暮らしながら時を待つ

人間は自然との調和というものを見失ってから目先のことばかりに追われるようになりました。その自然との調和もまた、本来の太古のむかしからある人間性の回復ではなく単なる今だけ乗り切るだけのその場しのぎの対処療法をすることになっていきました。

現実には、この便利な生活を手放すことはできないからその帳尻を合わせることを調和としたのです。例えば、二酸化炭素の排出権などもわかりやすく実際に空気を汚染する国が汚染していない国から排出権をお金で購入します。それでさらに産業を発展させます。しかし実際に気候変動などで影響を受けて被災するのはその空気を汚さない国です。結局は自然災害に遭う費用を購入しているというおかしな状況になっています。

このお金というものは、そもそも自然を破壊するために今では使われています。大量に増産して使えば使うほどに、自然を壊すのです。自然を壊すための兵器こそお金になっています。他にも人間界で環境問題に取り組む様々なことはほとんどが実際には環境破壊の免罪符のように使われます。

私もそれに気づいてから環境運動には参加しないようになりました。結局は、ミイラ取りがミイラになってしまう構造があったからです。本質は、環境問題ではなく常に人間の問題であるからです。

ではその人間の問題をどのように解決していけばいいか。

それは人間自体の在り方を見つめ、日々の暮らし方を換えていくしかありません。一人一人は小さな存在でも、その小さな存在が行う日々の暮らしは偉大な効果を発揮します。

それは自然が一つに結ばれているように、あらゆるものが循環して繋がっているように一人の影響は偉大なのです。

だからこそ、身近な一歩を如何に自然と共生し調和した暮らしで実現していくのか。先人たちが暮らしで自然と調和したように、自然との調和は私たち人間の問題を解決するのにとても大きな役割を果たすと私は思うからです。

一人一人が目覚めその時が来て伝承するものがなかったではあまりにも悔しく思います。暮らしフルネスは、現代では理解が難しいかもしれませんが丁寧に取り組み、暮らしながら時を待っていきたいと思います。

法螺貝のお導き

昨日も法螺貝を通したご縁に恵まれた一日になりました。私は法螺貝に出会ってから、とてもたくさんのことを学びました。法螺貝という貝の生態がどうなっているかということだけではなく、神話の時代から法螺貝が人類にどのような役目を果たしてきたか。また法螺貝を立てる立螺師たちの生き様、その音や波動に至るまで今でも新たな発見が続いています。

そもそも法螺貝の音の世界に優劣や序列などはなく、権威や権力などもありません。ただその人の出す全身全霊の祈りの音やその修行によって磨かれた生き方の波動が出てくるだけです。

言葉でどれだけ語りつくそうが、一息の法螺貝の音で一瞬でその人が悟れます。

それだけ法螺貝には何か、その人としての本質を顕現させる神具としての力を秘めているように思うのです。

また龍という存在と法螺貝はとても相性がいいものです。お水の振動をふるわせ、虚空に響きます。あの世とこの世の境界線を曖昧にし、音がその龍門のようなものを開きます。

これは感覚の世界ですが、確かに何度も法螺貝と共に道を歩んでいれば自ずからその境地に巡り合います。どの場所でどれだけ法螺貝と波動を磨いたか、その磨いた波動の分だけ音に出てきます。

今まで出会った立螺師には色々な方がおられました。技術に長けている方、身体能力がずば抜けた方、器用な方、研究熱心な方、伝統伝承を大切にしている方、道統を守ろうとする方、直向に法螺貝に向き合う方、法螺貝が伴侶のようになっている方などです。

どの方も、法螺貝を通して人生が導かれ、法螺貝と共に修行をしておられました。

私にとっての龍とは何か、それはお水です。

そしてお水とどのように調えて磨いていくのか、その道具が法螺貝です。

これからも法螺貝と共に真の実力を磨き、海と山と空と虚に包まれた道を歩んでいきたいと思います。

ご縁に心から感謝しています。

徳の伝承

私たち人間は本来は自然の一部でした。自然の一部であるときは、自然の中にいて自然に守られてきました。しかし自然から離れてしまうことで、自然の外に出ていきました。そのことで、自然の一部ではなく自然を人間の一部にしてしまいました。人間の一部になれば、人間のために自然はあるわけですから自然をどうにでも管理していくことを正しいことだと思うようになったのです。

例えば、都市部などはまさに人間が住むための設計されたものでそこでの自然は街路樹や公園くらいです。どれもが管理され人間の生活が快適になるように用いられます。都市部では人間にとって便利であるものであふれかえります。それを支えているのはお金です。

このお金というものは、本来は物の交換手段として使われてきました。あるいは、最古の貨幣のトークンにあるように預かりの信用の証明として使われてきました。しかし現代は、お金は別の機能として増産され発行されゲームのように使われています。人間界でのお金は、自然とはまったく何も関係がありません。もはやお金が世界を席巻し、自然を呑み込みました。人間はもうお金の一部になってしまうのもそんなに遠い先のことではありません。

私たちはどこからがズレてきたのか。それは自然から離れたところというのは間違いない事実です。ではいつこんなに離れたのか。私は古民家甦生を通して懐かしい暮らしを学び、新しいとは何かを深めてきました。その中で、徳を積み、いのちを循環させる暮らしをしていた先人たちの知恵にたくさん触れました。

伝統という名のつくものや、伝承されてきた道の中には自然の一部であることを忘れていない人々の生きざまが垣間見れました。そこには自然とは離れないという確かな遺志を感じるものばかりでした。

私が今、暮らしフルネスをしているのはこのように先人たちの遺志や思いを受け継いできたからです。別に人間界での便利な暮らしを丁寧にしても人間の一部として自然を扱っているのではミイラ取りがミイラになるだけで資本主義の助長の一部になっていくだけです。

だからこそ、何をすることが今は最も自然の一部として生きていけるのかを考え抜いて取り組む必要を感じるのです。道はまだ途上ですが、徳が循環する出会いのなかで少しずつ自然の一部としての自分を取り戻してきています。暮らしフルネスの真の目的はこの一点であり、子どもたちに譲り遺していきたい未来は徳の伝承です。

真摯に学び直して、志を磨き、日々を精進していきたいと思います。

当たり前

人間は善悪や正否という考えに刷り込まれているものです。特に日本は集合意識というか大多数の人たちの正義や事実を真実というように思いこみます。マスコミをはじめ、テレビで報道される内容を鵜呑みにしている人が多い国とも言えます。

以前、海外の友人が来られたときにリテラシーの話をしました。彼らは自分から常に情報を取捨選択し、自分から行動して真実を確かめるようにしていると。コロナ騒ぎの時も、自分で本当に何が正しいのかを判断するまで情報を取捨選択したといいます。

今のように情報が氾濫しているような時代は、何が真実かもわからなくなってくるのは仕方がありません。私は自分でお米や野菜をつくっていますが、周囲では無農薬や減農薬、有機栽培や自然農法など色々といわれて販売されています。実際には、本当はどうなのかは自分でつくっていないとわかりません。本来、むかしはみんな無農薬で化学肥料など使っていませんでしたからそんな情報などなくても問題ありませんでした。今では、種の改良をはじめ遺伝子組み換えなどもでていますから何も情報がない野菜はむしろ危ないのではないかと心配される始末です。

つまりは生産性を優先して、不自然に無理な生産をする過程でおかしなことをしてきたから情報が氾濫してきたともいえます。これに加工方法まで不自然な加工をしているから何が真実なのか手に届いた時には誰もわかりません。

そこで現在は、ブロックチェーンを使ったトレーサビリティといって生産から加工まで不自然なことをしていないかを証明する仕組みを導入するところが増えています。これは偽装をさせないししていないという証明ですが、そもそも不自然な生産をしているものを証明してもそれを不自然だと思わなければ本末転倒になるでしょう。その中にはお金のために過剰に大量に生産することも不自然ということになります。

私は伝統在来種の高菜を育てて加工して漬物やスパイスにしていますが、いわゆる何もしていません。むかしながら種で普通に種を蒔き、農薬や肥料も使うことなく収穫したら天日干しにして樽に塩で漬けこみます。塩も海水を薪で煮込んで乾燥し天日干ししたものです。いわゆる何もないむかしの高菜漬けです。

しかし周囲の高菜は、宣伝文句や加工方法に無添加とかパラベンフリーとか自家農園生産とか、発酵無使用とか手作りとか書いています。そういう私も結局は説明するために、何もしていないことを書くために長い文章と写真でパンフレットをつくっています。

おかしな話で、今が偽装や不正が多いからそうではないよというのがアピールポイントや商品の魅力になっています。私からするとそんなことしないことが、生産するうえで生産者として「当たり前」でそれは不自然だから当然しないという人間性や真心の問題だと思います。

お金をたくさん得るために過剰に生産をして販売をする。そのうちに当たり前だったものが当たり前ではなくなり、情報が錯綜していくのでしょう。

今の時代、真の情報とは何か。

それは生き方だと私は思います。真心の生き方をしている人は、そこに偽装は必要ありません。そして当たり前にその人は、自然に寄り添った人生を歩みます。それは暮らし方にも出てきますし、働き方にもでてきます。生き方は偽装できないからです。

子どもたちのためにも、日々に丁寧に当たり前の暮らしを磨いていきたいと思います。

龍のご縁

私の今、住んでいる場所は八大龍王が祀られているところです。先祖代々、八龍権現を信仰し、氏神さまも八龍権現社です。家の前には、八龍権現池がありその先に八木山の龍王山を望みます。また地下水をくみ上げて日々の暮らしの中で活かしていますが、このお水も龍王山の伏流水だといわれます。

私は辰年の辰の刻に産まれ、小さいころから龍やお水が大好きで私が行く先々に井戸があったり滝があったり、石清水があったり雨乞いの場所だったりにご縁があります。特に10歳くらいから龍のことが好きで、自転車で地域の池という池を探検し白い龍を探していました。なぜ白い龍がいると思ったのか、今思えば不思議ですが核心に近い感覚があり親や大人から池は危ないと警告されていてもあちこち探検したのを覚えています。

はっきりとは思い出しませんが、龍を観て納得して探検をやめたのは覚えています。その後は、龍から離れますが今度は15歳くらいのときにまた龍に目覚めます。サンスクリット語の勉強をはじめ、庭先に龍神をお祀りしてお水をお供えしはじめます。多感な時機で、霊感のようなものも発動して少し不安定だったかもしれません。隣家が火事で全焼したとき、空に巨大な龍が舞い上がり雨が降ってきたのは覚えています。その時、お祀りしていた祭壇のお水杯が崩れお札もどこかに消えていました。

そしてここ数年、邸内社に闇龗や八龍権現をお祀りし、日々に龍王山と八龍権現池に祈りを捧げ、古民家甦生をするなかで井戸の甦生に携わり、また英彦山の弁財天や、瀬織津姫、観音様の場を幾度もお手入れしお祀りするなかでよく龍とのご縁が増えています。よく夢にも出てきますし、空や森、巨石の中、火の中にもでてきます。この龍は、アニメや漫画や映画で観るような龍ではなく気配や感覚、水を通して記憶が結ばれ出会います。

私の先祖は雨乞いをしてきたからか、どこか遺伝子や記憶にその感覚を宿しているのかもしれません。

お水というのは、まだ科学では証明されていないことがたくさんあります。お水の持つ力をどれだけ引き出せるかは、その人のお水への信仰の度合いに由ります。昨年末、私はお水を触り注ぐだけで別のものにしてしまう人にお会いしました。大変な衝撃を受け、私がお水に対して謙虚ではないことを自覚し反省する機会になりました。

龍を信仰するというのは、言い換えればお水を信仰するということでもあります。

天之御中主神が造化の根源ですが、これはお水ということでしょう。そこから変化したのが龍であるのなら、私たちの信仰の原点はこの龍であるということは間違いありません。

龍のご縁に導かれ、様々な出会いがあります。子どもたちにお水の徳が伝承していけるように精進していきたいと思います。

光の徳

先日、古代からの行者堂で護摩焚きをするご縁がありました。この護摩焚きは密教などでも使われていますが、私はイラン人の方から拝火教(ゾロアスター教)のことを教わりそのご縁から興味を持ちました。それまで私は護摩焚きは火を拝んでいると思っていましたが、そうではなく光を拝んでいると聴きました。つまりは、拝火教ではなく拝光教であるということです。これにはとても納得したのを覚えています。

もともと私たちは光によって清め祓われているという感覚を持っています。朝夕の太陽の光を浴びていると、その感覚は誰にでも強くあるはずです。特に一陽来復の冬至のときや、夏至の日などはよりしっかりと実感します。

護摩焚きというものも、つい炎の方を見て燃えている様子が注目されますがよく観察すると光明が広がっています。特に岩窟の深いところや漆黒の暗闇の中で蝋燭の火を灯せばその周辺には明かりが広がります。

これは燃え盛る大きな炎ではなくても、小さな炭火に息を吹きかけても出てきます。私は炭が好きでよく炭を拝みますが、その光は小さい中にも偉大な明かりとして燦然と輝きます。

イランの方の拝火教では煙をお水という表現をされていました。確かに煙の中には、空気中の水分と和合してそれが広がっていきます。燻されるのもまたその水分によってのものです。しかし光は、煙ではありません。光は、火の深い部分から産出されてくるものです。

私は特定の宗教をやっているわけではなく、神仏自然全部和合している自然混淆を信仰していますが火にも水にも土にも木にも音にもその奥深いところにある徳に感動し、日頃の暮らしで調えるのに活用しています。

私たちは毎日、光を浴びています。植物などは、その光のエネルギーを栄養にして生きています。この光は単なる光ではなく、確かないのちを持っている特別な存在です。そして光が創り出す熱量は、私たちのいのちをあたため元氣にする存在でもあり、あらゆるものを清め浄化する存在でもあります。

今年は光を感じる取り組みを深めていくつもりで、護摩堂のようなものを私なりに創ってみようと思っています。色々と誤解されたりするかもなぁとは心配しつつも、自由に自分の古代からの感覚に委ねていきたいと思います。

子どもたちや子孫たちに本質が伝承できるように、ご縁から得た真理を形にして一期一会の方々と結んでいきたいと思います。

伝承の真理

伝承というものは不思議なもので、言葉や文字では伝わらないものもあります。それは感覚として場を通して伝承するものであったり、何か自分の胎内に宿っているものが何かに目覚めるように伝承するものがあります。他にも、音による伝承であったり臭いなどの五感に感応して伝承することもあります。そのどれもが、一期一会であり誰から誰へかというものも奇跡的な確率で巡りあいます。

つまりこれらを深めていくと、伝承は全てご縁によって導かれているということです。だからこそ、伝承者という人たちもまた一期一会の存在です。

伝承者というのはその一生の人生において、ただ一心に伝承を生きていきます。見返りもなく報酬もほとんどありません。しかし、伝承しているという感覚だけは持っているように思います。その人生をやり遂げ、途中で道が絶えたように見えたとしても実際にはきちんと次の伝承者にバトンが繋がっていきます。この絶妙なバトンは、まるで糸が網羅しているように途切れることがありません。

つまり伝承というのは、網羅の中で行われている結びの系譜であり誰かが動けばその動いた網羅がたなびくように他の伝承者に電気信号のようなものが伝導していきます。

波動や音というものも同様に、音は消えているようで消えず網羅した糸を辿っては別のところに伝わっていきます。

この世には目には観えないものがあります。そしてまだ科学では証明できないものがたくさんあります。それは伝統や伝承に関わっているといつも実感するものです。

時代がどうであろうが、普遍的に伝承されてきた真理は変わることはなく伝道が永続しています。出会いを忘れず、ご縁に導かれ、一期一会の伝承に感謝して徳を磨いていきたいと思います。

伝統文化

昨日は、今年最初の聴福庵でのおもてなしの一日になりました。古民家は経年変化がとても豊かですが同時にお手入れする機会も増えていきます。修繕をすることで益々善くなっていくのですが、その分、修繕の工夫も産まれます。

そもそも改善するという意識は、目的を忘れないための大切な伝統です。伝統ということはそれだけ生き方を磨いてきた先人たちの遺徳を感じる機会になります。

例えば、汲んできた井戸水を鉄鍋で時間をかけてじっくりと炭火を入れていきます。御出汁は、お野菜や昆布などで丁寧に引き出します。心を離さず、素材やいのちが活かされるように手を入れます。和食というものは、道具たちを観てもすぐにわかるように全てのいのちを調和させていくプロセスのことです。まさにこれも伝統であり、生き方です。

私たちの伝統文化というものは、全て先人たちが大切にしてきた生き方のことです。伝統文化が消えていくというのは、生き方が消えていくということでもあります。

この生き方というのは、人生の目的のことです。

何のために生きるのか、それを真摯に向き合っていくその人の道のことです。それがずっと長い間、人の間で継承され磨き上げられていきます。それを徳ともいいます。この徳が積み重なっていくことは、生き方が積み重なっていくことでもあります。

私たちはそれを職業としての仕事でしなくても、日々の暮らしの中で実現していけます。日本人の本来の暮らし方は、生き方であったともいえます。

時代が変わっても、大切な生き方は変わらないで子孫たちに道を伝承していきたいと願います。伝統文化の真価を、日々の暮らしの実践でこれからも伝道していきたいと思います。

先住民族の智慧

スリランカで人類最古の先住民族ワニアレットにご縁を得てから、改めて日本の先住民のことも深めてみることにしました。日本にもかつてはサンカやアイヌという先住民族が暮らしていました。狩猟採集生活をし、古代よりずっと山や森に棲んでいたといいます。

そもそも今、私たちの認識している歴史というものは勝者の歴史であり大多数の人たちが教科書及び、国家の指導によって編纂された認知した偏ったものです。歴史というのはまさに多様性であり、本来はそれぞれの種類の人たちから丸ごと聴いて確認することで全体の真の歴史観が磨かれて顕現してくるものです。

多様な民族の神話にはじまりそれぞれの暮らしの中の口頭による口伝、及び実践伝承されてきたものの集合知、集大成こそがこの地球や国土の真の生きているままの歴史ともいえます。

現在のスリランカで先住民族たちの歴史や暮らしが国家により奪われていく姿を目の当たりにして、私たちの国は本来はどうであったのかということを今一度見つめ直してみたいと感じました。

よく考えてみると、山岳修験というものや山岳信仰というものは自然と共生するなかで得た智慧が結集したものです。先住民たちは、薬草をはじめ様々な治療技術を持ち、また狩猟採集によって自然の掟や伝統を守ってきました。さらにはすべての生き物たちと調和し、いのちの循環を促してきた存在です。これは古代のむかしからずっと永続してきた人類のありのままの姿です。人間らしさの徳というものもまた、こういう環境と歴史によって磨かれてきたものであったはずです。

そう考えてみると私がお山の暮らしに惹かれるのは、どこかルーツや根源に惹かれているからかもしれません。本来、私たちの先祖は何処からきたのか。今回のスリランカでのご縁で、何か自分の深いところに眠ったままにいるものが呼び覚まされてきています。

それはかつての先住民族たちの智慧と暮らしの覚醒です。

今の時代だからこそ、先住民族たちの徳に触れ、その徳に救われる時ではないかと思うのです。子孫たちの仕合せで豊かな未来のためにも、これからじっくりとヒコサン・ヤマトとマヒヤンガナ・スリランカを起点にして深めていこうと思います。

5年

来月の2月4日に妙見神社(ブロックチェーン神社)の例大祭と徳積財団5周年記念行事を開催します。有難いことに年々、素晴らしい方々との新たなご縁が増えて徳が循環してきました。

思い返せば、何もないところからすべてははじまりました。あったのは志とご縁だけです。そこに同志が現れご縁が結ばれ導かれて歩んできました。私は特別な資格をもった神職でもなく、職業として神社の運営に取り組んではいません。ただ、一心に神様に恥じないように場を磨いていこう、場を調えていこう、場を清めていこうと日々に祈りを捧げて法螺貝で波動を放ちます。消えていく音を聴きながら、消えない音が世界に響き渡るのを心静かに祈ります。

この5年で不思議なご縁に恵まれ、本当に多くの徳ある方々が参拝してくださいました。そして例大祭だけでなく、行事があるごとに神様にお仕えする巫女さんや演者のみなさまが神楽奉納をしてくださいました。また大切に育てたお野菜や果物、手作りのお菓子や御餅なども奉納してくださいました。その一つ一つを忘れません。

信仰というものは、生き方です。

それぞれが信じた生き方をみんなで織り込み一つの偉大な反物を縫い合わせていきます。光の道のなかをみんなで一緒にこの時代も歩んでいくことが仕合せそのものです。妙見の恩徳に見守られた5年間でした。

また同時に徳積財団を発足しどうやったらお金や便利さ、人間性を失わない世の中にできるかを真摯に向き合ってきた5年間でした。ここでも同じ問題意識を抱え挑戦する仲間に多く巡り会いました。みんなそれぞれの場所で、生き方と働き方を見つめ道を切り拓く挑戦をしています。

私も人類の起源まで遡り、人類とは何か、そして真の人間性とは何かを徳を見つめながら探してきました。スリランカで仏陀の足跡をたどり、最古の先住民族の姿に触れて、伝統的な暮らしの意味を学び直しました。

論語の徳は孤ならず必ず隣有の意味も、一つ前に進みまったく別の意識を得ました。布施や托鉢はそれそのもので一体であるということです。

もう5年、でもまだ5年。

この一歩一歩歩んでいくなかにこそ、徳の道は存在します。

子孫のためにも、人類のためにも、今こそ徳を積む真の意味を伝承していきたいと思います。継続できたこと、ここまでこれたこと、たくさんの見守りとご支援に心から感謝しています。

また例大祭と5周年記念でお会いできるのを心から楽しみにしています。