年の瀬は無心に穏やかに、静かに過ごすようにしている。
一年三百六十五日の中で自分自身を厳かに真摯に向き合い振り返り、その生き方のあるべき「中心軸」を見直すにはとても良い機会だと思う。
毎年、初詣はいつも夜のうちから参拝に巡る。
ここ10年は山口県萩市の松下村塾がある松蔭神社へ参拝している。
深夜に荘厳な神社の境内で感じるわずかに映る瞳の光りとゆらめく風、また静寂と無音の冷気やその漆黒の闇、すべては尊厳なる雰囲気を「杜」がまるで見守り演出してくれているようだ。
日本人には、古来より「厳か」といった透明な威と尊というような感性があると思う。
これは世界からみても、潔白な精神、その美しさ厳しさを受容する無二の至宝文化のひとつである思う。
このような叡智ある感受性もこれより後世を生きる我々の子どもたちへ在るがまま伝え、ゆずっていければいいなと心から思う。
思い返すと昨年2006年は本当に色々なことがあった。
一言でまとめれば、私にとっては『志』ということを真剣に見直すとても良い年になった。
迷っている時に相談した師匠からも信念がまだできあがっていないと指摘をされた。
本当にまだまだだなと常に迷う弱い自分の心をもう一度真っ直ぐ見つめた年になった。
佐藤一斎が遺した「言志四禄」の中にの一節にこのようにある
『閑想客感は志の立たざるによる。
一志すでに立ちなば、百邪退聴す。』
(つまらないことで悩んでいるのは志(信念)がまだできていないからだ。志(信念)ができあがっていればどんなこともたいした障害にはならず、つまらないことで悩んだりすることも囚われることもない。)
志を世界や時代へ一本立てるためにも、一道を直向に求め孤高を目指していかないといけないと改めて初心に帰ることができた。
やはりどんな時も一道の極みを目指すならばそこで最も求められるのは「覚悟」なのだろうと私は思う。
覚悟は教えられるものではない。
覚悟は、多くの大恩人や邂逅の御蔭、感謝の賜物であり艱難のなせる業だと思う。
逃げないということ、その時にこそ内省し自我を見つめなおすということ、
生きるとは本当に素晴らしい感動に満ちているとよく涙がこぼれる。
シンクロニティというか、叡智というか、宇宙の中の不思議には心が震える。
こうやって出会いの神秘に、日々驚いてばかりだ。
すべてが自然そのものになるのにはまだまだきっと時間がかかるが深く味わいながら前をちゃんと向いてしっかりと歩んでいこうと思う。
また振り返る。
昨年は守りたいものと守りたくないものを決めた。
そう覚悟することができた。
今年は、より大きな変化の年になる。
自分しかできないことをみつけて、それを貫くことを決めたからだ。
何十億人という人がいるなかでニンゲンの寿命はたったの数十年ほど。
その中で自分ができることは一体どれだけあるのだろうと思う。
やりたいこと、興味があることが沢山あるのに、本当にやり遂げることができることは一体どれだけあるのだろう?
もし見たい世界への道や頂上が高いのならば、それを目指すのならば一体どれだけの時間が残されているのか?
知命をよくできたものしか立命できないものだと故安岡正篤氏の仰っていたことが、今は少しだけ身に染みてきた気がする。
だからこそ初心に帰りもう一度自分にしかできないことを見つけていきたい。
子どもたちにも、自分にしかできないことを見つめて命を昇華できるようになれるよう、より見守る環境を多くの出会いと邂逅と最高のパートナー達と一緒に社業を通して世界を創っていこうと宣言し再び心に誓う。
コメント
自分の身の周りで起きている出来ごと、困難なことがあった時、その中で起こしてしま
った失敗にいつまでも囚われたり、誰かの意見に斜に構えてしまうというのは、自分が
どうありたいのかと決めていないために、自分が定まっていないために、周りにばかり
目を向けてしまうのではということを思いました。振り返るべきは自分自身であり、自分
が一体どうありたいのか、どうしたいのかということを無くして、周りに決めてもらおう
というのは甘い考えであるということを感じさせられます。
コメント
まだまだ自分の覚悟が足りないから仕事に対しても、会社に対しても、そして大切な理念に対しても自分が受身なんだという事を改めて感じます。その結果お客様をはじめ多くの方にも心配や迷惑をかけているという事を感じなければと思います。自分自身が一体に何を大事にしたいのか?常に自問自答しながら受身にならずにすべての事に関わっていきたいと思います。