仙人とは何か

仏陀は釈迦牟尼とも呼ばれます。この牟尼(MUNI)とは仙人のことです。つまり釈迦仙人ということでしょう。その後は、munirāja 牟尼王やmahāmuni 大牟尼などとも呼ばれているそうです。

もともと仏陀の生涯の中で、最初の仙人はアシタという仙人が登場します。この方は、仏陀の父のスッドーダナ王(浄飯王)の父であるシンハヌ王(師子頬王)の宮廷僧でした。スッドーダナ王がまだ王位に即いていない時にはアシタ仙人は技芸の師だったともいいます。このアシタ仙人は、いずれはブッダ(真理に目覚めた人)、または転輪王となることを予言します。

このアシタ(Asita)とは「黒色」という意味で、仏典には同じく黒色の意味である「カンハ(kanha)」に続けて敬称の「シリ(sri)」を合わせた呼称「カンハシリ」とも呼ぶそうです。「結髪の仙人」と表現されているので、頭髪を束ねて縛っている螺髻(らけい)もしくは螺髪(らほつ)という、ほら貝のような形をした髪形で、当時の行者そのもののを現わしていたのではないかと思います。

よく考えてみると、仏陀が誕生する以前より仙人たちはいてそれぞれに修行をしていました。古代インドでは、「学生期(がくしょうき)、家住期(かじゅうき)、林住期(りんじゅうき)、遊行期(ゆぎょうき)」といって人生のなかで四つに季節を区切った思想があったといいます。學生期は、善い師、メンターの下で真摯に學ぶ。そして家長として立派に家族を養って一族の祭祀を執り行いよく家を纏める。そして子どもたちや後人に引き継いで引退したあとは森、林などに住み瞑想修行などを行い静かに自分と丁寧に向き合い悟る。そして遊行の旅に出て道を死ぬまで歩き出家乞食の暮らしする。これを四住期といって古代インドでは理想の生き方としていました。

仙人のように暮らす人たちが当時もたくさんいたように思います。その中の一人が、アシタ仙人ということです。このアシタ仙人は仏陀にお会いした時、自分が先に老いてなくなり仏陀の説法が聴けないことを嘆いて涙したといいます。そして甥のナーナカに将来仏陀の弟子になるようにと託します。そのナーナカはそれから将来の仏陀に出会うために出家して沈黙行という修行に明け暮れます。そして35年以上の歳月が経ってから仏陀に会いにいき沈黙行とは何かと質問して悟りを開いたといいます。

このアシタ仙人と甥ナーナカと仏陀を関係を観ると、道の中の物語であることがわかります。アシタ仙人が甥に話したのは志の話、そしてそれを受けて出家し道を歩むのも志、仏陀が覚者になりその覚者と道で触れあい魂を通じ合わせたのもまた志。ナーナカは仙人となりその一生一度の仏陀との出会い以降は、二度と仏陀と再会することもなかったといいます。

覚者の志を生きる仙人たちは、普遍的な道を歩む人たちです。その普遍的な道とは何か、それが仙人の生き方の中にあるように私は感じます。

仙人とは何か、原初の仏陀を辿るうえてとても重要なキーワードであることは間違いありません。スリランカのマヒヤンガナで、答えを生きる人々から学び直してきたいと思います。

仏陀という人

スリランカの訪問を控え、仏陀のことを調べていると今まであまり考えてこなかったことに気づき舞う。日本で生まれたら一般的には身近にお寺や仏壇があり葬式や法事があるため仏陀の教えに接してきたものです。しかし当たり前すぎて疑問に思わないで刷り込まれたものも多く、ちゃんと自分で現地で確かめたものはほとんどありません。改めて、そもそも仏陀とは何かということを少し深めてみようと思います。

この仏陀(悟った人)の本名はガウタマ・シッダールタ、パーリ語ではゴータマ・シッダッタは紀元前5〜6世紀頃の人物で現在のインドとネパールの国境付近にあった小国ルンビニーに生まれた人でした。父は釈迦族の国王であるシュッドーダナ、母は隣国コーリヤの執政アヌシャーキャの娘、マーヤーです。

王子として誕生した仏陀ですが色々と後で神格化されているのか、伝説ではお母さんの脇の下から産まれてすぐに天上天下唯我独尊と天を指さして語ったといいます。これはそう誰かが思ったということで赤ちゃんがまず脇から産まれませんし、言葉もしゃべりません。ただお母さんは出産後した翌週に高熱で亡くなります。仏教に関係する名僧などは、みんな幼い頃に親を亡くしている人が多いです。もしかすると、この辺の心の共感や深い悲しみが仏道に導くのかもしれません。

その後は、とても裕福で優雅で何不自由ない生活を楽しみ19歳でいとこのヤショーダラーと結婚し、息子ラーフラが誕生します。順風満帆だった仏陀ですが、ある時、四門出遊という体験をします。これは簡単に言えば、生老病死の苦しみがあることに気づいてしまったということです。そしてその苦しみを取り除く方法があるのかと、王位を捨てて出家してしまいます。

そうして瞑想をはじめても悟れず、数々の苦行を増やして最期はギリギリの状態まで自分を追い込んでいきました。苦しみを乗り越えようとすればするほどに苦しみが膨大になっていく、その苦しみの連鎖のなかでついに苦しみを諦める機会が訪れます。それは今にも死にそうな仏陀をみて、村娘のスジャータが与えてくれた乳粥を食べさせてもらうときに気づきます。それから菩提樹の木の下で瞑想をし、35歳の時についに中道、悟りを開きます。ある意味で、極端な修行によって中間を修養したのかもしれません。そして諸行無常の真理を解きます。つまり、あらゆる物事は常に変化し続けているものでり、変わらないものなどないということを悟ったといいます。

これは自分の人生を振り返っても誰でもが共感するところです。つまり永遠に同じ状態でいられるということは宇宙においてはありえないことで、人は変化するから苦しみが増え、変化するから苦しみを諦めることができる。もっと突き詰めると、変わり続けることがもっともちょうどいいことだということ。そして仏陀は亡くなる最期の言葉の一つに「諸行は滅びゆく、怠らず努めよ」といいます。変化するから精進せよと。常に今を生き切ることの大切さを語ります。そして、それがもっともちょうどいいことだとも。

何を仏陀が悩んだのか、何を苦しみと思ったのか、その人生から洞察することができます。私たちはずっと変わらないでほしいと願うような願望を持っています。このままがいつまでも続きますようにとも祈るような思いをするときがあります。それは人それぞれに異なるでしょう。それを執着ともいいます。あまりにも辛いことは早く過ぎてほしいと思うし、人によっては手に入れた財産、栄光や幸福はいつまでもこのまま時を止めたいなどとも思うものです。しかしそれもいつかは消え失せます。まず自分の肉体が先に消えうせます。健康だって一生そのままであることもありません。だからこそ、どうするかと向き合ったのでしょう。

人間というものの存在をここまで真剣に向き合った人がかつていたかというと、やっぱり最初は仏陀だったのではないかと思います。その人間としての道、生きる道を探して歩いた道はその後も同じように人間を生きる後人たちが続いていき今に至ります。

原初の仏陀は、大変失礼な言い方かもしれませんがとても人間臭い存在です。だからこそ、その言葉は多くの人たちの心の中で生き続けているようにも思います。

その後の仏教がどのように現代にいたるのか、その辺もまた深めてみたいと思います。

愛の意味

あと5日後にはスリランカ民主社会主義共和国に訪問します。このスリランカという国名はシンハラ語で「スリ=光り輝く」と「ランカ=島」で「光り輝く島」と呼びます。漢字では「錫蘭」と表記しています。かつて「セイロン」と呼ばれていました。これはサンスクリット語で「ライオンの島」という意味です。その名残が今でも国旗に表れています。

気候が日本とは異なり、最高気温が現在でも30度近く最低気温も24度くらいで平均湿度も75パーセント近くあります。人口は約2000万人ほど、日本との時差は3.5時間、また面積はは65,610平方キロメートルと九州の2割ほど大きいイメージです。国民人口の7割が仏教徒(上座部仏教)です。また国の花はスイレンの花、国の宝石はブルーサファイア、国技はバレーボールが有名です。

私がスリランカのことを深めるのに最初に知ったのが、世界一の親日家ともいわれるスリランカの二代目大統領ジャヤワルダナ氏の存在です。

本来、今の日本は韓国や北朝鮮のように戦後に列強国などによって分割統治される予定でした。それをすべて覆したのはその当時、スリランカの44歳の大蔵大臣だった人のたった一つの15分の演説でした。今の日本を救ってくれた本物の大恩人です。この演説がなければ、今頃私たちは日本国内で争いあい憎しみあっていたかもしれません。

そのサンフランシスコ講和会議での演説の映像が遺っています。

そこでは「私は2つの立場からお話します。1つはスリランカを代表して、もう1つはアジアを代表しての立場です」と言い釈迦の「憎悪は憎悪によってではなく慈愛によってのみ止む」を引用して会場の人たちに語りました。

そして「戦時中、スリランカは日本によって空爆を受け多大な損害を受けている、補償を受ける権利はあるが、私たちは賠償請求を放棄する。なぜかと言うと、私たちはブッダによって目には目、歯には歯という教育を受けていない。私たちは許す。他の国々もそうしませんか?」と呼びかけてくれました。

その言葉に会場の人たちも賛同して分割が免れたのです。

たった一人の言葉で、大きな決断が変わっていく。その人の心の言葉は、その後の子孫たちにも偉大な影響を残してくれました。これは釈迦の言葉が数千年を経ても、その子孫たちの生きる道に結ばれていることがわかります。

私たちは釈迦の言葉に今でも救われている存在です。 

「人はただ愛によってのみ憎しみを越えられる人は憎しみによっては憎しみを越えられない」「Hatred ceases not by hatred but by love」

そのジャヤワルダナ氏は90歳で逝去されますが、形に遺るものは残してならぬといい何も残っていません。しかし、その生き方や生きざまは釈迦と同じく徳として私たちと生き続けています。

その釈迦の歩みと思想が遺る場所に足を踏み入れることは大変光栄なことと思います。色々な歴史を学び直して、改めて愛の意味を結んでいきたいと思います。

2025年のテーマ

今朝も素晴らしい太陽の光が差し込み、2025年の新しい年を迎えました。昨年より正月は冬至に行っており、この1月1日の元旦は二度正月を楽しむ機会にしています。夜中の年越し蕎麦も年々、滋味深くなり、家族と参拝する初詣も子どもの成長を感謝する大切な機会になります。

昨年は、いのちの対話をテーマにしていましたが大切な人たちが天に還られますます私も残りの人生の使命を強く覚悟することができました。この世にいなくなるのは寂しいですが、生前の雰囲気や声はいつもイキイキと心に響いています。いのちと対話するのに昨年は自分自身の体と対話することをとても大切に過ごした一年になりました。内臓もこれだけいのちを支えているのに普段はあまり配慮せずに反省もありました。いつも偉大な働きをしてくださっているその内臓と対話するような暮らしをはじめています。また自分の普段の意識にも目を向け、波動を調える美しい暮らしを心がけました。また無機物の発する音や風や水や火という精霊のような存在のゆらぎからもその深い徳と偉大な叡智を学びました。

その上で今年のテーマは、「謙」を一文字として設定しています。この謙は謙虚の謙からの言葉です。言うは兼ねると書きます。今から29年前、当時のメンターから謙虚であれとたくさんご指導をいただきました。もうこの歳になりまたなぜ改めて謙なのかと考えてみると、そもそもこれは一生涯の生き方に関係する言葉だからだとわかります。

私は謙虚を想像するとすぐに素直という言葉が出てきます。これは常に一対です。つまり素直を実践するとそれが謙虚になります。至誠も正直も同様に、私たちは言行一致、真心のままに行動するということが一番の徳積みです。あれこれと考えを巡らせては自分の置き所を間違っていくのが人間でもあります。私は35歳になったときから来たご縁を選ばずにすべて受け容れると決心して、それからは栃の実が川に流されるようにすべてお任せにするようにして生きてきました。

しかしご縁は不思議で自分の思ってもみないことの連続に心を痛めたり、あるいは判断を迷い苦悶することも多々あります。同時に、自分の想像を超えるような偉大なご縁であったり、一期一会の大感動に魂が震えることもたくさんあります。

まだまだ未熟で私が知らないことばかりの膨大な宇宙や世界がこの世にはあります。悟ることやわかることは大した意味はなく、それよりも自他一体になることや全体快適であること、あるいは神人合一するような体験や修行のプロセスの中に永遠普遍の喜びや豊かさは生きています。畢竟、自分の人生にちょうどいいことしか自分にはやってこないということでしょう。そうやって手放した数だけ自分自身との一人の対話が成り立ちました。

今年はまさかのスリランカのワニアヤ・アエット長老とのご縁からスタートです。ナーガ族とヤタ族、マヒヤンガナのもりの民。人類が原初に何処からきてそしてこれから何処にいこうとするのか。子どもたちの平安や真の幸福のために最善を盡していきたいと思います。

本年もよろしくお願いします。