和の徳が溢れる人

昨日、大阪の藤井寺にいる私のメンターの雛祭りの年中行事を見学してきました。全国各地から集めた人形たち、それは古いものから新しいものまで、また伝統的なものから創作したものまでありとあらゆるものが丁寧に飾られていました。

私が最初にそのメンターにお会いしたときに衝撃を受けたのは、その目利きの審美眼と数奇道の生き方です。目利きにおいては、本物や普遍的な美しいものがわかるということです。これは自然観があり、最も調和したものや心が産み出す芸術の真髄を直観できるというものです。そして数奇道というのは、風流人としての道を歩んでいるうということです。この数奇は、元々は好き者ともいい最初は好色な男という意味でしたが中世以降は茶の湯に熱心な人などたとえらます。そして風流は、一般的には人目を驚かすために華美な趣向を凝らした意匠を指し侘び・寂び と対峙する存在だとされました。

つまり数奇道を実践する人は、風流人であり侘び寂びを遊ぶことができるということです。メンターの古民家は、あらゆるところに「遊び心」があります。この遊び心は、今でいう「おもろい」がたくさん入っているということです。

伝統芸能には、守破離という概念があります。基本や型を守り、それを破りそこから離れるということです。そこに私は遊ぶを追加して、守破離遊が大切ではないかと感じます。遊んだ後はどうなるのかといえば、徳が顕現します。そうなると、守破離遊徳ということになります。

道は生き方ですが、一度きりの自分にしかない人生の妙味をどう味わいきるか、周囲の評価よりも自分の好きなことに没頭する人生というのはそれだけで徳を活かす素晴らしい生きざまになるように思います。

現代は、突き抜けた人や遣りきった人は少なく感じます。それだけ純度が高いことにいのちを懸けてまで遊ぼうとする人が減ってきたからかもしれません。

数奇道の生き方は、独立自尊した豊かさや面白さを感じて子ども心にワクワクします。面白い大人になって、子どもたちに和の徳が溢れる真善美を伝承できる背中を見せていきたいと思います。

いつまでもお元氣でいてほしいです。いつもありがとうございます。