言い訳しないとは

何かの物事を決めるのに、言い訳をしないというものがある。

言い訳があるのはある出来事の受け取り方や受け止め方というものに対峙するときの自分の生き方がどうだったかを顕します。例えば、責任というもの一つを取っても相手の問題でこうなったと思うのと自分の問題であると思うのと、もう一つの対応の改善するということではその処し方で本質が変わっているからです。

人間は自他のせいにして言い訳をしていたら、人はいつになっても成長しませんし、自分自身の生き方のことまで気づくこともありません。

以前、私は世の中で自分がとても嫌な気持ちになったり、あの人のせいでや、悪のせいでなど偏っていた経験も得てきました。そうした期間は、結局はそのもののせいにして迷走するばかりで自分自身がほとんど成長することはありませんでしたからそう思います。

しかしその後、次第にこれはひょっとして自分にも問題があるのではないかと思うようになり、自分自身の正しい反省ができていないのではないか、自分が変わろうとしただろうか、自分が清濁を丸ごと受け容れ転じて至善や本物の人格を持てるよう精進しているか、世の中は正しいのではないかと気づき、そののち矢印を自分に向ける中で言い訳が消えていったのです。

言い訳がなくなるというのは、自分に矢印が向いているときだけです。
そしてこれをよく間違うのは、相手のせいではなく自分のせいとするのはただ矢印が相手か自分かという行為でしかなく、これが迷走するということになるのです。

本来の自分に矢印とは、言い訳をしない、誰のせいにもしないということなのです。

それは当然、自分のせいとするのも言い訳、相手のせいとするのも言い訳だということです。

つまり言い訳をしないの本質は、誰のせいにもしないでじっと受け止めて強い意志と本志をやり続けていることなのです。

それができているときだけ、言い訳はなく言行一致しているのです。
そしてそれが本当の自分、本来の自分、絶対的な本心での自分に矢印というのです。

実践躬行や言行一致、知行合一というのは、自分のせいや他人のせいにするのをやめることをいうのです。よく考えて、間違っても自分のせいだなどと言わないよう、あの人のせいだと言わないような気を付けていきたいと思います。

これからも自戒を心に沈め何かのせいや誰のせいにもしないで言ったことは言った通りにやることにこだわっていこうと思います。

 

  1. コメント

    「言い訳をしないの本質は、誰のせいにもしないでじっと受け止めて強い意志と本志をやり続けていることなのです。」あるがままを受け入れ、自分自身で決めたことを坦々と取り組む姿勢が浮かびます。私自身そういった人を尊敬していますし、ありたい姿です。言い訳をしないなど一つ一つの積み重ねが生き方に現れるのだと思います。言い訳のした分在りたい自分から遠のくということを意識し実践を積んで行きたいと思います。

  2. コメント

    そもそも言い訳をする時の事を考えると、自分で考えずに自分で決めていないときに言い訳をしてしまっていることが多くあるように思います。自分で決めて本気で取り組んでいれば言い訳をする部分はほぼ無いのだと思います。誰かに言われたからやるのではなく、自分で考え自分で決めること、そしてそれをやりきることをしっかりと行っていきたいと思います。

  3. コメント

    自分の所為にすることで原因を見つけて安堵し、その先は何もせずにいることが在ります。それは、矢印を自分に向けたのではなく、「自分の所為にして言い訳をした」という事なのだと学びました。どんなことも、言い訳にするのではなく成長、改善の種として捉えて間髪おかずに行動して変わっていくことが大事なのだと感じます。それが、迷惑を掛けた方々への恩返しに繋がっていくのだと感じます。原因をどこかに於かないことを実践として意識していきたいと思います。

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