薬草園の甦生

昨日から英彦山の守静坊に薬草園づくりをはじめています。改めて少し日本の薬草園の歴史を深めてみようと思います。

もともと日本最古の薬草園として知られているのに江戸時代の小石川薬草園があります。これは元々は、寛永15年(1638)に設置された品川の御薬園を移設したものともいわれます。また小石川といえば有名なものが貧しい人や身寄りのない人たちを無料で治療した医療施設の小石川養生所(享保7年(1722)です。ここでは貧しい人たちを対象に140年間、無料で薬をつくり医療を施していました。

これは享保の改革の目安箱に裕福な人だけが医療を受けられるのではなく、貧しい人たちも必要でありその場所を調えてほしいと投函されたものです。それを時の将軍、徳川吉宗に聞き入れられそれを町奉行の大岡忠相に命じ実現したものです。

その目安箱に投入したのは、江戸の町医師小川笙船(しょうせん)という人物です。この人は、若い医師を育成し、貧しい人たちの暮らしを医療で支えたことからその後は「赤ひげ先生」のモデルになっています。

この赤ひげ先生とは、山本周五郎の時代小説「赤ひげ診療譚」に出てくる町医者のことです。貧乏な人からお金を受け取らず、また他の医者が嫌がるような病人もこころよく診るので理想の医者の代名詞としても使わている日本一の名医を指します。

今の時代は、こういう御医者さんや環境はほとんどなくなりました。本来の医療は、大医中医小医とあるように国を治すのも医師の勤めということでしょう。もちろん、小石川療養所でも色々と人間本来の持つ問題や、組織の問題、環境の問題などもあり色々と歴史的には検証する必要もありますがもしも小川笙船先生が今の時代の我が国の医療の状況をみると果たしてどう感じられるでしょうか。

話を戻すと、小川笙船が設立を要望した施薬院では日本各地の薬草、薬木だけでなく韓国や中国からも取り寄せてあったといいます。

山野に行けば簡単に手に入る薬草も江戸にいてはなかなか手に入らなかったのでしょう。都市化の問題というのは、いつの時代にも似たような問題を抱えているように思います。薬草のつくり方や育て方を伝えて、みんなで薬の問題を解決しようとしたともあります。その後は、明治維新を経て西洋化が進みそれまでの漢方や薬草を中心にした医療は古いものとして捨てていきました。

現代は、サプリや西洋の科学的な薬が出回っています。その副作用も強く、日本各地にはコンビニと同じくらいドラッグストアがありどこも繁盛しています。病院も常に新しい病院が次々とできて賑わっています。

果たしてこれはこの先の100年後、300年後にはどうなっているでしょうか。

色々なことを考えて、お山での暮らしにこの薬草園の甦生を判断しました。そのうち、何をしようとしているのか伝わっていくと思います。