小学生の高学年の頃、尊敬する人はと言われたら植村直己と答えていたのを思い出しました。何冊も、違う種類の植村直己の本を読んでは感動して何回も読み直したことを覚えています。
何があんなに感動したのか、それを大人になって星野道夫の写真展にいったときに思い返しました。私には何か、この二人には共通するものを感じるのです。自分の心を映し鏡にして、子ども心をそのままに自然のままの姿を維持しているからのように感じます。
その植村直己が、子どもたちに語りかけた言葉があります。
「 君たちに僕の考えを話そう。
僕らが子どもの頃、目に映る世界は
新鮮で、すべてが新しかった。
やりたい事は何でもできた。
ところが年をとってくると疲れてくる。
人々は諦めみんな落ち着いてしまう。
世界の美しさを
見ようとしなくなってしまう。
大部分の人は、夢を失っていくんだよ。
でも、僕はいつまでも子どもの心を
失わずにこの世に生きようと思う。
不思議なもの、
すべての美しいものを見るためにも・・・
いいかい、君たちはやろうと思えば
何でもできる。
僕と別れた後も
その事を思い出してほしい。
やろうと思えば何でもできるんだ。」 (植村直己 42歳)
この後、マッキンリーに最期の単独登頂を実現し行方がわからなくなりました。
子どもの心は、好奇心であろうと今でははっきりと確信します。どんなことが起きるのか分からないけれどそのワクワクを信じて歩んでいくこと、自分の人生を疑わずに直観を信じて突き進んでいくこと。
そういうものの中に、魂の望む自分の道があり、そこに無限の可能性があるように思うからです。この無限の可能性とは、宇宙の広さや時空を超えたつながりの中にある自分を認識できるという意味で私は使います。
子ども心は、誰にしろ持っていますが様々なしがらみがそれを抑圧していくように思います。
美しさは、その全てを美しいと思えるほどに学ぶ事のように思います。
自然の間でも人間の間にもまた、美しいものばかりです。
美しい感性をそのままに、子どもから子ども心をいつまでも学んでいたいと思います。
いつまでも子ども心を邪魔しないでいられる大人になりたいと思います。
コメント
人の「感性」はいろいろなカタチで表現されると思いますが、「言葉」もその中の重要なひとつでしょう。よく、「楽しかったね」とか「面白かったね」と親が子どもの感想を代弁してしまうことがあります。また、「かわいいね」とか「綺麗だね」と同意を求めてしまうこともよくあるでしょう。中には、「美味しいでしょ」と押しつけているようなこともあります。未だに、他人の感性を誘導するような語りかけをしているかもしれません。
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「可能性」の言葉に反応するのは、それに反して気持ちを抑える自分がいるからなのかもしれません。せめてありのまま表現することを邪魔をしない自分で在りたいと思います。
コメント
私も植村直己の本に沢山の影響を受けているタチです。
子どもと一緒に自然に正対する時、ワクワクが止まらず、辺りが輝いて見える事がよくあります。
きっと、子ども達自身の好奇心に導かれているのだと思います。
この好奇心をどこへ行っても忘れない、忘れたくない。
トキメキと煌めきを常に抱いて歩みたいと思います。