豊かな暮らしを維持していくものに、物を大切にするということがあります。今のような物が溢れる時代に、物を大切にするということがどういうことか。それを深めておかないとすぐに物が増えていきます。意識して物を増やさないという生活は現代のような消費社会では大変な困難です。
消費社会とか、簡単にいえばみんなでお金を使うという社会のことです。先日報道でどこかの政治家ももっと消費しなければならないと語っていましたし、生産性のないことを価値がないと蔑んだりする人もいました。企業のCMでは、より消費を促進するものばかりを宣伝し、貧富の差が人生の幸福の差であるかのようなテレビ番組などで流されます。
都会に少しでも足を踏み入れれば、お金がなければ生活はできずすべての娯楽に消費がセットされています。そして道行く道には買い物に必要な情報が配られ、何もしなくても情報が湯水のように流れてきます。
こんな時代に敢えて消費しない生活をするということはどれだけ大変か、断捨離の本が売れたり、シンプルライフを目指そうとありますが、今はそれだけシンプルに素朴に自然と暮らしていくこととが難しくなっているということです。
自然界では、必要最低限の消費が行われます。それは自然の循環の中にしっかりと入っているからです。不必要な消費をすれば循環しませんから必要最低限の循環で済ませます。そして生産においても、必要な分の生産を行い生産しない場合もあるのもまた全体の循環の邪魔をしないために行うのです。
人間界では欲望に任せて、何でも物を増やしていきます。必要以上に生産し、必要以上に消費を急ぎます。これによって自然循環の理を破り、人間が生み出す悪循環を創造していきます。過度な悪循環は、さらなる消費と過剰生産を生みだし、地球の自然は失われていきます。
不自然な生き方は、不自然な生活を当たり前にし、何が自然であったかを思い出すこともありません。このような生き方をし続ければ、元来の自然の中にあった豊かさは消え、人間が欲望と共に生み出した富と豊かさのようなものがこの世の幸福に挿げ替えられます。
しかし人間もまた自然の一部ですから、健康を失った時や、家族を失ったとき、自分を喪失した時に、本来の大切であった自然の豊かさを思い出します。必要なものをすべて与えられていること、足るを知ることに向き合いそして人間らしい本来の暮らしに憧れ始めるのです。
私も一昨年から取り組んでいる暮らしの甦生の御蔭で、一緒に暮らしていく道具たちの美しさや豊かさに出会い仕合せが増えました。新しくなくても、綺麗でピカピカでなくても、みんなが羨ましがるような高価なものでなくても、永く大切にされてきた古い道具たちと暮らしているととても仕合せで豊かになります。
日々に紡がれてきた様々な物とのかかわり、その物語が思い出となって心に歓びをもたらします。ただお金で買うのでは決して得られない、そのものとのつながりや御縁、そして奇跡を何度でも味わえるからです。
今の時代、思い出やつながりや物語をごみを捨てるように簡単に切り捨て高価でみんなが羨ましがるようなものにすぐに手を出していきます。しかし有り余る物に溢れた生活はとても貧しく、荒んでいるのはなぜでしょうか。心の荒む原因は、その今の暮らしの中にあるとしたらどうでしょうか。
今一度、本来、自分にとって大切だったものが何かを思い出すことが暮らしを甦することです。それを忘れたならば、一度、大切にされてきた物たちと暮らし直すことでその豊かさを思い出す必要があるのではないでしょうか。
かけがえのない一期一会は、いのちの持つ時間、そして物語の中に存在します。旅をし続ける中であまり物を増やして持つのはかえって旅の仕合せを見失う原因になるのかもしれません。
子どもたちのためにも今の暮らしを見つめながら、本当に価値のあるものに投資して未来に豊かさを推譲していきたいと思います。
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「消費」という言葉は、「使えば減り、使うほど価値がなくなる」ということが前提のようですが、「大切に扱う」ことで、「生かされ、より価値が増すもの」もあります。そういう意味からも、「消費するだけの経済社会」を、「ほんとうの豊かさ」という面から見直す必要があるでしょう。「使うこと」と「生かすこと」の本質的な違いを今一度確認しておきたいと思います。
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たくさんの物が溢れる中で、その中から何が欲しいかと問われても、多すぎて選びきれず、かえって、使えるならわざわざ買わなくてもいいという風に考えてしまいます。「今一度、本来、自分にとって大切だったものが何かを思い出すことが暮らしを甦することです」というのは考えさせられることであり、望んでいるものは物の購入ではない、豊かさの共有だと改めて感じています。
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消費社会というものの中で、治療薬や農薬や弾薬が大量生産され大量消費される仕組みが世の中に敷かれていることは恐ろしいことだと感じます。本来は何だったのかを思い返すことが出来れば目も覚めるのかもしれませんが、目の前の現実がそのような環境であれば意識はなかなか戻りづらいように思います。大人である私たちが生き方のモデルを示していけるよう、省みていきたいと思います。