暮らしの記憶を甦生する

自然界には戦争というものはありません。食べ食べられる存在ではありますが戦争をしているわけではありません。必要以上のものは食べず、生きていくためにお互いに循環の世の中で分け合い暮らします。人間は人間性を失ってから戦争をはじめました。その戦争のはじまりは便利なことを知ったことからはじまります。この世で便利さに気づいた人間が、人間性を失い最後には人間ではなくなっていったのです。

では人間ではないものというものは何か、それは人間ではない何かということになります。不思議なことですが、私たちの認知できないことがこの世にはたくさんあります。空気のように最初からあったものに人間が気づかないように、人間がすべてに気づくことはありません。

しかし、心のどこかで違和感というものを感じるものです。この違和感の正体が空気に気づくための方法かもしれません。

数千年を生きてきた先住民族たちは、自然と共生する術を持っています。自然に寄り添い、自然から守られて生き続けてきました。私達よりもずっと長く存在する自然は、私たちいのちの先生でもあります。

その先生の教えを素直に学び、自然の中にある人間としての徳を磨いていくことで私たちは自然の偉大な仕組みと同化してきました。それは当たり前にあったものです。そこから何かが追加され、現代のようになってきたのです。

伝統文化というものは、法律でもルールでもありません。それは今まで自然界と共に生きてきた人々が持つ暮らしの記憶です。この暮らしの記憶の中には、私たちの人間性が宿っています。

現代においても、私たちがその暮らしの記憶を大切にして歩んでいくのなら人間性は磨かれ徳が積めます。

今、私が取り組んでいることはこの暮らしの記憶を甦生することです。

子孫たちや先人たちに恥ずかしくないように、今を大切に結んでいきたいと思います。

真に豊かな人の道

人間らしさや人間性というものを深めていると色々と気づくことがあります。一般的な定義では、道徳性や思いやりなどを指すようですがでは人間らしくないというものや人間性が低いというものがどういうことか。

例えば、人間らしくないというものは元々持っている人間の要素がないことをいいます。ロボットのように便利なものであったり心がなかったり、何も感じないものです。人間性が低いというのは、道徳的な行動がない人をいいます。自分をコントロールすることができずに荒んでいるなどです。しかし同時に人間臭いという言葉もあるように、コントロールできないけれどそれを何とかコントロールしていこうとする姿を人間として共感するというものもあります。

結局、人間とは何かという問いは当たり前の真理であるにも関わらず四六時中に常に意識することはありません。

私が思う人間性とは、心や感覚を研ぎ澄ませて自然と寄り添い全体を活かす存在です。精霊のような自然界のいのちを調え、静かに穏やかに自らの聖性を全うする。さらに細かく言えば、物た心を大切にし、感謝を忘れずに真心を生きる。丁寧に暮らし、いのりを生き、ご縁に従い最善を盡す。天地自然と同化し、徳を積み、循環の結びを澱まないように歩んでいくというものです。

人は人間性を失うとき、自然から離れます。自然というのは常に人間性と共にあります。私たちが自然に寄り添うとき、人間性は発揮されます。非常に残念なことに、自然に敵対し自然を排除し人間は人間性を失い続けています。

今一度、人間性を取り戻すにはどうすればいいか。

そこには先人たちが生きてきたような暮らしから学び直すことしかありません。便利な道具や欲望を満たす道具が増えていけばいくほどに、私たちの人間性は失われ続けます。

自然から離れることで好き勝手できてきましたが、そのことから人間性を失わってしまえば本末転倒です。いにしえの原初の原点に帰り、人間は人間をやり直すことからこの世を甦生させていくしかありません。

子どもたちに何を残していきたいか、それは真に豊かな人の道ではないかと私は思いますが皆さんはどう思いますか?

丁寧に一つ一つ意識を変えて、道を拓いていきたいと思います。

人間らしさと人間性

スリランカから帰国して少しずつ道中の振り返りをしています。頭で理解するよりも体験から気づいた量が多いとそれを消化吸収していくのに時間がかかります。身体で得た感覚は、思想だけでなく価値観も変化させていきます。自分の変化が気づきそのものですから、何が変化したのかを振り返ると何に気づいたのかがはっきりするのです。

そもそも今回の旅は、ルーツを辿る旅でした。原初の仏陀をはじめ、神話からの人類の伝承を確認するためのものでした。その理由は、原点回帰をするためであったことと、温故知新してあらゆる複雑なものをシンプルにして甦生させていくためです。

徳積の起源であったり、暮らしの根源であったり、普遍的な大道の再確認であったり、そして新たな遊行の一歩を踏み出すことであったりと理由は様々でしたがそのどれもが存在している懐かしい旅でした。

原初の存在とは何か、それは人間らしさです。別の言い方だと人間性ともいいます。もっと言えば、人間とは何かということです。

今の人類は、人間らしさを失っているように思います。人間性というものもまた意識することはありません。しかし、今こそ私たちは徳に回帰し人間性を回復させる大切な時節を迎える必要があるのではないかと私は思います。

ワニアレットの長老をはじめ、スリランカでは人間性の美しい風景をたくさん見ることができました。そこには確かな人間らしい暮らしがあり、そして人間らしい生き方がありました。

お金やビジネス、富の独占や情報化、便利化など人間性を失うリスクに直面してももはやそんなことをどうでもいいかのように日常に多忙に流されていきます。私は決して文明の発明は悪だとは思っていません。しかしそのことにより人間らしさや人間性を喪失することは、真の豊かさや仕合せを手放す結果につながっているようにも感じるのです。

人間はこの地球に生きることを許され、自然と共に寄り添いながら一緒に天寿を全うする仕合せをいただいている存在です。この奇跡はなにものにも代えがたく、人間であることが最幸の歓びです。

人間が人間らしくあるとは一体どういうことか。それは人間が人間性を失わずに生きているということです。人間が人間性を失えば、それは生きた屍であり、希望をうしなった人形のようなものになります。人間らしさや人間性は、私たちがこの世に「生きている」という証明であり実感です。

生きている実感は、日々の暮らしや徳を積む中に存在します。だからこそ、私たちは文明とのバランスを真摯に保ち、人間らしさや人間性を失わないような生き方をこの時代でも実践していくことが平和や共生や自然との循環を保つ最大で最高の唯一の方法になるのでしょう。

私たちが今生きているように子どもたちも未来を生きます。その子どもたちがいつまでもこの世の幸福を謳歌できるように、今の私たちがどのような生き方を実践していくのかは方向性を決める最も大切な真理です。

人間らしさ、人間性をどう磨いていくか、それは私たちが決めます。

これから引き続き暮らしフルネスを通して真心の丁寧な暮らしを積み重ね、徳が循環するような布施と托鉢の遊行をさらに巡礼していきます。

一期一会の仏縁と地縁に感謝して、私の天寿を全うしていきたいと思います。

場に馴染む

身体というのはその場所と同化していくものです。それだけ場の影響というのは身体に大きな変化をもたらします。例えば、昨日までスリランカにいましたが気候や風土に身体が馴染みその土地の空気感と感覚と一体になります。感じる音や味、そして光や臭いまでその土地そのものの感覚になっていきます。途中で中国にも立ち寄りましたが、以前その土地に長く住んでいたからかすぐにその土地の場に馴染みます。帰国して一晩、実家で休めばまたこの場所の空気感に馴染みます。つまり、私たちは場に馴染むことでその場所の感覚に変わっているということです。

身の回りにあるものもその場所に馴染みます。どんなものでも馴染みます。それはその場所そのものと同化するというものです。これはいったい何を意味しているのか。それは場が生きているからです。この場が生きているというのは、その場が発酵し続けているということです。これは漬物の馴染むものにも似ています。漬物は漬ければ漬かっていきます。同様に、万物も場に漬かっていくのです。だからこそ人は、どの場に漬かっているかがとても大切になります。

また馴染むことで、自然にその場で得た感覚を獲得します。つまり身体と体感で得た感覚は、まるで一度覚えて馴染んだ言語を思い出し使えるように自然に馴染んだ場が身に漬かっているのです。

そして馴染んだ感覚の総合力が今の自分のいる場を顕現しています。つまり場が私であり、私が場になるのです。

山に馴染む、岩に馴染む、滝に馴染む、土に馴染む、どのようなものにも馴染むことができます。馴染んだとき、深い関係性が感覚を結びます。この馴染むという感覚は最も大切であるにも関わらずあまりその重要性に気づいていない人が多いように思います。

馴染むことを学ぶことは、場を學ぶことです。場を學ぶことは、いのちを活かし天寿を全うする道を得ることです。

場を磨き、場を創造し、場に馴染む生き方を顕現していきたいと思います。

真実の確認

今回のスリランカの旅は、今まで解明できなかった謎への解明でした。日本で色々と突き詰めても、その元に辿り着くことは簡単ではありません。歴史の変遷のなかで、途中で改ざんされたりあるいは、他の何かと混淆したりするなかではじまりはどうだったのか、そして本当はどのように意味だったのかは伝わっていません。

元々、真実というものも文章や文字では残りません。文章や文字は便利な道具ですが、そこには智慧そのものにはなりません。智慧そのものを確認するとき、智慧その物から伝承できるのです。

そもそも現代人は、自分で確認をしません。自分で確認しないから真実や智慧にも辿り着きません。確認というのは、自分の五感を含めたすべての器官を駆使して確かめるということです。それを誰かに任せずに、自分で全て確認するということです。

自分で確かめてもないものを誰かの知識だけで鵜呑みにするのは大変危険なものです。

人は確認するとき、ではどのように確認するのか。私の場合は全身全霊で確認します。それは脳も使って調べますが、自分の中で一つ一つのことを結びつなげていきます。また原初の記憶を辿り、原初がどうだったのかを調べます。

この原初というのは、はじまりの記憶のことです。物事は最初にはじまりがあり、そこから未来に結ばれます。その最初を知るというのは起源を知るということです。起源を確認しなければ、本当の意味で主体性が発揮するともありません。起源とは、元々のことですべての根源のことです。

確認するのは、人生も同じです。

自分で自分の人生を常に確認することで自分がどこに向かい何が原点なのかに気づきます。人は確認をするのを自分でやめることから世界を歪めていくようにも思います。

一つ一つは些細なことでも、自分の眼と手と足と五感、そして魂や心など全てを使ってこれからも真実を確認していきたいと思います。

 

空白の解明

昨日は、スリランカの伝統医療の先生の実践とお話をお伺いすることができました。この先生は、ビジネスで医療をするのではなく全て布施により治療をされておられます。日本のむかしもお医者さんというのは、お金を取っておらず藪の中に住み無料で困っている人を助けていたといいます。年末年始に治療を受けて健康になった方が御礼にお布施したということが文献にありました。スリランカでは、今では日本では存在しないようなかつての仕組みで医療を実践するお医者さんがいるというのに感動しました。

佇まいは穏やかで聖者のようで、真心を籠めてご家族で私たちを歓迎してくれて色々と伝統医療や薬の作り方からその取り組みの姿勢、伝来の秘術まで惜しげもなく見せてくださいました。

この伝統医療のお医者さんは12代目に入り、先祖から伝来する書物や道具を受け継ぎ今も同じように薬を調合し診察し治療を続けています。まだ34歳という若さでしたが、仙人のような喋りと祈り方で深い安心がありました。

まずダナワンタリという医神に祈り、薬をつくる場所を清め調え、真言を唱え、方位を定め、すべての五大要素の力が入るように丁寧に道具を置いて牛乳や油を入れた銅の壺に薬を調合していきます。火はシナモンの木のみを用いて最初に30分ほど強火を入れたらあとは弱火で7日間かきまぜて薬草のオイルを生成していきます。すべての精霊が壊れないように手作りで丹誠を籠めてつくります。この様子を見ているだけで、この薬がいのちの甦生に大きな効果を発揮するのは容易に想像できます。

現代の西洋医療は成分のみを科学的に分析して、毒を持って即効性があるものを中心に処方します。しかしこの伝統医療は、根源治癒であり自己免疫のバランスを調えなながら病気そのものを中和して根源的なものからじっくりと治癒していきます。

一つ一つの薬草を採る時にも、丁寧にお辞儀をしてお祈りをして分けていただくように関わる姿に私たちは病気に対しても傲慢になっているのではないかと感じる機会になりました。

私たちの身体はどうやってできているのか、そこにはお水や土や植物や火などあらゆる元素が組み合わさって形成しています。その形成しているものの絶妙なバランスによって身体も維持しています。健康であるというのは、それだけ調和が保たれているということですがそこに対する感謝や謙虚さというのは忘れているのではないかと思います。

病気に対しても、その病気が発生した元を辿れば分けていただいているものへの感謝があるはずです。AIなどでもしもこの肉体がいらなくなったとして、私たちはこの肉体を捨てていくでしょうか。私たちの肉体は多くの元素が自然に絶妙に調和し、様々ないのちを吸収し記憶をもって生きています。細胞にも個性があり、心身も唯一無二です。

最後に薬膳料理をはじめ伝統的な揚げ菓子、そして仏陀が悟りをえるときにスジャータから供養していただいたというミルクライスをいただきました。スリランカに今でも息づいている宇宙創生の神話からの霊薬アムリタ、仏陀が悟る前に施していた様々な伝統医療、そしてその初心、とても深い學びをいただきました。

この學びを子どもたちに伝道伝承していけるように帰国後は実践によって恩返しをしていきたいと思います。ずっと探し求めていた仏陀の道、そして医食同源の道、真心の道、暮らしの道、すべてがスリランカのこの10日の滞在で結ばれて空白が解明しました。

仏陀に見守られた西遊記のような旅でしたが、真理は持ち帰ってからが本当の旅です。これからの新たな巡礼を英彦山から新たに復古甦生していきたいと思います。

ご縁を結んでくださった方々、偉大な見守りに心から感謝しています。

徳壺

アーユルヴェーダを体験する機会のなかで色々と新たな発見がありました。もともとこの古代医療の技術は、宇宙創生の歴史と深い関係があることもわかります。地球がどのように生成してきたか、そしてそのあとの生物たちがどのように誕生したか、そういう元素や根元から見つめてきたものです。

長い歳月をかけて、それぞれの場所と人の間で伝承されてきたのが伝統医療です。それを結集して一つの形式に纏めたものがこの古代医療の集大成、アーユルヴェーダということでしょう。アーユルヴェーダはサンスクリット語で生命と学問という言葉の組み合わせでできたといわれますが実際の翻訳と、現地で感じる意味が異なっていました。つまり古代医療は、長寿と天命、健康と徳積によって幸福が得られるというこの世のいのちそのものの存在の根源に結ばれているように私は感じました。

もともとスリランカの挨拶も長寿を祈るものです。長寿とは、単なる長生きのことではなく天寿を全うするということです。天寿を全うするために私たちはどうあることが最も智慧であるか。そこに徳を積むことが重要になってくるのです。豊かさや仕合せ、そしていのちの喜びは人間らしさや人間性の根源に基づくものです。

アーユルヴェーダでは、いのちの正体、それを元素といいます。つまり今、この世に物質化されているものは何で構成されているのか。それをよりよく深く観察すると、元素が分かれるところからはじまります。その元素を5つにわけたのが、五大元素といいます。「地」「水」「火」「風」「空」です。中国では五行というものが出て、「木」「火」「土」「金」「水」となっています。最近では、このほかにも意識やエーテルというものもあるといわれます。どちらにしても、人間が誰でも認識できる要素、元素がこの5つからとしたのでしょう。

その元素のバランスを観て、それを調えることを医療としました。そしてアーユルヴェーダでは、この五大元素を調えるために法螺貝を使うことも知りました。医学、薬学の神「ダンヴァンタリ(Dhanvantari)は、4本のての一つに法螺貝を持ちます。宇宙創世の歴史のはじまりから法螺貝を医療に用いるのです。

このダンヴァンタリは創始神話の人物です。世界が荒廃して滅亡するとき、すべてのいのちの神々も精霊も悪魔もみんなが一つに協力し合って不死の霊薬(アムリタ)を生み出し救ったという話です。その最後に生まれ出たのがダンヴァンタリでありこの霊薬が入った壺です。

日本では馴染深い存在に薬師如来がいますが、これもダンヴァンタリが伝来したものといわれます。チベットなどでもとても重要な神様となっています。この神様の持つ壺の中が不死の霊薬アムリタですが、霊薬アムリタは、日本では甘露、あるいは醍醐とも訳します。仏教ではこの涅槃、悟りをアムリタ(甘露・醍醐)ともいいます。大般涅槃経巻第14には、「牛より乳を出し、乳より酪を出し、酪より生酥を出し、生酥より熟酥を出し、熟酥より醍醐を出す。」とあります。修行し中道を悟り不死を得るということでしょう。

この永遠ともいえる不死を私は経験から徳と現代では訳します。つまり薬壺は、徳壺なのです。徳が循環するというのは、いのちが輪廻するともいえます。

今回のスリランカ訪問で色々な氣づきをいただきました。ルーツはこの場所にしっかりと宿り、今でも我々現代人に何が最も大切な悟りであるか、そしてどう実践することが古代からの伝承なのかを直観できます。

今回の遊行の旅が、これからの子孫たちの真の幸福につながっていくようにこれから歩いていく道のりの中で一つ一つカタチにしていきたいと思います。

ありがとうございます。

原初の智慧

アーユルヴェーダの博物館で学び、ここ数日は伝統医療の経験をしています。そもそも伝統医療は先人の智慧の結晶です。また地域地域にはそれぞれの地域で遺ってきた治療法があります。その土地でしかとることができない薬草や、場の力、そして経年の創意工夫と実験を繰り返すことにより得られた検証の成果があります。

例えば、ある地域には目に特化した治療法を伝承する場所があります。日本でも目薬の木があったり、ある岩窟の水が眼の治療に効果があったり、その土地にしかない特殊な治療法をかつて経験したことがあります。伝統医療は、代々その土地の人たちに口伝あるいは、暮らしの中で伝承されてきています。医食同源などもその智慧の一つで、その土地にしかない食べ物や調理法なども同様に伝統医療の一つです。

また師弟関係で伝承している治療法もまた伝統医療の一つです。そこでは特殊な能力や不思議な感覚を持つ者同士で施術をすることでできる治療だったりもします。

アーユルヴェーダには、ダンヴァンタリという健康長寿の神様、つまり医神や医父として大切に祀られている存在があります。この神様はヴィシュヌ神の化身として知られ神々へとアムリタ(不老長寿の霊薬壺)を運ぶため、乳海撹拌(ヒンドゥー教の天地創造神話)の際に誕生したと信じられています。

ダンヴァンタリの姿は4本の手があり、その手には霊薬「アムリタ」の壺、また医術が書かれた経典、法螺貝、刃のついた円盤、そしてヒルを持っています。これは治療に使う大切なものだといいます。霊薬は、薬草、経典はマントラ、ヒルも治療用ヒルで毒を吸い出します。 刃のついた円盤は外科手術の道具です。法螺貝は、波動です。ちょうど法螺貝を持ってきていたので治療の前に法螺貝を吹きましたがこの5000年以上続く伝統医療と法螺貝がとても深い関係があることを学び直しています。

スリランカに来てから、常に挨拶は長寿を祈る言葉を話します。長寿で健康であることこそ、真に豊かであることだと感じる場所です。よく考えてみると、暮らしフルネスの実践も全てはこの健康長寿に感するものばかりです。日本では、貝原益軒が養生訓においてその真の豊かさの価値を語ります。そして徳を積むこともまた、この健康長寿と真の豊かさを磨いていくためです。

古代の最先端の医療技術がこのアーユルヴェーダです。そもそも古代技術は古くて不便な技術と思っている人もいますが実際には宇宙創生のころからの奇跡のテクノロジーです。人体というものが出来上がる過程で創生されていますから原初の智慧が全て凝縮されているものです。

これを丁寧に伝承し続けて5000年以上前から続いていることに尊敬の念が湧いてきます。私は英彦山とご縁があってから、様々な伝統医療、本草學に興味が出て深めていますがそのルーツはこのアーユルヴェーダではないかと感じます。

今回の体験からその原初の知恵を氣づき直していきたいと思います。

政教の問題

国家と宗教というものはむかしからかなり密接な関係を持っているものです。そもそも権力や権威というものは、何が正しいか、そしてどれだけそれが真実かということが人が人を信用する柱となります。人はどちらが正しいかで常に力を折衝していく存在です。

歴史を辿れば、政権が変わるたびに国家が主とする宗教も変わっていきます。現代においても、世界は大きな宗教が分かれせめぎ合いをしています。ここスリランカでも、国民の70パーセントを超えるシンハラ人の仏教がありそれ以外の宗教と様々な問題が発生しています。内乱を終えてもなお、新たな国家と宗教の在り方は微妙なバランスで問題を引き起こし続けます。

そもそも古代においては、神と政治とは分かれていませんでした。大和の国をはじめ世界の国々では王と神は一致していましたし、巫女などその関係を結ぶ存在でした。しかしそれが政教分離という権力と権威などが競うようになり、宗教と政治がぶつかり合うようになります。さらには、そもそも人が神のような力を持つような錯覚や洗脳もうまれ、それがテロや内戦を引き起こしています。

国家というものが、差別や不満を生み出すようになることで人々をどう管理するか、統制するかということをその時代時代の権力者たちが知恵を絞って今のかたちになっています。しかし矛盾をはらんだその統治方法は、時間が経てば崩壊しまた同じことの繰り返しです。

以前、カンボジアに訪問した際も政権が変わるたびに宗教が変わるため石像が壊され、時には改造されて歪な石像ばかりになっていたのが思い出されます。結局、何を信じる人々かという自分たちを正当化するために国家が宗教を利用します。そして宗教もまた、自分たちの存在を正当化するために国家を利用します。

政教一致も政教分離も、その実際は自己正当化の手段に過ぎないということでしょう。すぐに人間は、二つに分けては無理やり正当化しあい競争しますがもっと偉大な存在、例えば自然や宇宙といった分けることができないものを信じることで原点を学び直すことが必要ではないかと思います。

この先、分裂したものを無理に一つにしようとするよりも本来はどうであったかと原初の記憶を思い出し、みんなでよく考えて覚悟を決めることのように思います。結局、人間がいなくなったあとにこの地球はどうなっているのか。よく考えて、人間らしさとは何か、人間性とは何か、子どもたちの未来のためにも向き合っていくチャンスだと思います。

真の暮らし

スリランカの先住民たちとのご縁から原初の人類の暮らしを見つめています。もともとスリランカは、暮らしの中に紀元前からの智慧が今も生きている国です。アーユルヴェーダなどにもそれを発見できます。特に先住民、ワニヤレットの人たちは自然に寄り添い、自然と生きてきました。そこに流れている時間は悠久で静か、祈祷や行事を大切にしています。

昨日は、野生の像がいるような原生林を歩きました。また食事や骨折の治療をしているところも体験しました。ここ数十年で劇的に生活が尊重されなくなってきた現代でも、大切なことを守り穏やかに暮らしていました。

この場所にいて実感したのは、先住民たちがもしも地球からすべて滅んだときこそ現代の人類が滅ぶときだろうということです。そこに氣づくためにも、私たちはこの原初の先住民の方々から真摯に學び、人間らしさとは何か、真の暮らしとは何かということを見直す必要を感じます。

世界中で起きている先住民族は、ずっと先祖から続いてきた当たり前の自由、当たり前の生活が現代文明に奪われできなくなっています。それは土地を失ったり、木を切られたり、外からの移住者を入れたり、知識や便利な道具を整備することで奪われていきます。

文明人が与えたことは、実はそれは奪っていることになっているということに氣づく必要があります。これは自然を尊重することに似ています。何もしないというのは、ただ見放しているのではなく見守っているという考え方です。

私たち現代文明人たちの価値観は、便利さを優先します。便利は幸福、不便は不幸だと刷り込まれます。そうすると、不便な暮らしをしている人をかわいそうだと思い便利な道具をどんどん渡します。しかし、その便利な道具にはそれ相応の危険性をはらんでいます。これは戦争の武器も同じことです。簡単に人を殺せる道具が、倫理観を失わせ戦うということの仁義礼智信なども奪いただの大量虐殺兵器になりました。

私が暮らしフルネスを提唱するのは、これらの理由からです。

便利さが新しいと思うのは大変危険なことです。だからといい不便だけが正解で善でもありません。だからこそむかしの人たちは、便不便のバランスをきちんと取りました。人類は、ここにきて一つ次元を超えていけるかどうかが試されます。そのためには現代の価値観をよく見詰め直し、本来の人間らしさとは何かからよく見直し実践しすることかもしれません。自然と寄り添う中にこそ、真の人間性は発揮されるからです。

最後にワニヤレット長老からの言葉で締めくくります。

「現代は何らかの社會に所属して競争を続けている物質化された世界になっている。人間性の本質を見失っている。自然はいつも人々に寄り添ってくださっている。自然の驚異や猛威は人間らしさを失うことへの警告でもある。もしこの先も自然に寄り添わず、お金ばかりで競争を続けて人間らしさを見失うなら必ずいつかは死に絶えることになる。それに氣づいて、それをやめることです」

現地語とシンハラ語、英語と通訳を介した関係で多少の意訳や私の認識も入っているかもしれませんがこの数日間で現地に滞在し場で味わい沁みこんだ言葉でした。

陰極まって陽になる、そろそろ一陽来復です。

これからまた新たな挑戦をしていきたいと思います。