人は、自分が今、何処に立っているのかという自覚があってはじめて自立の本質を理解していくように私は思います。何処からきて、何処にいくのか、そして自分とは何か、自分が何処にいるのか、この自分というものを深く理解していない限り、人は絶対的な自立の境地には達しないように思います。
禅の言葉に、「主人公」というものがあります。
これは無門関に書かれたもので「瑞巌の彦和尚、毎日自ら主人公と喚 び、復た自ら応諾す。乃ち云く、惺々著。他時異日、人の瞞を受くること莫れ 」と記されます。
私の解釈では、他人や相対的な自分に流されるな、絶対的な自分で居続けよという意味だと思います。
世の中では自分らしさとか、自分探しとか色々と流行っていてそれによって自立からかえって遠ざかっている人が増えているように思います。それは自分というものの理解を、他人との比較や自分という誰かから刷り込まれた前提の意識のままに自分というものを考えようとしているからに他なりません。
そもそも相対的に、誰かと比べたり、他人の評価軸によって自分らしさを出したとしても、それは本当の自分らしさではないのは明確です。誰かと比べての自分らしさではなく、本物の自分らしさ。つまりは絶対的な自分というものを持つとき、人は自分らしさの本質に目覚めるように思います。
自立というものは、本来、自己をうち立てるということです。それは主人公になるということです。本来の自分に目覚めている日々を過ごしているということです。本来の自分は、先ほどの何処から来たのか、何処に居るのかという二つの問いに常にこたえられる状態に心や魂が座っているということです。
現代の日本では精神的に病んで働けない、引きこもっている人たちが1000万人以上いると報道されていました。その根本原因は何か、教育者はもっと真剣に自立というものの理解をあらゆる方面からよく議論し子どもを見守る必要があると私は感じています。
居場所がなくなるというのは、人間が自立する環境が整っていないということです。自分というものの居場所を確認するには、自己を確立していかなければなりません。そのためには、一人一人を主人公にしていく必要があります。
いつまでも比較競争の教育をするのではなく、本来の自立、主人公としての自分を学び、心身魂ともに自由にするために「場」を教育の柱に据えるべきだと私は思います。
私の「場道」の本質は、現代の教育観念に楔を打ち込み本来の自立の意味を価値観事転換することです。地球の生態系が崩れてきている原因は何か、いつまでも相対性理論や目に見える形のものばかりを追いかける物質的な価値観をそろそろ諦め、絶対的で本質的な生き方を取り戻し、人間が主人公に目覚め、子どもたちが安心して生きていくための居場所を創造していく必要を感じます。
私のかんながらの道も、そろそろ大きな曲がり角、実践を究めていきたいと思います。
コメント
厳しい人が相手だとちゃんとやり、甘い人が相手の時は手を抜く。あるいは、求められる結果に応じて自分の力の出し方を調整する。このような生き方を「要領がいい」と言うことがありますが、これでは人は成長しません。また、このような「相対的な生き方」は、基準が「相手」にあり、「自分」というものがありません。相対的な「善」「誠」から、絶対的な「至善」「至誠」を求める生き方に転換して、初めて自分の人生を生きることができるのでしょう。