いのちの存在

人間は呼吸や空気のことを当たり前として意識しないように「いのち」のことをあまり意識して過ごすことがありません。しかしこの世の中はいのちが円転循環しているなかで私たちは存在しているものです。いのちの存在を意識すればするほどに、いのちがどう循環しているのかに気づきます。

まさに今の時代は、如何に当たり前に気付けるかを学び直す時代かもしれません。それくらい機械や文明、便利に囲まれて人間性を見失いやすい環境の影響を受けているからです。

例えば、自分の身体にある体温というものを深く気づいていくとします。この体温は何処からきたものなのか、なぜ体は温かいのか。科学的には、細胞や代謝、栄養や筋肉の運動などとも言われます。しかし果たしてそれだけでしょうか。実際には、私たちは太陽の光やお水、空気をはじめ自然や宇宙などのあらゆるいのちと繋がっていることで存在しているともいえます。

この世には、切れているものなどは一切存在せずすべては羅網のように結ばれ繋がっています。その中にあるいのちもまた同様に、分かれても切れてもいないものです。

なぜ体温があるのか、そこには私たちが言語化できている火や水や光や波動などを超えたものが存在する御蔭様であるのです。

いのちは、この世で存在する必要なもので形成されます。そして不必要になれば消えていきます。しかしこの不必要は、反対側から観ると必要不可欠なものです。生も死も必要な存在としていのちはめぐります。

温度であれば、私たちは温度を移動させることによっていのちを移動させます。ぬくもりや暖かさの中には、眼には見えないエネルギーのようなものがありそのエネルギーは熱を帯びてあらゆるものの間を移動していきます。

いのちの活動はこの熱移動に似ています。

大切なのは、それぞれが燃えていることです。燃えているというのは与えられた天命を生きているということです。自然はそうやってみんなでいのちを輝かせて存在しています。

世の中には色々な定義でいのちは語られますが、私は場の中にいのちを感じられるような工夫をして気づきを伝承しているものです。これからの子どもたちには、そのいのちに気づいてほしいと願います。

気づきの時代は、まずいのちの存在からとし丁寧に暮らしフルネスな日々を精進していきたいと思います。

いのちのめぐり

いのちという存在はどこで感じるのか、それは心の中ともいえます。心の中に育っているのがいのちです。このいのちはどのように育つのか、それは自然風土と渾然一体になって育ちます。私たちのいのちは、自然から活かされているという存在です。

いのちは無限で終わりはありません。しかし変化があります。変化すること、諸行無常はいのちの一つの姿です。それをいのちの廻りともいいます。

そもそもいのちは自然から離れることはありません。自然のハタラキがいのちのハタラキであり、そのハタラキの中にあるものがいのちの正体です。ずっと私たちはハタラキ続けている存在に活かされています。

人間がハタラキカタを學ぶのは、そこにはいのちのイキカタがあるからです。

同じ一生で、どのようにイキルか、ハタラクかはその人が決めることができます。

現代は不思議なことに長寿をいのりながらひたすらに急ぎすぎる生き方をしていたり、天命を全うしたいと願いながら便利な生活にどっぷりと漬かっていたり、あるいは環境を変えようとしてさらに人間の欲望を助長していくような環境を増やしたりといのちを感じることとは程遠い暮らしをしています。

人間は環境に流されやすい存在です。だからこそ先人たちは自然の深さを学び、場を創る存在になりました。その先人たちの克己の工夫と智慧の御蔭で、今でも私たちはいのちの豊かさに包まれています。

この先、機械化がさらに発展しお金は際限なく発行され、貧富の差別が拡大し自然が破壊されていけばいのちを粗末にしていきます。

空気やお水、光のように包まれている存在に気付ける人はいのちをより鮮明に甦生させていく人々です。私が徳積に取り組むのも、子どもたちの未来にこだわるのもこのいのちの甦生を続けていくためです。

いのちは消えてはいません。だからこそそのいのちを甦生させ続けることが今の時代は必要です。それがたとえ、大海の一滴であったとしても自然のハタラキといのちの輝きでいつかは元通り以上に快復していきます。宇宙、神羅万象は生々流転を已みません。

変化の有難さを味わいながら、いのちのめぐりの豊かさを丹誠を籠めて楽しんでいきたいと思います。

 

 

 

いのちの根

今朝、窓を開けると冬の美しい純白の風景と合わせて透明な光が差し込んでいます。昨夜のお月さまも綺麗でしたが、この時季の光とお水との調和は清々しさを増していきます。

私たちが清々しいと感じるのは、この光と水の調和、さらに言えばあらゆる自然の調和が合わさるときにこと実感するものです。この調和というのものを感じるのは心を感じることからはじまります。

心が何を感応したのか、光を観る時、光の何を観ているのか。そして雪を観る時、雪の何を観ているのかということです。あらゆる存在を遍く照らす透明な光、そして丸ごとすべてを包み込むお水。その中にある自然に私たちは心の和合を覚えます。そこには目には観えないハタラキがあり、全て同じ粒子が波打っています。

素直さというものを磨いていくとき、人はいのちの存在に気づきます。いのちは渾然一体であり、バラバラではなく調和しています。それを活かしあうとき、私たちは徳の循環を感じるものです。和の尊さ、それが私たちのご先祖様たちが最も大切にしてきた生き方です。

今はまさにいのちを見つめ直す時代です。それだけいのちに包まれていることを人間が忘れた時代ともいえます。つまりいのちとは何か、いのちを見つめる視点、いのちを知ろうとする原点から学び直すのです。

そこにはいのちの根とつながる暮らしが大切です。

そしていのちの根がつながれば、あとは克己の工夫が必要になります。それが暮らしフルネスとも言えます。畢竟、環境や自然が問題になったことは宇宙創生いらい一度もなく、すべての問題は人間の問題があるだけです。

だからこそ、人間がいのちという存在に目覚めてみんなでいのちを輝かせていくことが人として生きる使命だと感じます。

だからこそ私は、私の居る場を「人間のいのちの拠り所」にしたいと思い今があります。

今はこの世に亡き、私の大切な御師匠さんは今は「光」になりました。今朝の光は、御師匠さんの光です。いつも見守ってくださって感謝しています。今日も、いのち輝く宇宙の光の中に入り、かんながらの道を歩んでいきたいと思います。

例大祭と5周年

久しぶりの大雪のなか、御蔭さまで無事に例大祭と徳積財団5周年記念を開催することができました。真っ白に光り輝く風景のなかで、美しい奉納音楽や神楽舞、祈りの時間は心に深く遺る有難い時間になりました。

思い返せば、何もなかったところからはじまり今ではたくさんの仲間や同志に恵まれています。それぞれに無二の役割があり、天命を全うするために徳を磨いておられる方々ばかりです。時折、道を生きる最中に場に立ち寄りその努力を分かち合い、苦労を労い合うことは心のエネルギーを充足させます。何かの偉大なものに見守られていると実感する場には、お互いを深く尊重しあう安らぎや元氣があります。

一人一人がそのような安心で健やかな元氣に充ちれば心も解放されます。心を解放していくことは、心を喜ばせていくことです。真のおもてなしというのは、心の解放があってこそです。

この例大祭は、みんなで協力しあっておもてなしの準備をはじめます。同じ釜の飯を食べ、綺麗に場を清め、静かに穏やかに暮らしを調えます。真っ白な雪の中、妙見神社のお汐井川に若水を汲みにいき、桜の薪に炭火をいれて火を熾します。その火を竈に移し、前日からお祓いして汲んでおいた井戸水を鉄鍋にいれてじっくりと昆布や高菜を煮出していきます。直来は、白いものとして御餅や素麺等、そして福茶などご準備します。

自然の恵みと薫りに包まれた仕合せな時間です。

祝詞にはじまり、岩笛、法螺貝、篠笛、そして鈴に太鼓と懐かしい音に包まれます。龍の舞に音楽、お祭りも賑やかで弥栄な一日でした。恵方も偶然にも、龍王山や龍神池、そして神社の方角にピタリと合っていました。5周年でしたが、またこの恵方になるのは次回は5年後の10周年の時です。周期の豊かさも味わう有難いひと時でした。

人間は見守り見守られるという感覚をお互いに持つことで自然と一体になっているかのような同じような安心感を得ていくものです。安心感は徳を活かしいのちを輝く場を創造していきます。どれだけ安心感の種を蒔いていくか、安心の場こそ懐かしい未来であり心のふるさとです。

これからも子どもたちに先人の生き方を譲り遺せるよう精進し、道を確かめ道を手入れし、真の人間らしさや人間性を高める場を弘げていきたいと思います。

 

 

祓い清める生き方

昨夜は立春のご祈祷をして奉納演者の方々とみんなでお豆腐を食べてゆっくり過ごしました。同じ釜の飯を食うという言い方もありますが、寝食を共にして心を打ちとけてゆったりと過ごします。毎年例大祭の時は、節分からの流れで穢れを祓い、そして福を招きます。祓い清めるというのは、私たちの心の修験の真髄です。

そもそも私は特別な宗教や宗派に属しているわけではありません。神道も修験道も形の中にこだわるものはなく、神道であればかんながらという常に神人合一の実践をしていこうとする生き方であり、修験道は今をどう内省して深く味わい今を磨くかという今を生き切る実践をする生き方として認識しています。

日々の暮らしは、まさに実践そのものであり日々は修行そのものです。

先人たちは生き方としてこの祓い清めるということを生活の中心に据え置いていたように思います。例えば、お水を中心に暮らせば日々に洗い清める連続です。火も、土も風も光もすべて洗い清める存在です。

昨夜は大寒波の襲来で凍てついた空気でしたが、空には美しく澄んだ月が出ていました。お月さまもまた、祓い清める存在として夜を暮らします。暮らしは土に入れば、お墓です。そのお墓に祈りを捧げご供養することもまた、穢れを洗い流し、清めて福にしていくことをします。

日々というのは、小さな祓い清めの連続です。

お掃除やお手入れの功徳はまさにこの祓い清めることをすぐに味わう実践でもあります。場を調えて、場を磨いて、場を清める。この行為もまた、かんながらの道であり修験道であり、暮らしフルネスの実践です。

同じ人生であるのなら、場を荒し、場を穢し、場を壊し、場を乱すようなことを積み重ねる人生よりも場を少しでも美しく清らかに調える方が今に感謝し、未来に徳を譲れるように思います。

同じことを繰り返したとしても、その同じことの中には必ずこの祓い清めるという生き方がある。その安心感こそが、先人が遺してくださった智慧だと実感します。

みんなで祓い清めて新たないのちを彌栄元氣にしていきたいと思います。

場の祭典

妙見神社の例大祭があり奉納舞や奉納演奏の演者たちが今日から準備で場に入ります。毎年、即興舞や即興演奏が中心になっていますので場も一期一会です。即興というのは、その時に降りてきたものでという具合ですがそこまでには膨大な情報が集まっています。実際には、例大祭は同じ日に毎年行う神事ですがその中身は常に変化を続けています。

同じ例大祭をしたことは一度もなく、環境は改善していきますから似たものが多くあったとしても意味や本質を変えないために大きく変化を続けています。この変化は成長でもあり、磨かれている今でもあります。

特に5年間、演奏舞を続けてくださっている龍の巫女はこの神社のある場と相性がよくいつも喜んでいることがよくわかります。それは場が落ち着き、場がおもてなすのがわかるからです。

その理由は、私は場道家であり場を常に読みます。これは特殊能力なのかもしれませんが、その場にいくと場を感じる力が発揮されます。時には未来が読めたり、またある時には何があったのかという歴史を読めます。空間認識能力ともいうのかもしれませんが、空間そのものを丸ごと認識することが得意ということです。

即興演奏のピアニストの方も同様に空間認識能力を持っています。空間そのものを音にされるのです。なので、言い換えるのなら場を読み、場を調え、場を創るのです。

場の道場で行われる例大祭は、場の祭典でもあります。

場を鎮め、場を清め、場に還る。

自分の居る場所は、地球の一部であり宇宙の一部です。この今自分が確かに居る場を丁寧に祈れば、世界を祈り自然を癒します。実践というものは、空想や妄想をするのではなく脚下の実践を一人一人が丹誠を籠めて取り組む真っただ中にこそあります。

いよいよ五周年を迎え、心新たに龍と共に修行を続けていきたいと思います。

立春 ぬくもりの循環

昨日は浮羽の古民家甦生の件で、お水の検査をするために井戸水を採取しにいきました。井戸のお水の温度は一定で冬の寒さ厳しい空気のなかではとても暖かいぬくもりを感じます。

このお水のぬくもりというのは何処から感じるものか。それは地中のぬくもりから感じるものです。この地中というのは、地球の温度があります。表面的な地面は、外気の影響を受けたり日光の影響を直に受けますから変化は大きくなります。しかし、地中はゆるやかに数十年、数百年、あるいは数千年をかけてじっくりと影響を受けて変化しています。その温度を蓄えているのです。そしてそのぬくもりが入っているのです。

私たちは身近な寒暖はすぐに感じます。しかし、地球の深部の寒暖などはほとんど感知していないものです。しかし実際には、悠久の歳月が地球を温めています。私たちの生命がこの地上で謳歌できるのも地球が長い時間をかけて温められてきたらです。まるで鳥の卵のように温度によって生命は孵化します。その温度を地中から吸い上げていくのも植物や木々たちであり、太陽の熱を吸収しながら地上の温度を調整するのもこのぬくもりを循環させているからです。

このぬくもりの循環を最も担うのが、お水です。

お水を感じる時、私はそのぬくもりも一緒に感じます。これは単に冷たいとか温かいとかいうものではなく、そのお水そのものがもっているぬくもりを感得するのです。

例えば、自然の火で時間をかけてじっくりと待ったお水は冷えたとしてもそこにぬくもりを感じます。人によっては「まろやか」になっているという表現をしたりもします。

このぬくもりやもまろやかは循環の味のことです。循環する味わいを実感することがお水によってできるということです。私たちの生き方もまた、このお水に倣って世の中をぬくもりのあるまろやかな社會にしていくと調和や仕合せを感じることができます。

立春になり、本年の目標を定めていますが「お水に學ぶ一年」にしようと決意を固めました。蛇年に相応しい脱皮の年にしていきたいと思います。

使命

人にはそれぞれに使命があります。自分を生きるというのは、自分を知り自分であるということです。現代のような競争社会の中では、気が付くと自分であることを見失っていくことも多いように思います。さらに評価にいつも晒されているようなところにいればいるほどに自分のことが分からなくなるものです。

承認欲求や自己肯定感のなさなどもこの自分というものの認識に大きな影響を受けているのもわかります。しかしよく考えてみると、人にはその人にしかない人生を生きていくしかないことは分かります。他の人にはない何かその人にしか感じられないものがあるからです。

同じ体験をしても、まったく同じことを感じることはありません。この世に同じというものは一つとしてありません。似ていることや共感することはあったとしても同じではありません。もっと言えば、いくら機械で同じ物質を生成したとしても見た目も分析も同じに観えても同じ時間ではありませんし、空間でも同じことはありません。

私たちの認識として同じであると認知したのは実際には錯覚です。みんな種別や種類を分けて同じ科目に分類してさも同じように認識してきたから同じと思い込みます。植物でも動物でもヒト科においても、特徴が似ていたら同じとします。しかし細胞一つ、指紋一つ、葉っぱ裏の葉脈一つ同じものは一つとしてないのです。

この同じものがないという事実を悟るのなら、自分を知るということがどういうことかという根底の価値観が変わります。そもそも同じではない、ではみんなそれぞれに使命があり役割を生きていると思うのです。

さらに言えば、自分には自分にしかできない大切な意味があり自分らしく自分を生きる使命があると自覚するのです。この使命感というのは、何処から来るのか。それは、自分の体験を深く味わうとき、あるいはご縁の妙味を感じるときに実感できます。自分の体験をすべて自分にしかない大切な経験だとし、丸ごと受け容れるときいのちが活き活きと輝くからです。禅語に主人公とありますが、自分が常に主体的に主人公でいる人は比較や競争、承認欲求の刷り込みが入りません。

本当は、そういう社会があったころはみんなはそれぞれに大切な使命を生きてみんなで活き活きと助け合い生きていくことができました。現代のように富が独占されたり、いのちが単なる物のように扱われることもなかったのでしょう。

子どもたちの未来のためにも、いのちが活き活きと活かされ合いそれぞれの使命と天寿を全うできる世の中にしていくために暮らしフルネスを実践していきたいと思います。