自然との関係

私たち人類のむかしは、土地の所有というものに対してとても緩やかでした。森や海など自然のものと共生し、みんなで共有しているものという意識がありました。それが次第に個人の所有物となり、自然環境のバランスも崩れていきました。神社の杜もまた、神社が固有に持つようになり自分たちで守ることになりました。広大な杜を個人で守れるわけはなく、しかし所有権の問題で手を出せたり出せなかったりして結局は杜は荒れるか、あるいは共生循環するかつての杜ではなくなります。

本来、人間が自然に寄り添い生きてきた時代は自然を所有するという概念ではなく自然に活かしていただいているという概念で暮らしが成立していました。自然が主体で、私たちはその主体を信じて見守りその恩恵で生活ができていました。数千年、あるいは数万年そうやって生きてきました。その暮らしを守ってきたのが、今でも遺る先住民族や少数民族の方々です。

昨日、スリランカの先住民族ですべての部族のリーダーであるワンニヤレットの長老とお会いしお話をお聴きするご縁をいただきました。風貌は穏やかで徳が薫り、自然を見つめる眼差しで真理のみを語られる大樹のような存在です。以前、アイヌの長老にもお会いしたことがありましたが身体から滲みでる存在感はほとんど同一でした。

世界中の先住民族、特に狩猟民族は迫害の歴史があります。アイヌの時も同様に感じたのですが、政府から居住地域を奪われ、それまでの伝統的な生活も失い、誇りも自信も喪失し差別を受けるというはどこも同じです。まるで世界は統一の迫害マニュアルでもあるかのように、世界中のあちこちで先住民族は滅んでいきます。

これだけ時代はグローバルとかダイバーシティ、民主主義で個々の自由を勝ち取ったと謳っていますが実際にはそれは一部の多数派の社会のなかで都合のよいところだけでを切り取って語っているだけです。実際には、少数派や政府にとって都合の悪いものは無視するどころか自分たちの正義の邪魔になるからと排除の対象になっていて尊重されるどころかいつまでも差別の対象になっています。

少し考えてみたら誰にでもわかりますが、食べていくため、生きていく上での環境を失ったらどんな生物でも生きていくことはできません。保護するという言葉は、おかしな言葉で実際には自由を奪って飼育するという意味です。飼育されたくないなら餓死すればいいという具合です。人間というのは自分たちの便利な暮らしのために野生の動物や生き物にも配慮がなくなり傲慢になりますが、同じ人間同士でさえそうなるのです。日本でも森が失われて食べていけなくなった動物たちが山を降りてきて問題になっていますが、そもそも森で生活できないようにしているのは人間が先だということに氣づき直す必要を感じます。しかしそう思っても、実際には行政が決めたから仕方がないと諦めては自分たちの利益を優先してしまいます。

この問題は、地球全体、人類で最も重要な課題でまさに文明末期症状の特徴の一つでもあります。今の配慮と尊重なき一方的な浸食を続けるだけでは、結局は人類も滅びの道にまっしぐらに進んでいくのがわかります。

自然と敵対して征服する生き方か、あるいは自然と共生して寄り添い尊重していく生き方か、覚悟と決心が問われます。人間が差別し続け戦争が失われない理由も、そして子どもたちが精神を含めて病気がこれだけ増える理由もまさに今こそ、この問題をどうあるかを全人類で考える時に来ているように私は思います。子どもたちのことを真に思えば、今手を入れないと取り返しがつかなくなります。

しかし実際には、数の論理で運動論のみで何かをしようとするのは歴史に学んだことにはなりません。それぞれが自分の居る場所でどうするのか、どうあるかを考えて真摯に実践するしかありません。私は場道家であり、暮らしフルネスを実践するものです。

今日もマヒヤンガナの森のなかで、伝統的な暮らしや生き方を学び直してきます。ここでの氣づきを形にして相互に自立しあえる発見をしてみたいと思います。