観察オタク

私は観察オタクと自分のことを呼んでいます。他にも炭オタクなどもありますが、色々とオタク要素があります。それは元はこの観察オタクから発生しているのではないとも感じます。

観察というものの語源は、本来は仏教から来ており「知恵によって対象となるものを正しく見極めること」という意味です。観察するということは瞑想であるという言葉もあります。

暮らしフルネスの中でも、私は暮らしを通して観察しているともいえます。この観察とは一体何か、それを少し書いてみようと思います。

観察とはそもそもあるがままに氣づくことともいえます。何も執着せず、刷り込まれず、そのものがそのままに観えるということです。そのままに観えるというのは、あるがままに直観するという具合です。この直観という字も、直に観るという字です。これも仏教用語 で「प्रज्ञा(プラジュニャー、 般若)」の訳語の一つである直観智とも言われるものです。

観察とはもともとどのようなものだったか、根源は何か、原点は何か、これは一体何かと問うのです。すると、自己の内面の奥深いところの心の機微のようなものに触れていきます。これを氣づきともいいます。自分が何に執着したのか、どのような煩悩に惑わされているのか、あるいは何を思い込んでいたのかを発見するのです。

そしてその自分の刷り込みや思い込みを取り払い、あるがままに物事や事物が観えるのならそれは真理に達したともいえるように思います。真理という言葉も、そもそも最初から当たり前にあるもので特別なものではありません。

色々な余計な知識が増えたせいで、真理から遠ざかったり別の物に挿げ替えられたり、イメージを刷り込まれたりしただけです。空気や水や太陽のように最初から存在し、お互いに循環作用しあい調和しているだけのものです。

私は35歳くらいから選ばない生き方ということを決心して実践してきました。それからは特に観察オタクに拍車がかかり、あらゆるものをじっと観察してきました。仕事でも内省や内観による氣づきが産まれるようなワークショップばかりを文化づくりに活かし、ライフワークも徳を磨くことやいのちを甦生することばかりに取り組んできました。

今思うと、これも観察オタクだからこそその道に入ったのかもしれません。

今では仏教の真似事のように、お経を詠んだり祈祷をしたりする機会に恵まれますがそのお経のどれもが、あるいは祈祷や坐禅のどれもが結局は観察の智慧の実践ばかりです。

まさに観察こそが悟りの境地ということなのかもしれません。

子どもたちのためにも、観察の大切さを背中で伝え、また子育てに関わる人たちにもその観察の素晴らしさを伝承していきたいと思います。