力むということがある。力むというのは、どこかに力が入っていることを言う。体のどこかにいつも力が入っていれば、どこかに無理をしているのだから思うようにコントロールすることができなくなったりするものだ。
以前、中学で私はバレーボールでとてもサーブが上手だと言われていた頃、いつも自分の体の力が抜けて無駄な力が入らない状態で打つことでどの場所へもどの方向へも正確に打ち込むことができた。
これも同じく、完全に肩の力を抜いて信じきっている状態であり自分の体と心と技術を併せて安定させる方法がもっとも自分を発揮できると自覚した思い出がある。
いつも良い状態を維持するとは、いつでも肩の力を抜くことができることを言う。
もっとも自分を信じて最高の自分を発揮できるようにしておくことこそ、日頃の練習と鍛錬のなせる業であろうと私は思っている。
しかし病気などになると、日頃、無意識に力んでいる場所が体調の悪化によって力めなくなることでその部分がはっきりとむき出しになっていくのがわかることがある。
日々、忙しくしていればリラックスする暇を忘れて没頭してしまうもの。休息の取り方が正しくなければ疲れるのは当然ということになる。
どこか無理をしているというのは、どこかに力んでいるのであり無意識だけれど無理にでもそこを何とか強くしようとしているのだろうと思う。
そう考えてみると人は心も同じく弱い部分は意識の力で日頃は必死に守っているのであろうとも感じた。
体調を壊してみると、三位一体のバランスが同時に壊れるからその心の動きや体の動き、そして感情の動きなど非常に複雑な葛藤を体験することができる。
ほとんどがその弱さの部分であったり、強さの部分であったりを自覚するものでもある。その順序も、節々の痛みも、不安も、日頃よほど力んでいるのだということを正確に知ることができる。
人間は弱さを隠すというのは、強がりともいわれる。そして弱さをさらけ出すことを、強さともいう。
ここであるがままをさらけ出すといっても、それは単に脱力無気力とリラックスとは異なるのは当然だけれど、この強い弱いという話だけではなくそういうものが心技体においてすべて存在しているということがあることは確かだということはよく理解できた。
では、どうやったら病気にならないような身体にしておけるのか。
日頃から素直に、ありのままのものを受け容れ、力まず無理をせず、鍛錬を積み上げていくことであろうとも私は思う。
心が弱ると、他人の暖かさや真心が心に沁みる。体が弱ると、日頃健康である有難みが実感できる。そして感情が弱ると、なんでもない日々がなんと美しいことかと感謝の念にかられるもの。
そういう体験を通して、無駄な力を抜いていくことを学ぶのだろう。
リラックスとは大切なこと。
心を開き、素直に健やかに、毎日の生活を楽しんでいくスローな感性を養っていきたい。子ども達にも、時間や感情、社会の軋轢に疲れ切らないよう、肩の力を抜いて生きることを示せるような自分でありたい。
コメント
自分の弱さや、かたよりがあるがままに見えれば、普段の自分の周りの環境がどれほど有難いか、そしてどれほどにその有難さに感謝していないのか、そして活用していないのかが見えてくるように思います。金魚鉢にいる金魚がそこに水や酸素や様々な環境があることに気付かず、そしてそれに生かされていることの素晴らしさ、有難さに気付かずにいる様に、自分自身も普段を生きているのだと感じる機会が闘病中にありました。もっと、そういった存在を信じ、感謝し、そういった意味でリラックスして生きていきたいと思います。
コメント
体と心が自然体でなければ自分自身が本来持っている力を発揮できないのだと感じます。日々生活していると何とかしなければと思い、思いだけは強くなり結果偏り体調が悪くなる事が多くあります。しかしそこでも本来どうあるべきなのか?という事を深く考えずに何とか体調を直そうとしている自分もいます。やはり大事なのは、本当の意味で在りのままでいるという事ではと思います。誰しも強さと弱さがあると思います。それを先ずは自分が受け入れそれを踏まえて在りのままでいる事の方が人が生きる上では当たり前としていきたいと思います。