遊行の甦生

一遍上人という人物がいます。遊行宗の開祖の方です。別の言い方では遊行上人ともいいます。すべて捨て去る実践を遊行という言い方で求道なさった方です。その一遍上人の書いた書物などは亡くなる前にすべてご本人が焼いてしまったため残っていません。また「我が化導は一期ばかりぞ」と常に一期一会に生き切ることのみで残すということをしませんでした。

その後に、遊行上人を慕う人たちによって教義を定め組織化されて今に至ります。そしてその遊行の実践語録として後世の人たちが語り継いできたことで今の私も存在を知ることができます。

結局、物質的なものとしては残さなくてもその生き方や生きざまは人々の心にいつまでも残っていくということかもしれません。もしも歴史でお会いできるのであれば、ぜひお会いしてみたい人物の一人です。

そもそも捨てるというのは、今の時代ではデトックスという言い方もします。このデトックスは解毒を意味する英語の「detoxification」を短縮した呼び名で、体内から毒素や老廃物を取り除く言葉です。

日本では古来から、「穢れを祓う」という意識があります。これは神道の実践の一つで、心身を清浄にしようとするものです。日々に置かれた環境によって私たちは穢れがつきます。これは掃除であれば、何もしなくても埃が溜まっていくようにチリも積もっていきます。そのままにしておけば、害虫がわいたり、病気の原因になったり、家も傷みます。掃除やお手入れは、常に清浄であるために行うものです。

私たちは日々に学んだと思っていても、その学んだこと自体が知識だけが増えて実践が追いつかないとそれは毒にもなり穢れにもなるものです。本来は、体験して実践してみたものを知識として調和させていくのが學びの本質ですが現代のように先に知識ばかりが詰め込まれて分かった気になってしまうとさらに毒や穢れになって積もり積もっていくものです。一度、そうやって貯えた知識や毒は次第に執着となり本来の自己の素直さや正直さを濁らせていくものです。

現代の環境は、あまり清浄を保つのに相応しいものではありません。消費活動を発展させるばかりでゴミが増え続けているような時代です。また忙しい日々に追いかけられ、心を静かにゆったりと落ち着いて休む時間も取れなくなっています。

しかし普遍的に人間の幸福や豊かさを人々は求めては苦しむものです。遊行上人はこう言います。

「無為の境にいらんため すつるぞ実(まこと)の報恩よ」

そしてこのような和歌も語り継がれます。

「旅ごろも 木の根かやの根 いづくにか 身の捨られぬ 処あるべき」

どのような思いを旅をしていたのでしょうか。きっと一期一会でいるためにあらゆるものを捨てていたのではないかと勝手に空想してしまいます。かの仏陀も万物は変化しないものはこの世には一切ないからこそ、怠らず精進せよと説いたといいます。

何が精進であるか、その一つがこの遊行であると私は直観します。

遊行をこの時代に甦生し、懐かしく新しい真の豊かさを試行錯誤していきたいと思います。