先日、もう10ヶ月以上経営改革に関わっているある私立保育園の園内研修を行った。
私たちがお手伝いに入る園は、まず子どもの主体性を保障するところを起点とする「世界子ども人権宣言」に則った考えをやっていこうとしているところになる。流行にあわせて大人の便利さや大人の都合を優先する人権無視したところでは本質的に子ども第一主義を通そうとする私たちのことがどうやっても理解してもらえないことが多いからそうなっている。
その中で、この日本という一昔前から画一化された教育のやり方やノウハウで特に子ども主体の保育を実施しようとするとき、どうしても今までの目標管理や大量生産のやり方の刷り込みを取り除けず、園長も現場もうまくいかずに大変苦しんでいることがある。そもそもそれは使えないやり方の一つだと私は思っている。
見守るというのは、相手をまず信じることが前提になっている。具体的には発達を援助するということなのだが、どこまで待てるかはその人の専門性と子どもを信じる受容力に左右されている。
人は、一人では生きていけないから支えあう。そして人が共生するために互いを信じる世界がそこにあれば人はものすごい力を自ら発見し、そして発揮していく。
そういうものが分からない人には、子どもや人間の持つ無限の可能性を引き出すことはできないのではないかと最近はつくづく感じる。
私は教師ではないし現場を持ってもいないのだが、きっと教育者というのは仁義礼智信の特に「信」を極めていることが大事なのではないかとさえ思う。
その信とは世間一般の信用や信頼などではなく、人間の持つ摩訶不思議な深遠絶妙な力があるのを知っていてそれを正しく信じるという宇宙創生の天人合一の理に長けていることがまず重要なのではないかと私は思う。
基本的には、すべての子どもも人間もこの世に生れたら様々な制限の中でできないことばかりで成り立っている。そして生きようとするとき、高い目標や夢を持てば、できないことはどんどん増える。
しかし、その目標や夢を持つ人たちがそれを叶えようとするとき大事なのはそういう本人の力を引き出す周囲の感化力でもある。社会が良い人間を創るという中にこの「摩訶不思議を信じる」という教育があることはもっとも世界を豊かにしていく最善の方法ではないかとさえ思う。だからこそ、そういうことをみんながもっと正しく学んでいく仕組みを準備していくことを本当は国家や省庁がリーダーシップをとって進めていくべきなのだと思う。
しかし、そうはいっても今までそういうことを体験する機会がなければそれを急に理解しようとしてもそれは無理ではないかとも思う。今まで長い年月忘れていたことをまた急にやれるのは本当に一握りの現場実践家になるし、そういう通常は観えないもの心眼で捉える事ができる現実者を維持できる人だけになるからだ。
現在、私のライフラークの一つにそういう「信じる和を創造する一円対話」という方法を研究している。一円の定義は、二宮尊徳の一円観・一円融合より引用している。
すべての物事を円に容れてそれを丸くフラットにして、そこにそれぞれの輪の中の信じる力を引き出し、その人間の持っている可能性にフォーカスして新しい共生の理と可能性を見出す仕組みだ。
これはオランダで拝見したイエナプランのサークル対話を参考にしている。
人間は、みんながその人を信じるとき、そして深く刷り込みを取り除き、そのままのあるがままの存在を真から認めて受け容れるとき、想像を超えるようなものすごい力を発揮する。
そのエネルギーは、常識を超えるほどの成長の環境を生み出していく。
今の日本の社会は、まるでこの逆で不信と欺瞞に満ちていてこの成長のエネルギーは日夜減退している。減退するからみんなも疲れる。子どもたちの発達に関わるすべてをこの「環境」と定義するとき、今の社会は子どもたちにとって発達を助長するような環境にはとてもなってはない。
しかしその環境に嘆くのではなく、その環境を再構築や新生させていくのもまたこの保育の世界に足を踏み入れている人たちの使命だとも感じる。
話を戻すと、その園で行った一円融合のあと現場の先生も園長もとても笑顔素晴らしく、やる気と成長の環境に満ち、発展的な方向性を向いて新たに自らの刷り込みを捨てて変わっていこうという勇気に満ちた環境ができていた。
子どもたちに健やかな成長を保障できるように、日夜呼吸のように私はつとめて已まずに、発達を助長し援助する人的環境を構成するためにマネージメントを磨きあげ、子ども主体の園の真のお手伝いができるように研究と実践を重ねていきたいと思う。
まだまだこれはこれからも真に練磨陶冶していく仕事だし、とてもわかった気になっているわけではないけれど、一期一会、たくさんの人たちのご縁とその方々の子どもたちへの深い愛情に改めて心から感謝。
コメント
信じるという事がいかに大切な事なのか改めて感じます。今の自分の周りにいる人たち、そして子ども達のことを自分はどれくらい本当の意味で信じることが出来ているのだろかと考えれば反省点ばかりです。まだまだ相手の表面的な部分に持っていかれて相手の心の部分を見ることが出来ていない自分がいます。結果的に自分がそう言う意識や関わり方をしていれば相手も同じ状況になってしまいます。
相手がどうのこうの言う前にやはり自らが本当の意味で周りを信じれる為にも、先ずは自分が在りのままの姿で在るという事を大事にしたいと思います。
コメント
信じるという事が今の時代においてはどういうものなのかそれを学ぶ機会も
無くなってきているのではないかとも思います。保育・教育の場面を見ても、
大人がどうやってやろうかということが根底にはあり、その子のありのままの
成長を見守るという事が出来ていないのではないかとも思います。
それは人と人とのコミュニケーションにおいて起きていることであり、自身を
振り返ってみても自分を優先してしまって、本当に相手のために行うということ
ができていない様に思います。相手がどうではなく、自分から変わる事、
自分が本当に相手のために尽くして、最善の利益を願い、実行出来る様に
心がけていきたいとおもいます。