かんながらの道中

よく人生とは登山のようなものだと喩えられます。

低い山を登るのなら、山頂はすぐに捉えられるものですぐに登れる達成感も得られるものです。しかしもしも誰も登ったこともないような山に登るのなら、山頂は雲の上にあり果たしていつ登頂できるかも分からないものです。

長い期間を懸けて準備をし、コツコツと足を前へと踏み出していくしかありません。飽きるような道を歩んでいると時折、あの近くに見える低い山の方が善いような気もすれば、周りの山々を登る人を観ては羨ましいなどと思えることもあります。

なぜなら、山登りにおいて森へ入れば周りは観えずいつ抜けるのかも分からないままにこの道で善いと強く信じて戸惑いながらも怖いながらもまだ見ぬ栄光の瞬間を目指して忍耐していくものだからです。そんな時は、松下幸之助さんの遺した「道をひらく」の言葉にいつも励まされるものです。素直に謙虚にと思っていても、なかなか自分も善いお手本にならず天を仰いで自分を遣り尽くしていくしかないと心を定めているものです。

人は、本物を追及するのにいつも一人自分と対話し真理と向き合っていく必要があります。それが魂を磨いて掛け替えのない自分を尽くしていくことになるからです。そして同時に一人では生きられないのだから周りの人たちへ心を開き助け合って生きていく必要があります。それが心を清らかにしていくからです。

その時の判断基準は、根本は何か、何のためにやるのかということと、もう一つは自分の判断が皆を幸せにするものかどうかを中心にしているかどうかというものです。

まず本質は何かと考え抜けば、根本のところが観えてくるものです。根本が観えなければ、それは単に目先の現状に流されて魂が望んでいることとは違うことに惑うからです。これでは、自分は何のために生きるのか、働くのか、そして死ぬのかが観えなくなり不安は増大する一方です。本来の挑戦とは、常に本質的であるかの方が人生の根本と向き合っていることになるからです。

また協働というものは、自律や自立との向き合いによるものです。一人ではないということは、自我を優先して自分のことばかりを貫けば次第に周りに迷惑をかけてしまいます。だからこそ、周りに迷惑をかけないように自律していく必要があります。それは自分と他人を主人公にしていくように、常に自分と周りの夢を実現するために自分を使っていくということに他なりません。他と共生していくことを自然から学び直すといつも同じことを諭されます。

つまり自然というものは、常に共生と貢献の中に存在していて共に自己実現を成し遂げています。お互いに一つの太陽の元に生きるものとして、互いを思いやり、労り、慈しみ、そして共に夢を実現していくために協働していくのです。

ここに自然か不自然かという最も大切な生命の道理が働くのです。そうして生きる時、人は穏やかになり心が洗われ澄んでいくように思います。

どんな日々があったにせよ、日々は魂を磨き心を清めるチャンスに満ちています。
文章にすることは道から外れていると思われるかもしれません。

しかし道を励ますことは、自分が励まされたようにそれ自体が尊いと感じるから已むに已まれず此処に、いのちの足跡に信じて書き記したいのです。

他人からどんなに思われようと、子どもたちとともに一心直向にかんながらの道を歩んでいきます。

  1. コメント

    「自分には自分に与えられた道がある。天与の尊い道がある。いや、この道しかない。他人の道に心奪われることなく、心を定め、懸命に歩む」
    「かんながらの道」のその歩み方に、日々、学び、励まされ、己の足らざるを尋ねて、「自分の道」の歩み方を確認しています。

  2. コメント

    登山時に遠方に見える巨峰に「あの山に登りたいなぁ」と心を奪われることは良くあります。しかし、自分の中で大事なのはどの山に登るかではなく、自分との対話、研鑽であり、山登りを通して
    頂ける気づきの機会が大事だと思っています。「休みの日に家族を置いて登らせて頂いている」こと。「人生一度しかない今日にこの山にめぐり合わせて頂いていること」その感謝から始まります。
    まずは今めぐり合わせて頂いているこの山と向き合い、しっかりと楽しみ味わうこと。この山でやり切った先にしか与えられないものがあるのだと感じて山を登っています。

  3. コメント

    心がうずくような感覚はそう何度と来るものではないように思いますが、この感覚を「何のためにやるのかということと、皆を幸せにするものかどうか」から考えた時、皆には沢山の人が含まれること感じます。自分との向き合いは一人、本質かどうなのか心を正し挑戦していきたいと思います。

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