炭の生き方

昨日は、聴福庵に懐かしい方々が集まり炭火を囲んで美味しい時間を楽しみました。同じテーマで生きていると、お互いの生き方から学びが深まります。この炭というものの徳は本来は澄みのことです。

澄というのは、お水が透明に澄んでいくイメージがあると思います。色々な不純物が透過され澄まされていくこと。濁っていたものが時間を経て沈殿し透明になっていくように、また燃えて煙が出てその中の光が澄み切った輝きを持つように浄化、デトックスされます。

現代は、何かと濁り澱む時代です。食べ物一つにおいても、大量生産される過程であらゆるプロセスに不純物が混じります。便利さであったり欲望であったり、あるいは効率を優先するために色々な化学物質を混ぜ合わせたりしているうちに身体によくないものを摂取することになります。

それが積み重なっていくと、身体本来がもっている浄化能力が追い付かずに様々な病気になっていきます。そうならないためには、日頃から澄ます実践を積み重ねて浄化力を磨いていくのが一番です。

この浄化の仕組みは実は日本人はとても長けているように思います。神社に行けば、祓えたまえ清めたまえとご祈祷します。またお掃除をしてゴミを拾います。お水に恵まれた国土、自然の新鮮さが充ちている風土があるからこそこの浄化の文化が発達したように思います。

かつての武士の魂ともいえる日本刀などはまさにその澄み切った心の姿を映し出しているものです。恥の意識を持ち、常に澄まし続ける生き方はまさに生き方のお手本です。

この世が渾沌と澱んでいくのは、人間の性質によるものです。人間は人間都合に様々な道具を生み出しますがその道具は危険極まりないものばかりです。それを扱う側がよく育ってもいないのに、その場しのぎでそれを使ってしまいます。

それがそのうちに常識になり、危険性を感じる感性が麻痺していきます。茹でガエルの故事にも似ています。だからこそ、むかしの人たちは澄ます生き方をし、様々な感性が研ぎ澄まされ穢れないように気をつけたように思います。

日々の暮らしの中でどれだけこの研ぎ澄ましていく修養や実践をするのか。私が炭をパートナーにしている理由です。

一期一会のご縁と、対話に感謝しています。