調和

現在、英彦山の宿坊の周囲をお手入れ調えていますがこれはお水を守るためでもあります。もともと修験道の宿坊は、お水を守るように建っているところがほとんどです。そこには大切な水源があったり、お山の中での要所であり、修行者たちを観守るような場にあります。

そもそも信仰の原点は、いのちやお水にあると私は思います。元々、そのいのちの正体や根源が何かをつきつめるとき、私たちは調和というものや循環のもつ偉大な叡智に気づきます。不調和があるのは、調和を學ぶためです。私たちは、そのものの本質を學びその存在を感じるようにできています。これは寒い暑いがあってこそ、その調和がわかるように「間」にこそ感得できるものがあります。そしてその間は、「場」によって行われます。場で共に學び合うことで「和」が到来します。

日本は、常に調和を尊重してきた民族でありそれが信仰の高みであったということだと私は思います。

私は修行とは何のために行うのかというと、調和するために行うものだと感じています。すべてのいのちと調和するとき、人になるからです。本来の人になるとき、私たちはそこに仕合せを感じます。

自然の中に一体になっているとき、そのすべてのものと結ばれて境界が消えていきます。境界とは自分が線引きしたものです。自分もその自然の中に入っていくのなら、まるでお水のように万物と溶け合います。この溶け合うというのは、一体になるということです。

修行とは、自他一体の境地で体得でありそこに向かうために様々な種類の修行が開発されてきました。特に今の時代は、助け合いや協力のための修行最も効果的だと感じます。それだけ孤立し、分断し、個が強くなり過ぎているからです。つまり人間優先主義、人間至上主義になっていて都市化された人工的な社会で生きているからです。

自然を優先すると人は助け合い協力を学びます。自然の中では一人では生きていけず、どんなことも助け合いが必要です。例えば、お山であれば石垣一つつくるにも協力がいります。また田んぼでも田植えや収穫も協力が必要です。

現代はお金になるからと何かと便利なものや人工的な機械や道具を使いますがそれでは、調和になりません。

調和は、人が人になる道です。

正直であるように、素直であるように、そして嘘がないようにと生きていくためにも私たちは調和を羅針盤にしていく必要があるのでしょう。

引き続き、暮らしフルネスを通して調和を実践していきたいと思います。