料理を学んだ中で「死ぬ」という定義がある。
ある人は、おむすびを握るのにお米が呼吸できるようにと言い、またある人はスープをつくるのにスープが波打たないようにと言う。なぜなら、呼吸できないとおむすびが死ぬからであり、スープも波打って周囲の鍋の熱い部分に触れて蒸発してしまえば死ぬからであると思っている。
この死ぬというものは、相手が死んだから死ぬではなくすべてはこちらの姿勢、生きものやいのちに対する自分のことを言っている言葉であるのです。
例えば、パン作りでもそうだしどの料理でもそうですが食材は生きています。そこにはいのちが宿っているからです、そういうものをどれだけこちらが丁寧に丹誠を籠めて接するかでその料理が変わってしまうのです。
よく西洋式に料理を学ぶと、すぐに栄養学や分析、その作り方のテクニックや分量などに意識を奪われてしまいますがそこに大切な何かが欠けていることに気づくのです。
本来、私たちが食べているものは何なのでしょうか。
それは確かに生きもののいのちをいただいているのです。そのいのちは食べ物に限らず、誰かのお役にたつために様々なものに変化してこの世の中で生きているのです。どんなものにもいのちがあるのです。そしてそのいのちは、大切に扱われることでいのちを為します。
もしもそのものをいのちがないとこちらが接してしまうとき、それが死ぬときであるのです。
自分の都合で、ただの「モノ」として扱い大いなる一つの分化した「いのち」として接することがなくなればそれはいのちとして観ていない観えていないことになるのだから死ぬのです。
美味しい料理も、何かの手助けも自分の謙虚な姿勢、素直な真心、その生き方にいのちそのものが呼応して自分のいのちとシンクロしていくのです。そしてそのいのちは「響き合う」のです。
いのちのシンフォニーというのは、すべてに自分自身への姿勢にかかっています。
部分や目に見える派手さにかまけて、大切な音を聴けなければ響き合いも感じれませんね。
生きものたちが躍動し、いのちが響き合うあの清々しく穏やかで平和な音を心で一緒に奏でて活き活きと安らかな日々を味わっていようと思います。子ども達にも、この音は聴こえているのでしょうか、今を生きる大人の責任と使命を感じます。
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自分自身に余裕があるとき物事がよく見え、周囲から感じ取ることが響き合いのように感じました。送受信すること幅が拡がることを思うと、会話のキャッチボールの大切さを感じます。聞くばかりでなく、お互いの声が響き合うよう自分自身からの発信を意識していきたいと思います。
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昨日、娘が私の怪我をした部分に自分の宝物のタオルを当てて
怪我を治してあげると言い、タオルを被せて何やら念じていました。真剣な顔でタオルを取って、私に治った?と聞く姿を見て
私自身、治ると信じようと感化されました。本気で心配して本気で治ると思っているその姿勢。治るかどうかではなくその姿勢が直すのだと感じました。私自身、娘の姿勢を学んで真似て行きたいと思います。
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全ては自分自身の心の在り方とそこからの行動なんだと思います。しかし人間は全ての物に対して自分都合で見て判断しているのが現状だと思います。そのよな姿勢では何かしらの悪影響になり自分にかえってくるのだという事も、最近特に感じます。どういうかたちで自分自信の命や存在が成り立っているのかもっと冷静に客観的に自分を見る必要も感じます。