何かに打ち込み努力をする際に、心を入れたか、魂を籠めたかというのがあります。これらは努力してから何かを決めるという発想ではできないことです。
よく学校で勉強するときは、よく分からなくても努力はできる癖を持たされるものです。意味も分からないのに暗記させられたり、目的が定まらないのに宿題や課題などで努力をするようにと諭されます。しかしこれは努力というものではなく、勉強というものです。勉強というものは、中国に行った際に中国語で無理やり何かをさせるという意味になっています。
読んで字の如く、勉強とは無理に何かをさせることを言うのです。
しかし実際の努力というものは、この勉強ではありません。なぜなら努力するために必要な心も魂も最初に決めなければはじまらないからです。努力は無理にさせられるものでもするものでもないのです。
なぜなら努力には「思い」が入るか入らないかの違いがあるからです。
例えば、スポーツでもそうですが思いが入るのと入らないのではまったくその練習の価値が異なります。思いが入る練習はまるで一つ一つの祈りのように芯が磨かれ育まれて強い信念が醸成されていきます。しかし思いが入らない練習は、ただ体を動かしているだけで身体は強くなっても心まで磨かれるわけではありません。
心が同時に磨かれなければ本番ですぐに心が折れるようになります。言い換えれば、勝負で頑張れない、続かない、迷い続ける、もしくは負け癖になるのです。努力は決めないままにしようとするのは理性を使いますが、理性では大事な場面でメンタルやハートの力を借りれません。
やはりどんなことも体を動かすだけではなく同時にそこに心と魂を籠めるといった、強い「思い」をカタチにしていくときにこそ本物の努力はなるのです。
努力をするのと努力がなるのとではまた異なり、努力はできても努力が為るにはやはり先に覚悟を決めるということが肝要なのでしょう。先に決めてさえいれば、体を動かしながらも思いも同時に強くなりますから努力として為るのです。
だからこそ決める時によく自問自答し、それは信条としてこの命を懸けられるほどのものだと定義したならば、どうやったら自分が活かせるか、どうやったら自分が活きるのか、まず貢献できるか、諦めず開き直っては辛い中でもその辛さを自ら逞しく乗り越えていくとき、努力は次第に本物になるように思います。
心を思うとき、思いやりが入るのですからやはり誰かや何か、もしくは他人のために努力できる人こそが、真に自分のための努力ができる人なのかもしれません。
決心したならば本物の努力はすでにはじまっています。そうすれば悩まずに、決心したままで取り組んでさえいれば後は時間が経てば、努力が育まれ必ずそれなりの姿になると思います。
決心して努力する人たちにエールを送りつつ、自らも思いを強くしていきたいと思います。
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本人は「努力」と思っていないことでも、他の人からは「努力」と見えることがあります。基本的に、「自分で努力している」と思っているときは、まだまだ命が懸っていません。また、「他人が努力している」ように見えるときも、その人自身が生き切っていないときでしょう。すなわち、「努力に見える」ということ自体が、やる腹が決まっていない証拠です。「がんばらないといけない」と思うときこそ、そんな姿勢で臨んではいけないと,自分に言いきかせなければなりません。
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週末、桜沢如一氏関連の本を読みながら今朝口内炎が出来ました。どう過ごし、何を食べたかが身体に現れることを思うと食べるよりも読んでいたことを実感します。学生の時はしばしば口内炎に苦しむことがありましたが、ここ最近では久しくも感じています。まだまだ及ばずですが一つの生体実験として、この機会を活かし努力の方向を修正していきたいと思います。
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自分の思いやりが何処から来たのかを考えると、自分の内面から一から発したものなどは無く、すべて人からいただいた思いやりが素になっているように感じます。もし何も感じなければ御返し出来るものも無くなってしまうのでしょう。嬉しいことも辛いことさえも気付きを与えるための思いやりだと考えれば、大切に味わっていかねばならないと感じます。感謝の心を高めて思いに変えていきたいと思います。
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恥ずかしい、悔しいと迷惑をかけた体現は、もう変わりたい!と心が決めたかのような雰囲気になりますが、変わると決め、どうすると決めたわけではなく、その姿勢での改善ではうまくいかないと感じます。腹の底から、人生丸ごと、含めて自分が決め、変わると覚悟し、シンプルに変わって行きたいと思います。