昨日は、久しぶりに千葉県神崎にある「むかしの田んぼ」にみんなで集まり団欒を楽しみました。今年は、とても稲が元氣でほとんど草取りもなくすくすくと育っています。
世の中の田んぼは、栄養を豊富に与えて育っていますから稲が緑で青々としています。それに比べうちのむかしの田んぼは無肥料無農薬ですから黄緑がかっていています。一見すると、栄養不足のように思われますが人間でいえば欧米人のようにがっちり体形ではありませんがすらっとしていて無駄なところが一切ない健康的なむかしの日本人の体形のようです。
お米も大きさや形などすべて小ぶりですが、味は深みと厚みと清々しさがありとても美味しいお米ができあがります。美味しいお米とは何か、この美味しいという定義も他人によって異なりますが本来の美味しいはやっぱり魂が喜び合うようなプロセスを経過したものたちの協奏によって得られる境地のように私は思います。
ただ舌先三寸だけを美味しくする技術でできたいのちは、長続きもせず心から美味しいとは思いません。しかしそれを魂が喜び心から美味しくする技術でできたいのちであれば永遠に美味しいと感じ続けるのです。それは記憶の中にいつまでも遺りますし、そのいのちは永遠のカタチにまで昇華されいのちを折り重ねます。
私たちは結果を焦り、成果を求めるばかり、大切なプロセスを省くようになってきました。効率優先、収量優先、利益優先の考え方では手間暇をかけたりいのちが喜んだりすることは非効率であり、不利益だとさえ思うようになりました。
しかし、それはいのちを無視した生き方であり本来自然の一部であった人間としての姿からほど遠いものです。むかしは、いのちを大切に使っていきました。それはみんなのいのちがどうやったら喜ぶか、そしていのちの大切さをいつも感じながら味わいながらこの世での生を一生懸命に謳歌していました。
一度きりの人生だからこそ悔いのないように、すべてのいのちと共鳴し合い、すべての時間を惜しむように使い切っていました。現代は時間に追われ、いのちを無視して経済活動にみんな没頭しています。休みといえば経済活動を別の形で補填しているだけで文化的な暮らしの喜びを味わうこともしなくなりました。
私たちがこの「むかしの田んぼ」に取り組むのは、暮らしフルネスの一環であり如何に人生を充ちたりて実るものにするか、そのためにどう生きるのかを田んぼを使って示しているものです。
私たちの田んぼは、いのちがイキイキとしています。ありとあらゆるいのちが躍動し合い、暮らしを支え合っていきています。そしてその生きものがいっぱいの田んぼの中で稲が仕合せに育っています。こんな理想の社會を田んぼで実現させ、私たちはそのお米を大切に料理してみんなでその瞬間を味わいます。
こころ豊かな時間です。
いのちは、このこころ豊かな時間を養分にしてすくすくと仕合せに育っていきます。このことを子どもたちに伝承したいと祈り、私たちはこのむかしの田んぼを実践しているのです。
いつまでも永遠に大切だったことまで変えてしまうことは決して仕合せなことではありません。世の中がいくら流行で変化したとしても、変わってしまってはならない永遠があります。その永遠はいのちのことで、いのちはいつまでもいのちのままに喜ばせ輝かせていくためにみんなで協力し合う必要があります。人間が人間らしく人間のままで生きるためにもこれは人間で生まれた私たちの本命なのです。
子どもたちがいつまでもこころ豊かな時間を生きていけるようにむかしの田んぼと共に見守り続けたいと思います。
コメント
人間は、自分たちの命を守ろうと必死ですが、それ以外の「いのち」については、経済を優先してしまっています。その結果、これまで繋がっていた「いのちの連鎖」が切れてしまい、多くのものが中途半端な人工物に変わってしまったようです。個々のいのちはもちろん大切ですが、「いのちの連鎖」という視点からも、もう一度環境を見直し、暮らし方を修正していく必要があるのではないでしょうか。