自然との関係

私たち人類のむかしは、土地の所有というものに対してとても緩やかでした。森や海など自然のものと共生し、みんなで共有しているものという意識がありました。それが次第に個人の所有物となり、自然環境のバランスも崩れていきました。神社の杜もまた、神社が固有に持つようになり自分たちで守ることになりました。広大な杜を個人で守れるわけはなく、しかし所有権の問題で手を出せたり出せなかったりして結局は杜は荒れるか、あるいは共生循環するかつての杜ではなくなります。

本来、人間が自然に寄り添い生きてきた時代は自然を所有するという概念ではなく自然に活かしていただいているという概念で暮らしが成立していました。自然が主体で、私たちはその主体を信じて見守りその恩恵で生活ができていました。数千年、あるいは数万年そうやって生きてきました。その暮らしを守ってきたのが、今でも遺る先住民族や少数民族の方々です。

昨日、スリランカの先住民族ですべての部族のリーダーであるワンニヤレットの長老とお会いしお話をお聴きするご縁をいただきました。風貌は穏やかで徳が薫り、自然を見つめる眼差しで真理のみを語られる大樹のような存在です。以前、アイヌの長老にもお会いしたことがありましたが身体から滲みでる存在感はほとんど同一でした。

世界中の先住民族、特に狩猟民族は迫害の歴史があります。アイヌの時も同様に感じたのですが、政府から居住地域を奪われ、それまでの伝統的な生活も失い、誇りも自信も喪失し差別を受けるというはどこも同じです。まるで世界は統一の迫害マニュアルでもあるかのように、世界中のあちこちで先住民族は滅んでいきます。

これだけ時代はグローバルとかダイバーシティ、民主主義で個々の自由を勝ち取ったと謳っていますが実際にはそれは一部の多数派の社会のなかで都合のよいところだけでを切り取って語っているだけです。実際には、少数派や政府にとって都合の悪いものは無視するどころか自分たちの正義の邪魔になるからと排除の対象になっていて尊重されるどころかいつまでも差別の対象になっています。

少し考えてみたら誰にでもわかりますが、食べていくため、生きていく上での環境を失ったらどんな生物でも生きていくことはできません。保護するという言葉は、おかしな言葉で実際には自由を奪って飼育するという意味です。飼育されたくないなら餓死すればいいという具合です。人間というのは自分たちの便利な暮らしのために野生の動物や生き物にも配慮がなくなり傲慢になりますが、同じ人間同士でさえそうなるのです。日本でも森が失われて食べていけなくなった動物たちが山を降りてきて問題になっていますが、そもそも森で生活できないようにしているのは人間が先だということに氣づき直す必要を感じます。しかしそう思っても、実際には行政が決めたから仕方がないと諦めては自分たちの利益を優先してしまいます。

この問題は、地球全体、人類で最も重要な課題でまさに文明末期症状の特徴の一つでもあります。今の配慮と尊重なき一方的な浸食を続けるだけでは、結局は人類も滅びの道にまっしぐらに進んでいくのがわかります。

自然と敵対して征服する生き方か、あるいは自然と共生して寄り添い尊重していく生き方か、覚悟と決心が問われます。人間が差別し続け戦争が失われない理由も、そして子どもたちが精神を含めて病気がこれだけ増える理由もまさに今こそ、この問題をどうあるかを全人類で考える時に来ているように私は思います。子どもたちのことを真に思えば、今手を入れないと取り返しがつかなくなります。

しかし実際には、数の論理で運動論のみで何かをしようとするのは歴史に学んだことにはなりません。それぞれが自分の居る場所でどうするのか、どうあるかを考えて真摯に実践するしかありません。私は場道家であり、暮らしフルネスを実践するものです。

今日もマヒヤンガナの森のなかで、伝統的な暮らしや生き方を学び直してきます。ここでの氣づきを形にして相互に自立しあえる発見をしてみたいと思います。

 

セレンディピティ

「セレンディピティ」という造語があります。これはスリランカの3人の王子の物語から創造された言葉です。この物語は、イギリスの政治家で小説家でもあったホレス・ウォルポールが制作したものです。もともとアラビア語でスリランカのことをセレンディップと呼ばれていました。

この物語はかなりかいつまんで話すと、スリランカの王が幼い頃から知識を習得した3人の息子に跡継ぎの経験を積ませるために旅に出させます。その3人がペルシャに行くときに、ラクダ泥棒の嫌疑で拘束され死刑宣告を受けます。その理由は、足跡から正確にラクダの情報をすべて言い当てたのできっと泥棒だと思い込まれ訴えられたからです。しかし、皇帝が真偽を確かめるためになぜ足跡からそこまで分かったのかを聴くと、見事に洞察した内容を返答し、感動して褒美とその国で力を貸してほしいとまで頼まれたという話です。

ここから西洋的には、「思いがけない幸運」と訳されたり、あるいは「偶然または聡明さによって、予期しない幸運に出会う能力」といわれたりもします。日本では近いことわざに、人間万事塞翁が馬や棚から牡丹餅などがあります。

どちらにしても偶然に想像すらしなかった出来事によって、何かさらに善い事になっていくという意味でしょう。セレンディピティとは、そういうときに使われる言葉となりました。

色々と発祥の地はスリランカではなかったとか、諸説ありますがどちらにしてもよくよく観察するとそれは実は善いことだったというのは往々にしてよくあることです。

しかし人間、うまくいかないときや失敗続き、あるいは後悔するような出来事の時はとてもそれを善い方へと考えることができないものです。

日本では、禍転じて福になるということわざもあります。

信じる力というのは、経験としてはとても大切な徳目であろうと思います。私も色々とこちらで起きていますが、セレンディピティとして過ごしていきたいと思います。

暮らしの修行

スリランカでは巨石の磐座で暮らしている僧侶にお会いしたり、庶民的な家を見学したり会食をしたりとこちらの文化に馴染む一日になりました。ただ、日本との気温差で汗が滝のように流れ、また辛い食べ物も相まってなかなか体がついてきません。日差しが強く、湿気も強く南国のような気配です。島は自然が多く、鳥たちをはじめ動物たちや虫たちの楽園です。

人間の気質も島国特有の楽観的でゆったりとし、穏やかで親しみやすくみんな笑顔が多くて気さくです。写真撮影が大好きなようで、とにかく一緒に写真を撮ってきます。ほとんどの人たちが携帯を持っていてそれを使いこなしています。

一昔前といっても、携帯が普及するこの20年弱である意味世界は一変しました。世界中のあらゆる情報を取得でき、それがそれぞれの場所で影響を与えました。似たようなお店や商品、娯楽施設などもあっという間に世界に広がり、食品を含め仕事も変わっていきました。

今回のスリランカでも、当然パソコンも携帯もあらゆる場所で電波が調っていて入ります。むしろ日本の方が伝播のないところがまだたくさんあるくらいです。翻訳も便利なアプリがあり、何かあればそれで伝えます。とにかく、便利さというものが世界を変えてきたということでしょう。

人間の特徴として、便利なものは大好きで新しいものという認識があります。便利なものを手にすると、人はそれを手放せません。これはパソコンだけでなく車などの移動手段、また買い物や宅配など、どんどん便利さは新しさと共に発展していきます。

しかし便利さは完全無敵ですべてを賄えることはできません。その便利さが苦手なものとして伝統的な暮らしというものがあります。これは、自己修養であったり、自分の身体感覚を磨いて心を調たりすることもですが代替えすることはできません。便利な道具が増えても、それで悟ことはできないのです。AIが悟ってもそれは自分の悟りではないことはすぐにわかるでしょう。

日本の曹洞宗の開祖、道元禅師が宋で出会った老典座との会話の中で発見した真理に「偏界曾て蔵さず」(へんかいかつてかくさず)があります。これは私の意訳ですがこの世はかくすことなく全てそものが現れている、暮らしそのすべて一切が丸ごとの修行であると。

これは私の暮らしフルネスの実践の中心にあるものと同じです。

スリランカでも、私が感じるのはこの便利さということと知識や何か特別な修行をすることがいいことのように広がっている教えというものの矛盾です。真の教えとは、そんなに特別なものではなく伝統的な暮らしを観たらその中で全て含まれていることを感じます。

修行そのものが目的になってしまったり、悟ることそのものを目標にすると本末転倒するというのはどの時代も同じなのかもしれません。便利になることは新しくなり世界が変わると思っても、その変わった世界は本来の人間としての修行とは関係がない別の物ということでしょう。

色々と自分の刷り込みを疑い、今日も色々と確認してみたいと思います。

失われたものから学び直す

無事にスリランカに着いて今日から移動を開始します。日本ではストーブをつけ朝から雪が降っていましたがこちらは熱帯でクーラーをつけています。早速、蚊が襲ってきて寝不足気味です。コロンボという都市に泊まっていますが、それでも早朝からニワトリが鳴いている声で目が覚めました。猫も犬もいて、小鳥も多く自然がいっぱいです。

スリランカの人々の特徴は、一般的には家族を大切にし、人とコミュニケーションをとるのがすき、時間に少しルーズで平和的だと言われます。日本の離島のような雰囲気もあり、また僧侶が尊敬されていてみんなで大切に接したり、よくお祈りをしたりとむかしの懐かしい日本の雰囲気があります。

今回は、一昨年よりご縁ができて関係が深まった方がご案内してくれます。色々と丁寧で親切、薬草をはじめ巡礼や伝統的な暮らしなど日本で取り組んでいる暮らしフルネスや遊行、また子ども第一義の理念の学びも深まる予感がします。

すでに日本では失われてしまった文化を学び直すことは、自分たちが本来どのような民族で何をしてきたか、その初心に帰ることでもあります。

また私は徳積財団を運営し、徳が循環する経世済民の世直し行に取り組んでいますがスリランカの仏教の形態や功徳を重ねる仕組みにとても共感があります。日本では、ほとんどが職業と宗教が一体になっていて出家といっても、布施や乞食だけで生きている人はほとんどいません。

しかし本来、古来からの仏陀の仕組みは布施と乞食により徳を積む実践を通して人々に因果律をはじめ輪廻転生などを伝承してきたものだったはずです。

自分の中にある常識を疑い、今一度、何が布施経済の根幹なのか、何が徳積経済の本質なのかをこの場所から見極めていきたいと思います。

真心の犬

昨日は、家族で一緒に犬のお墓をつくりみんなで天国へ送り出しました。ちょうど正月明けでみんなが集まっていてもっとも善いタイミングを選んでくれたようでした。もともと賢い犬で、家族の方が鈍くいつも気が付くのが早いのでよく吠えては知らせてくれました。

なかなか通じないからとよく怒って吠えていたのが今でも印象的です。思い出はたくさんありますが、特に印象深いのが失踪した事件です。鎖でつないでいても、それを切って出て行ったり、首輪をつけていても無理に取りはらっていったりと滅多にないのですがその時に失踪します。

急いで追いかけるのですが、追いつかずいつも散歩をしているのにその時だけは走って逃げていきます。散歩の量が物足りなかったのか、でも確かな意思でどこかにいこうとします。

今回の最期も、数日前から吠え続けて何かを知らせているようでまた何処かにいこうと強い力で鎖や網などを乗り越えていこうとし続けていました。チャンスの時は逃さない、そういうタイミングをよく観て判断するタイプだったように思います。

このタイミングというのは真心と密接に繋がっています。我がないほどに真心は発動します。そう考えてみると、うちのサスケは真心の犬でした。

たくさんの思い出や仕合せ、記憶はいつまでも心に一緒にいきています。

また来世あるいは、今世で生まれ変わって魂の再会をする日を心から楽しみにしています。ご冥福を心からお祈りします。

ありがとうございました。

寿全う

昨日の深夜に約16年生きた我が家の犬が亡くなりました。真っ白い柴犬で日本的で凛とした佇まいの気の強い寂しがり屋の犬でした。思い返せば、小さいころからよく噛みつき、しつけもなかなか大変でよく怪我をさせられました。家族のみんなから深く愛され、一緒にいつも居たがっていました。旅行の時などは、なぜ連れていかないのかと吠え続けてお土産を持って帰ってきてもいつもふてくされていました。不思議ですが、旅行に行くことや出張にいくことを隠していてもなぜかバレていて出発まじかになるとかなり怒って吠えていたのが懐かしく思います。

山に登山にいけば、迷子になったり、あと首輪をとっては脱走して探し回った記憶がたくさんあります。その中でも印象深かったのは、保健所で保護されたときと、高齢になって迷子になり溝で発見されたときです。飼い主の監督不行き届きだといわれるかもしれまんが、犬はどれだけ頑丈なものでつなぎとめたとしても時折想像をつかないような本当に大きな力で首輪をとったり、鎖を切ったりします。探す方も、必死で事故にあっていないか、何か辛い目にあっていないかと、心配で眠れず、見つかったときは神様に感謝して涙を流します。

今回は天寿を全うしてどうしようもありませんでした。人間の年齢であれば75歳くらいです。最後は眼も見えなくなり、耳もほとんど聞こえず、後ろ足も立たなくなりよぼよぼでご飯は食べていましたが最期を悟っていたのか、この数日だけは何かに呼ばれているかのように深夜にずっと吠えては必死に何処かに行こうとしていました。

もう犬が先に寿命が尽きて亡くなるのを3回ほど観てきました。どの犬も長生きで亡くなるときはあまりにも悲しくてもう飼わないと涙するのですが一緒に過ごした期間の仕合せで豊かな思い出が幾度となく思い出されまた犬を飼ってしまうのです。うちに来る犬はどの犬もとても忠実で正直で真心と愛情があるものばかりでした。家族の一員として、いつも人数に数えるほどに親しい存在がいなくなるのはとても辛く寂しいものです。残った犬小屋や残置物の余韻が、数か月ほどは残像が宿ります。

すべての生き物は必ず死にます。輪廻転生してはまた別の身体を得て、新たな生を全うします。寿命が全うできるということはそのお役目を生きたということでもあります。大切な存在が増えていくというのは、それだけ大切な存在と別れることもあるということです。しかし、その存在があった御蔭で自分が形成されいつまでもその存在と一緒に生き続けている自分にも新たに出会い続けます。

感情は愛情を伝えてきますが、記憶の中でいつまでも生き続けている彼と共にこれからの先の人生を私も見倣って全うしていきたいと思います。

ありがとうございました。またあの世での再会を楽しみにしています。

古代の技術

色々と仙人を深めていると、古代インドのヨガに辿り着きます。古代インドのヨガは、現代の一般的な身体を調えていくヨガ教室などのヨガとは異なり仙人に達する一つの道です。

有名な人物には、「パタンジャリ」という方がいます。この方はインドの古典哲学者で紀元前200~400年頃に生きていたとされている伝説的な方です。ヨガの経典「ヨーガ・スートラ」の著者として知られていて、今でもこの経典はヨガの実践と哲学を統一的に解説したものとして大切にされています。

これらの時代の仕組みは2400年以上経た今でも、まったく古びれずに真理や本質、智慧を語っています。私たちは、新しい知識を増やしていきさも時代が新しくなったように錯覚していますが便利になっていくことを新しいといっているだけで特に新しいものはほとんど何も誕生していません。

仏陀の智慧をはじめ、覚者たちが目覚めて気づいた智慧、あるいは人類が誕生する原初、もっと以前からある叡智や智慧の存在に気づいたことが最初の新しさの始まりであり、そのあとは単にそれを工夫して便利にしてきただけです。

かつての仙人たちはその叡智や智慧を実践を通して活かしていました。シンプルで洗練されたその実践は、人々を驚かせました。私たちは便利な道具をたくさん発明することによって、かつてもっていたであろう叡智や智慧、古代の技術を捨てていきました。誰でもが便利に、特定の修行をしなくても手に入るものの方が確かに欲望をかりたたせられます。しかしその代償として、かつての叡智や智慧や技術を使えなくなりました。

現代でもその叡智や智慧や技術を持っている人が仙人であり、それは便利さを手放し、真理や神秘を体現して古代からの技術を伝承している人たちです。

スリランカに訪問しますが、数千年も前から同じような生活を森のなかで行っている人たちはきっと仙人の技術を暮らしの中で維持しているように思います。子どもたちに叡智や智慧や真の技術を伝承していくためにも、私自身の色々な刷り込みを取り払い、学びの削除をしてきたいと思います。

仙人とは何か

仏陀は釈迦牟尼とも呼ばれます。この牟尼(MUNI)とは仙人のことです。つまり釈迦仙人ということでしょう。その後は、munirāja 牟尼王やmahāmuni 大牟尼などとも呼ばれているそうです。

もともと仏陀の生涯の中で、最初の仙人はアシタという仙人が登場します。この方は、仏陀の父のスッドーダナ王(浄飯王)の父であるシンハヌ王(師子頬王)の宮廷僧でした。スッドーダナ王がまだ王位に即いていない時にはアシタ仙人は技芸の師だったともいいます。このアシタ仙人は、いずれはブッダ(真理に目覚めた人)、または転輪王となることを予言します。

このアシタ(Asita)とは「黒色」という意味で、仏典には同じく黒色の意味である「カンハ(kanha)」に続けて敬称の「シリ(sri)」を合わせた呼称「カンハシリ」とも呼ぶそうです。「結髪の仙人」と表現されているので、頭髪を束ねて縛っている螺髻(らけい)もしくは螺髪(らほつ)という、ほら貝のような形をした髪形で、当時の行者そのもののを現わしていたのではないかと思います。

よく考えてみると、仏陀が誕生する以前より仙人たちはいてそれぞれに修行をしていました。古代インドでは、「学生期(がくしょうき)、家住期(かじゅうき)、林住期(りんじゅうき)、遊行期(ゆぎょうき)」といって人生のなかで四つに季節を区切った思想があったといいます。學生期は、善い師、メンターの下で真摯に學ぶ。そして家長として立派に家族を養って一族の祭祀を執り行いよく家を纏める。そして子どもたちや後人に引き継いで引退したあとは森、林などに住み瞑想修行などを行い静かに自分と丁寧に向き合い悟る。そして遊行の旅に出て道を死ぬまで歩き出家乞食の暮らしする。これを四住期といって古代インドでは理想の生き方としていました。

仙人のように暮らす人たちが当時もたくさんいたように思います。その中の一人が、アシタ仙人ということです。このアシタ仙人は仏陀にお会いした時、自分が先に老いてなくなり仏陀の説法が聴けないことを嘆いて涙したといいます。そして甥のナーナカに将来仏陀の弟子になるようにと託します。そのナーナカはそれから将来の仏陀に出会うために出家して沈黙行という修行に明け暮れます。そして35年以上の歳月が経ってから仏陀に会いにいき沈黙行とは何かと質問して悟りを開いたといいます。

このアシタ仙人と甥ナーナカと仏陀を関係を観ると、道の中の物語であることがわかります。アシタ仙人が甥に話したのは志の話、そしてそれを受けて出家し道を歩むのも志、仏陀が覚者になりその覚者と道で触れあい魂を通じ合わせたのもまた志。ナーナカは仙人となりその一生一度の仏陀との出会い以降は、二度と仏陀と再会することもなかったといいます。

覚者の志を生きる仙人たちは、普遍的な道を歩む人たちです。その普遍的な道とは何か、それが仙人の生き方の中にあるように私は感じます。

仙人とは何か、原初の仏陀を辿るうえてとても重要なキーワードであることは間違いありません。スリランカのマヒヤンガナで、答えを生きる人々から学び直してきたいと思います。

仏陀という人

スリランカの訪問を控え、仏陀のことを調べていると今まであまり考えてこなかったことに気づき舞う。日本で生まれたら一般的には身近にお寺や仏壇があり葬式や法事があるため仏陀の教えに接してきたものです。しかし当たり前すぎて疑問に思わないで刷り込まれたものも多く、ちゃんと自分で現地で確かめたものはほとんどありません。改めて、そもそも仏陀とは何かということを少し深めてみようと思います。

この仏陀(悟った人)の本名はガウタマ・シッダールタ、パーリ語ではゴータマ・シッダッタは紀元前5〜6世紀頃の人物で現在のインドとネパールの国境付近にあった小国ルンビニーに生まれた人でした。父は釈迦族の国王であるシュッドーダナ、母は隣国コーリヤの執政アヌシャーキャの娘、マーヤーです。

王子として誕生した仏陀ですが色々と後で神格化されているのか、伝説ではお母さんの脇の下から産まれてすぐに天上天下唯我独尊と天を指さして語ったといいます。これはそう誰かが思ったということで赤ちゃんがまず脇から産まれませんし、言葉もしゃべりません。ただお母さんは出産後した翌週に高熱で亡くなります。仏教に関係する名僧などは、みんな幼い頃に親を亡くしている人が多いです。もしかすると、この辺の心の共感や深い悲しみが仏道に導くのかもしれません。

その後は、とても裕福で優雅で何不自由ない生活を楽しみ19歳でいとこのヤショーダラーと結婚し、息子ラーフラが誕生します。順風満帆だった仏陀ですが、ある時、四門出遊という体験をします。これは簡単に言えば、生老病死の苦しみがあることに気づいてしまったということです。そしてその苦しみを取り除く方法があるのかと、王位を捨てて出家してしまいます。

そうして瞑想をはじめても悟れず、数々の苦行を増やして最期はギリギリの状態まで自分を追い込んでいきました。苦しみを乗り越えようとすればするほどに苦しみが膨大になっていく、その苦しみの連鎖のなかでついに苦しみを諦める機会が訪れます。それは今にも死にそうな仏陀をみて、村娘のスジャータが与えてくれた乳粥を食べさせてもらうときに気づきます。それから菩提樹の木の下で瞑想をし、35歳の時についに中道、悟りを開きます。ある意味で、極端な修行によって中間を修養したのかもしれません。そして諸行無常の真理を解きます。つまり、あらゆる物事は常に変化し続けているものでり、変わらないものなどないということを悟ったといいます。

これは自分の人生を振り返っても誰でもが共感するところです。つまり永遠に同じ状態でいられるということは宇宙においてはありえないことで、人は変化するから苦しみが増え、変化するから苦しみを諦めることができる。もっと突き詰めると、変わり続けることがもっともちょうどいいことだということ。そして仏陀は亡くなる最期の言葉の一つに「諸行は滅びゆく、怠らず努めよ」といいます。変化するから精進せよと。常に今を生き切ることの大切さを語ります。そして、それがもっともちょうどいいことだとも。

何を仏陀が悩んだのか、何を苦しみと思ったのか、その人生から洞察することができます。私たちはずっと変わらないでほしいと願うような願望を持っています。このままがいつまでも続きますようにとも祈るような思いをするときがあります。それは人それぞれに異なるでしょう。それを執着ともいいます。あまりにも辛いことは早く過ぎてほしいと思うし、人によっては手に入れた財産、栄光や幸福はいつまでもこのまま時を止めたいなどとも思うものです。しかしそれもいつかは消え失せます。まず自分の肉体が先に消えうせます。健康だって一生そのままであることもありません。だからこそ、どうするかと向き合ったのでしょう。

人間というものの存在をここまで真剣に向き合った人がかつていたかというと、やっぱり最初は仏陀だったのではないかと思います。その人間としての道、生きる道を探して歩いた道はその後も同じように人間を生きる後人たちが続いていき今に至ります。

原初の仏陀は、大変失礼な言い方かもしれませんがとても人間臭い存在です。だからこそ、その言葉は多くの人たちの心の中で生き続けているようにも思います。

その後の仏教がどのように現代にいたるのか、その辺もまた深めてみたいと思います。

愛の意味

あと5日後にはスリランカ民主社会主義共和国に訪問します。このスリランカという国名はシンハラ語で「スリ=光り輝く」と「ランカ=島」で「光り輝く島」と呼びます。漢字では「錫蘭」と表記しています。かつて「セイロン」と呼ばれていました。これはサンスクリット語で「ライオンの島」という意味です。その名残が今でも国旗に表れています。

気候が日本とは異なり、最高気温が現在でも30度近く最低気温も24度くらいで平均湿度も75パーセント近くあります。人口は約2000万人ほど、日本との時差は3.5時間、また面積はは65,610平方キロメートルと九州の2割ほど大きいイメージです。国民人口の7割が仏教徒(上座部仏教)です。また国の花はスイレンの花、国の宝石はブルーサファイア、国技はバレーボールが有名です。

私がスリランカのことを深めるのに最初に知ったのが、世界一の親日家ともいわれるスリランカの二代目大統領ジャヤワルダナ氏の存在です。

本来、今の日本は韓国や北朝鮮のように戦後に列強国などによって分割統治される予定でした。それをすべて覆したのはその当時、スリランカの44歳の大蔵大臣だった人のたった一つの15分の演説でした。今の日本を救ってくれた本物の大恩人です。この演説がなければ、今頃私たちは日本国内で争いあい憎しみあっていたかもしれません。

そのサンフランシスコ講和会議での演説の映像が遺っています。

そこでは「私は2つの立場からお話します。1つはスリランカを代表して、もう1つはアジアを代表しての立場です」と言い釈迦の「憎悪は憎悪によってではなく慈愛によってのみ止む」を引用して会場の人たちに語りました。

そして「戦時中、スリランカは日本によって空爆を受け多大な損害を受けている、補償を受ける権利はあるが、私たちは賠償請求を放棄する。なぜかと言うと、私たちはブッダによって目には目、歯には歯という教育を受けていない。私たちは許す。他の国々もそうしませんか?」と呼びかけてくれました。

その言葉に会場の人たちも賛同して分割が免れたのです。

たった一人の言葉で、大きな決断が変わっていく。その人の心の言葉は、その後の子孫たちにも偉大な影響を残してくれました。これは釈迦の言葉が数千年を経ても、その子孫たちの生きる道に結ばれていることがわかります。

私たちは釈迦の言葉に今でも救われている存在です。 

「人はただ愛によってのみ憎しみを越えられる人は憎しみによっては憎しみを越えられない」「Hatred ceases not by hatred but by love」

そのジャヤワルダナ氏は90歳で逝去されますが、形に遺るものは残してならぬといい何も残っていません。しかし、その生き方や生きざまは釈迦と同じく徳として私たちと生き続けています。

その釈迦の歩みと思想が遺る場所に足を踏み入れることは大変光栄なことと思います。色々な歴史を学び直して、改めて愛の意味を結んでいきたいと思います。