日子鷹菜

この度、私が受け継いできた1200年続く伝統在来種の高菜をお漬物とスパイスにして社会に送り出すことになりました。名前を、郷里の霊峰日子山からいただき「日子鷹菜」と命名して復古起新します。

この伝統在来種は、自家採取といって代々自分の家で毎年収穫したものを大切に守り継いできたものです。気の遠くなるような永い時間をかけてこの土地に根付き、パートナーでもある人間と共に人間に愛されるように進化してきました。特に冬の保存食がなく苦しかった時期に貴重な青菜として、そしてお漬物として日々食べられ、お互いに一緒になっていのちを支え合い生き延びてきました。もしもこの先、輸入が止まり食糧難が来たり気候変動で食べ物が手に入らなくなっても在来種の高菜は今までそうであったようにその時もまたきっと一緒に生き延びるために変化成長してくれると思います。在来種の種というのは、それだけ歴史があり様々な困難を体験して変化し続けてきた偉大な愛があります。

その愛情たっぷりの伝統在来種は、便利な世の中になり一斉に同じカタチ同じ味にするため人間都合で改良されました。また化学調味料を添加するようになりただの保存料添加物になり、むかしながらプロセスを短時間で行い効率化することで大切ないのちを共に生き延びてきた智慧も省いていきました。遠方からの海外の安い高菜を輸入したことにより、お金に利用され生産する側も消費の亡者のようになり農薬や化学肥料を投入し畑も汚染され値崩れしたことで高菜をつくる農家も消えていきました。

この日子高菜は、むかしながらの製法のままむかしのままの畑でむかしの通りに育てて加工しています。新しいやり方をしておらず、先人の智慧の通りに先人を尊敬し高菜を尊重して愛情をこめてつくっています。資料には、無添加とか保存料なしとか消費期限とか色々と書いていますが本当はそんなことを書きたくありません。法律とルールでそうなっていますが、本来はそんなものはむかしのままにしていたら一つも書く必要はありません。

そもそも添加物とか保存料とか消費期限とかチェックしなくても必要ないからです。人間と共に千年以上この土地で共に生き延びて暮らしてきた存在に、表示すること自体が失礼なことだと私は感じるからです。

植物の力や発酵という菌の力は、私たち人間の健康を根底から支えてきました。その証拠に、私たちの身体は腸内をはじめ菌で構成され植物を取らなければ四季の変化に対応できません。まさにいのちを支え、いのちの在り方、賑わい方を教えてくれる先生のようです。

この日子鷹菜を今までは自宅で近しい人たちと食べて守り継いできましたがいよいよ種を持つ人がいなくなり私だけになったことに気づき、もう一度、むかしのようにみんなで見守っていこうと決心しました。この活動の本質は、人間の問題を解決していこうとするものです。環境問題や様々なお金を中心にした社会問題は、自然のせいではなく全ては人間の心の問題です。心は自然と寄り添っていれば、ブレることはありません。自然から遠ざかり、自然を支配したかのように知識や物質で覆うことによって心は忙しくなり見失います。

むかしにただ戻るのではなく、原点回帰しようということで日子山はヤマトのはじまり、鷹は鷹伝説があり、本来の高天原の高の字が鷹であったことに因んで名付けています。

大量生産は人間都合になるのでできませんが、大切な人への贈答用や病気や心身を傷めている方、この活動に共感していただく伝統や伝承に関わる方への応援、あるいは親孝行や子孫への祈りに用いていただけますと高菜も喜びます。

現代のマネーゲームのようなお金でいのちが消えて物質化させられないように、この日子鷹菜は徳積や喜捨、お布施としてのご提供にします。ブロックチェーンでどのように徳が循環するかを記録し、みんなで思いやいのりが広がっていくのを一緒に見守り続けていきたいと思います。

未来が、むかしのように永遠で悠久のいのちの愛に包まれ続けますように。

正直

私たち日本人の大切にしている徳目の一つに正直というものがあります。この正直さというのは、自分に心に正直であるということです。心には嘘はつけないものです。自分の心が素直に感じたものを正直に取り組むということです。

人間には理性や感情もあります。心のままにといっても、それは我欲のままにということではありません。心と欲望とは異なるものです。大欲に無欲に似たりという言葉もあります。無欲さというのは、心の大きさで物事を考えているということでしょう。

心はいつも全体を観ているものです。心が感じるときは、その心に我欲は混じりません。心は素直に自然全体や宇宙全体の理と合一していきます。よく神人合一という言葉もありますが、あれは心のままに自然体になっているということです。これを無我の境地ともいうのかもしれません。

例えば、霊験なお山の場に入り静かに自然と和していると心が調っていきます。その時、正直さというものは磨かれていきます。自然はそれだけ正直であるということです。海外からは神道は古代からのアニミズムとも呼ばれますが、いのちを尊ぶような生き方は正直さの実践によって成り立ってきたのでしょう。

長い歳月を経て、正直さを磨いてきた私たちの先祖は自然に寄り添って自然に近づいていったように思います。自然と一体になればなるほどに正直に生きていくことを学びます。自然から離れれば離れるほどに不正直、欺瞞、嘘が増えていきます。そして心が消失して我欲に呑まれます。我欲を抑えることを理性ともいいますが、本来は心を大切にしていれば理性は必要ありません。

自然から遠ざかり人間社会のみで生きるようになったからこそ心を見失ったような忙しい生き方をするようになりました。心がなくなると人は元氣がなくなります。元氣を甦生するにも、自然から心を学び直す必要があります。自然のなかで正直であることが人を元氣にするのです。

今こそ、私たちは原点回帰して自然と和し正直の徳を磨く時機です。

英彦山、守静坊にはその元氣の源泉場があります。

子どもたちや心を見失っている人たちが元氣になるようにこれから創意工夫していきます。

薬の道

英彦山守静坊の敷地内に薬草園をこれからつくりこみます。もともと霊峰のお山の力を存分に吸収した薬草はとても偉大な力を持っています。霊峰伊吹山なども有名です。

そもそも薬草というのは、植物のことです。雑草などというものはこの世にはなく、全ての草にはすべての徳が具わっています。そしてその徳の中でも人間にとても相性の善いものと、他の生き物に相性がいいものがあります。あらゆる植物は、生命の相互循環を助け、この世に健やかにいのちを伸ばし生き延びることを助けます。

私たちは誕生以来、永遠にあらゆる植物に支えられてこの世でいのちを全うしているのです。

その中で特に人間と相性がよい植物に「蓬(よもぎ)」があります。今回の英彦山の薬草園でもはじめはこの蓬からはじめます。蓬は蓬莱山という仙人のすむ仙境から名づけられたものとも言われます。まさに不老不死の仙薬がある霊峰英彦山にはぴったりの植物です。

この蓬(よもぎ)の語源は調べると萬葉集に所収される大友家持の長歌に「余母疑」とあり蓬が和名だということはわかります。和名類聚抄にはよもぎは「蓬」の文字をあてられています。倭名抄には、「蓬、一名蓽、艾也。與毛木」とあり、本草和名には「艾葉、一名醫草、與毛岐」ともあります。よもぎという呼び名は、私たちの先祖が大切にしてきた大和言葉ということになります。このよもぎという響きはどこから来たのか、これは黄泉(よも)の植物という意味もあるともいわれます。古代アイヌ語ではヨモギを 「カムイノヤ」(神の草)とも呼び、沖縄の古い言葉では、「病気」や「薬」を意味する「フーチ」と、「葉」を意味する「バー」を合わせた言葉でフーチバー(薬草)という名を持っています。

それだけ古代より、悠久の歳月薬として人間と共に歩んできました。

また蓬の学名は「アルテミシア(Artemisia)」といいます。これは古代ギリシャ神話の狩猟と月の女神「アルテミス」が由来です。アルテミスは山野の守護神ともされたところから山野を守る植物として大切にされてきました。

守静坊のある龍谷は、大地と月の女神、瀬織津姫、弁財天の守護する場所です。そして月に深い関係がある女神の力が満ちています。そのお山の神域を守護する願いをこめて蓬とこれから共に歩み古代から続く薬の道を伝承していきます。

古代から続く叡智や真心は、生死の間にあり黄泉がえりの中にあります。

宿坊に遺る薬研や不老園、そしてその場所の気配から本草學を学び直し本来の自然療法や免疫を高め長寿と幸福と健康を祈る場として磨き上げて後人に繋いでいきたいと思います。

いよいよ覚悟を定め、お山での植物と循環の修行に入ります。

変化の研鑽

お水という存在はまだあまり解明されていません。これだけ日常的に私たちは摂取しているにも関わらずあらゆるものに変化できる存在のポテンシャルの一部しか活用できていません。

昨日、お水を注ぐことで別のお水に変化させる仙人のところにいきました。この方は、注ぐ方でお水を色々な味わいへと変えていくことができます。所作の中にもお水への深い尊敬を感じます。

そもそも私たちの認識している水や火、植物というのは知識として持っている物質として思い込んだ存在です。例えば、お水一つにしても汲んだ場所でまったく性質も内容も異なりますし、その時の気温や扱い方でも別の存在になります。それに自分の体内に流れている水とも調和し融合し変化します。

無限の組み合わせの変化があり、その変化次第では今までに想像もできなかったことを実現できるようにもなります。それがお水の性質です。同様に火も同じように変化します。

奇蹟的な組み合わせで私たちは、その存在を感知することができます。自分の感覚を研ぎ澄ませていくことでその変化にも気づきやすくなります。

変化というのは自分自身の変化の研鑽で磨かれます。むかしの人たちのように、日々の暮らしから変化を磨いて様々な徳を活かす修行をしていきたいと思います。

好転反応

好転反応という言葉があります。これはウィキペディよれば「好転反応(こうてんはんのう)とは、治療の過程において改善に向かう中で起こる、一時的に悪化した身体反応のことを指す言葉。東洋医学において瞑眩とよばれるものはこれに含まれるとされる。ただし科学的な根拠はなく、標準医療においては用いられない概念である 」とあります。

具体的には整体などでよく使われている言葉で施術によって筋肉がほぐれることで、血行やリンパの流れが良くなることをいいます。他にも滞っていた老廃物や疲労物質などが血中に入り、排出される過程で体調に変化が現れることだったりをいいます。発熱やだるさなどもその一つです。

科学的な根拠はないとありますが、確かに施術が下手で起きる場合もあれば、身体に合わないだけというものもあります。しかしよく考えてみると、私たちの肉体をはじめ様々なものは好転反応しているともいえます。

例えば、病気というものは一時的に悪くなっているように感じますがそれは別の観方だと治癒しているということです。風邪なども免疫によって発熱や鼻水が出てだるくなり寝込みます。それは健康にするために発生している好転反応ともいえます。他にも、私たちが成長する過程で成長痛があったり、意識変革の際に一時的なショックから立ち直る時に閃きが来たりも好転反応です。

特に今の時代は、浄化やデトックスの際に好転反応があるものです。

私は石風呂を備長炭で行いますが、入るたびに明らかに古傷が痛み、あるいは体がだるくなりトイレに行く回数が増えだるくなり眠くなります。これは身体が浄化しようとするために発生している反応です。

呼び水というものや、お漬物で塩抜きの際に使う塩のように何かを引き金にして解毒や浄化ははじまります。

先人たちは植物の持っている毒性を上手に分量や加工を工夫して体内の解毒や浄化に活用してきました。これは好転反応を確認しながらやってきたことです。科学的に根拠がないから怪しいやしないではなく、よく身体や精神、そして歴史や伝統や智慧を鑑みて善いものは残し、わからないものは慎重に解明していくことが本来の在り方です。

好転反応こそ、身体との対話として真摯に伝統医療を深めていきたいと思います。

人間性の快復

人間は人間中心に物事を考えるようになってから、より自然から遠ざかっていきました。人間中心とは何か、それは人間至上主義ともいえます。これが資本主義の正体です。自然の一部としての人間性を見失った人間はもはや本来の人間らしさはありません。

自然を支配しようとして世界を席巻してきた便利な道具を次々と発明した物質文明の終焉は地球規模の自然災害があれば瞬時に滅びます。文明の滅びというのは、同じパターンで幾度も行われます。人間は歴史に学ばないといいますが、ここまでくると学ばないのではなく何か余計なチップでも埋め込まれているように制限され反抗できないようになっているかのようです。

よく観察してみると、自然界の中で機械を発明して自由自在にコントロールする他の動物はありません。あまりにも地球上の他の生物とは異なります。見方によっては、地球にどこからかの星から別のものが入ってきたような歪さ異物さがあります。

たとえば構成しているものが地球外のものであればすぐに誰でも地球の存在ではないとわかります。しかし構成されているものがすべて地球に存在する成分で人間は形成されています。土や水、そして食べ物や成長、骨格などすべて地球のものです。他の動物と似ていたりもします。

しかしなぜか、他の動物がしないことをするのです。

人間が人間から観たこの世界はどう観えているのか。動物であれば弱肉強食の頂点にいるのが自分たちで最下層は植物ということになっています。これも穿ったものの見方でそんなことはありません。もし今の人間のような視点で植物から観たら最下層が人間であるのは間違いありません。しかし当然、植物はそんなことはしませんしそんなものの見方などするはずもする必要もありません。

人間というのは、自分勝手に思い込みや決めつけを正当化してそれを世の中の絶対的な価値観としてまるで宗教や信仰のように社会通念の常識としていきます。その常識のおかげで、様々な非常識は抹殺されていきました。

環境問題などみても人間至上主義の価値観で取り組む環境問題は環境破壊を促すための免罪符のようになっています。また暮らしも競争しお金を集めること以外をしない存在を犯罪者のように扱い比較差別の対象者にして安心したりもしています。

如何に人間が本来の自然の一部としての人間性から離れたら心のないロボットのようになるのかがわかります。

だからこそ私たちは今こそ、自然の一部として調和する真の人間性を快復する時機に来ていると思うのです。それを私は先人たちが遺してくださった暮らしの智慧に倣い、暮らしフルネスと命名して日々に求道者のように取り組んでいます。

小さな一歩で、自分の小さな場所であってもそれは大きな前進で地球の一部としての大きな場所に繋がっています。

丁寧に取り組み、真の人間性を快復する場を調えて子どもたちに自然に寄り添う仕合せを譲り渡していきたいと思います。

いのちの言葉

日頃、私たちが使っている言葉をよく観察するとそこにはその時代や環境の価値観が大きく影響を与えていることが分かります。例えば、経営戦略や経済戦争など、常に競争をしているからこそ戦争用語が並びます。本来は、経営も経済も争うものではありません。恩や徳、あるいは感謝や安心など日々の暮らしがよりよく調和していくための言葉です。しかし実際には、新たな造語にまでしてそれが当たり前に使われます。

そういう意味では、意訳や誤訳が解釈の違いは人間が創り出していきます。本来は真理を言葉にしたものであっても、それを使う人によって捻じ曲げられ歪みます。これは道具という性質が、人間によってどうにでも使われてしまうからです。

どんなに善い道具をつくったとしても、それを使う人間が善くないとそれは悪しきことのために用いられます。例えば、包丁やハサミも使い方次第では人を傷つける危険な武器にもなります。

だからこそ私たちはこの優れた道具をどう使う人になるのかを一緒に磨き続ける必要があるのです。

ITやAIなど、まさに今は機械という道具が次々に発明され世の中を便利にしています。しかしこの機械のもつ危険性をどれだけ直視して真摯に議論しているかというとほとんど無視しでは欲望や競争の道具としていち早く世の中にあることや使うことを常識にしようと躍起になります。

先ほどの言葉であれば、マスコミの報道を見聞きしていてもわかりますが言葉という道具を巧みに利用し敢えて不安を煽り、ゴシップを流し、専門家がさも絶対のような話を語り部分最適がまるで全体最適かのように本質を歪めます。言葉は情報伝達の道具としては便利ですが、その言葉が大変危険なことを世の中に産み出すことについてはまるで無関係かのようにふるまっています。本来は言葉がない時代であれば、人間は常に自然の一部であり誠の実行実践があるのみでした。

言葉も道具の一つですから先ほどの包丁やハサミのように人を傷つける武器にもなります。だからこそ、言葉は扱い方を気を付けなければなりません。先ほどの経済戦争というのは、お金や石油という武器を使って相手を抹殺しようとしている行為です。そんな言葉を使っていたら、世の中がみんなその言葉によって価値観をつくられます。

自分たちが本来の意味で道具を正しく、丁寧に使い人格を磨いてその道具を使いこなせるようにと学び続けていけば知らず知らずに価値観に流される人ではなく、主体的に価値観を省みて自己を調える人になります。

人間は自己を省みることによってのみ、はじめてこの世の主人公として自立して全体最適に調和していくことができます。

いのちの言葉のことをこれから少し深めていきますが、大前提になっている道具というものそのものの持つ徳をよく見詰め直して纏めていきたいと思います。

炭の生き方

昨日は、聴福庵に懐かしい方々が集まり炭火を囲んで美味しい時間を楽しみました。同じテーマで生きていると、お互いの生き方から学びが深まります。この炭というものの徳は本来は澄みのことです。

澄というのは、お水が透明に澄んでいくイメージがあると思います。色々な不純物が透過され澄まされていくこと。濁っていたものが時間を経て沈殿し透明になっていくように、また燃えて煙が出てその中の光が澄み切った輝きを持つように浄化、デトックスされます。

現代は、何かと濁り澱む時代です。食べ物一つにおいても、大量生産される過程であらゆるプロセスに不純物が混じります。便利さであったり欲望であったり、あるいは効率を優先するために色々な化学物質を混ぜ合わせたりしているうちに身体によくないものを摂取することになります。

それが積み重なっていくと、身体本来がもっている浄化能力が追い付かずに様々な病気になっていきます。そうならないためには、日頃から澄ます実践を積み重ねて浄化力を磨いていくのが一番です。

この浄化の仕組みは実は日本人はとても長けているように思います。神社に行けば、祓えたまえ清めたまえとご祈祷します。またお掃除をしてゴミを拾います。お水に恵まれた国土、自然の新鮮さが充ちている風土があるからこそこの浄化の文化が発達したように思います。

かつての武士の魂ともいえる日本刀などはまさにその澄み切った心の姿を映し出しているものです。恥の意識を持ち、常に澄まし続ける生き方はまさに生き方のお手本です。

この世が渾沌と澱んでいくのは、人間の性質によるものです。人間は人間都合に様々な道具を生み出しますがその道具は危険極まりないものばかりです。それを扱う側がよく育ってもいないのに、その場しのぎでそれを使ってしまいます。

それがそのうちに常識になり、危険性を感じる感性が麻痺していきます。茹でガエルの故事にも似ています。だからこそ、むかしの人たちは澄ます生き方をし、様々な感性が研ぎ澄まされ穢れないように気をつけたように思います。

日々の暮らしの中でどれだけこの研ぎ澄ましていく修養や実践をするのか。私が炭をパートナーにしている理由です。

一期一会のご縁と、対話に感謝しています。

いのちへのいのり

古今、人は何を學ぶのかと問われればそれは道を學ぶと応えます。この道とは何かと言えば今では生き方のことです。生き方を學ぶためには、誠である必要があります。この誠とは、文字通り言うことと実践することを一致させるということです。しかしこれはなかなか簡単なことではありません。

人は言葉を喋るようになり、あるいは文字を持つことによって言行一致することが難しくなりました。自分の血肉になっていないものを簡単に語り、自己を含め人心を惑わします。また実践は終わりなく、磨いても完成はありません。常に自己修養の連続でその最中に人に教えていてもその教えはまだ途上です。結局は、未熟さを知れば知るほどに人に教えることはできません。

神人合一という言葉もありますが、この意味は言行一致と似ています。もしもこの世を素直に謙虚に生きるのなら自らの徳を省みて日々の生活を信仰の境地で調えていくのが何よりも和合することになります。

生活即信仰という言葉があります。

これは日々の暮らしが祈りそのものになっているということです。私は古民家甦生を通してこのことを學びました。むかしの井戸をはじめ、古い道具や建物にはいのちが宿ります。そのいのちに接する時、頭で計算して簡単に使えるものはなくどれも真心を使います。日々の生活の中で真心を使うことが増えることで、頭よりも心が大きくなってきます。頭の一部として心があるのではなく、人は心の一部として人であるのです。

心を盡していく生き方は誠の道につながります。

私は法螺貝を日々に立てますが、これは暮らしの一部になっているものです。お山に入ればお山にご挨拶をし、神様にご挨拶をし、自分の身体にご挨拶をし、場にご挨拶をし、貝にご挨拶をし、太陽にご挨拶をし、お水にご挨拶をし、ご縁にご挨拶をしと、永遠にご挨拶をし続けます。またご挨拶には清々しい気持ちで、いただいているすべてに丸ごと感謝していのり呼吸を吹くのです。

もともと暮らしの中にいつもご挨拶がありいつも感謝があります。それは呼吸をするように吐いて謙虚にご挨拶をし吸って素直に感謝をします。それが暮らしです。

暮らしフルネスというのは人の生きる道の実践です。親孝行も、今いる場を調えるのも、周囲の徳を活かすのも暮らしあってこそです。暮らしの中に色々なことがあり、その一つには仕事があったり、その一つにはお野菜づくりやお漬物づくりなど生きていくために必要な糧をえる活動があります。

当たり前の暮らしの中で、当たり前にどれだけいのちへのいのりがあるか。常にこの世で私たちが試されるのは人間性や人間らしさを磨いているかということかもしれません。

今日も一期一会のご縁に感謝して暮らしフルネスを実践していきたいと思います。

いのちの役割

私たち人間は誰しも生き方というものを学び成長していく生き物です。お互いにそれぞれに別の人ですから同じ人、同じ役割になることはありません。お互いに違う役割だからこそ、尊重しあい助け合うことができます。

現代の教育では競争社会のなかで、みんな同じ役割を目指しますがそんなことは不可能です。粒子で見れば同じかもしれませんが、役割が異なるから別の姿になって顕現していきます。

今の自分の姿は、唯一無二の役割を果たそうと今のかたちになっています。いのちというものは、役割がありそれぞれの役割を一生懸命に生きようとします。それぞれが自分を生き切るとき、お互いの役割が合わさって全体のいのちを支えるのです。自分らしく生きるというのは、自分になるということです。

私たちはそのいのちの姿を科学的に証明しようとします。それが現代の機械にも出てきますし、経済という金融の姿にもなってきます。しかしよくよく観察すると人間都合の役割が増えると本来のいのちの流れからするとあまりにも歪なものが出てくるものです。その証拠に、不自然なその姿は自然には適応しません。自然はいのちではないものを活かせないからです。

いのちは時間を経ていくうちに変化していきます。それは役割が少しずつ変わっていくからです。気候変動などもその一つであり、刻々と変化は已みません。自然界にあって壊れないものがないように、これは役割が変わっていくことを意味します。それを修繕することによって、新たな役割を与えること。これを私は「甦生」と定義します。甦生はここでは書ききれないので別の機会にしますが私たちは先祖からずっと今に至るまで一つの経糸で結ばれています。そこにも大切な使命や役割があります。そこに今を生きる私たちが横糸を通して結び直します。時には絡まり合ったものを解いていく必要もあります。その時、探していくのはお役目の意味です。

いのちは常にお役目を生きます。ご苦労様と見送りながら、おめでとうと誕生を新たに祝います。日々は、この連続でありその中ですべてのいのちを輝かせていきています。

子孫たちのためにも、先人たちがそうしてきたように変化を味わい本来の役割に目覚め、自然の普遍的な真心に気付けるように丹誠を籠めて徳を積んでいきたいと思います。