしているかは人それぞれですが、信仰の場所にはそれがはっきりとあることがわかります。
これは何か自分が見守られているという実感のことです。何があろうと、いつも信じて見守っているという存在が心のよりどころになるのです。そしてそれをどこにするかというのに真の豊かさもまたあるように思います。
私のことを思うと、私も心の拠り所があることに気づきます。どんなに苦しいときも、頼ります。これは依頼心や依存心ではなく、自分がやるから見守っていてくださいと背中から感じるものです。
人は信じられることや応援されることで元氣も勇きも出てきます。つまりは、信じるということががその原動力や源泉になっています。見上げた先にあるのが天なのか空なのか星なのか、山なのかわかりません。しかし下を向いてではなく、上を向いて私たちは道を歩こうとしていくものです。
修験道の奥深さを味わいながら、福智大権現のことを今少し深めていこうと思います。