情報リテラシー10

今のような情報技術が進むと、様々なことを操作していくことができるもの。

いつの時代も最先端の道具を使うのは、使い手がどう使うかで変わってくるというのは変わらない。

いくら才能を磨き、突出した能力を得たとしてもそれを一体何にどう使うのかということが問題であり、それを正しく活かせるかどうかというのは人間の倫理道徳によるものであると思う。

鋭利な刃物を創る技術があったとしても、それを使う人間によってそれはどうにでも使えるもの。人間が成熟していないのに大変高度な道具を与えてしまえば間違ったことに遣ってしまうというのはよくあることであると思う。

以前、何かの映画でも似たようなものがあったけれど、力に魅せられ力に翻弄され力に支配されるという物語はいくらでも周囲に転がっている話である。

あくまでツールや道具というものは、使う側がバージョンアップしていくことでそれ相応の道具にしていくことが正しいことなのであると思う。使う側ありきで道具ははじめて世の中に有益なものになるということである。

私たちの扱う見守るほいくソフトも同じく、いくら最高のものを作ったとしてもそれが人間の持っている最善の叡智を引き出さなかったり、人間の持ちうる道徳倫理の心に訴えかけないものであればいくらでもその道具をエゴに使われてしまうものになる。

どれくらい現場の人たちのことを心配し思いやり、如何に刷り込みに気づかせ本来の根本的な課題に立ち返る機会を創出するかということがこのソフトでは大切になっているからだ。

人はつい簡単便利なものを欲しがり、それを自己満足で使おうとして道具に支配されてしまっているものもいる。パソコンでもそうだし、情報でもそう、使い方を見ていれば使い手の思想がどれくらい成熟しているかがわかるものなのだと思う。

情報リテラシーで考えてみると、今のような情報過多の時代はどれだけ情報をたくさん出せばいいかではなく、どれだけ本物の情報を発し続けるかということに意義がある。

人はよく分からない誇張された情報を与えられたり、偽物の情報で塗り固められたりする中で見た目ばかりから判断するようになってしまってきた。本来、正しい情報は見た目ではわからず、心の眼のような深い目を開いて洞察したり観察することで得ていたものである。

今の時代は、派手で見た目のよいものばかりに移り目になり右往左往していて盲目になりつつある。だからこそ、地味でも「本物」の情報を得られるようにすることと本物の情報を発し続けることでシンプルに削り磨き上げシンプルにしていくことが大切であるのだ。

それは一つに絞り込まれたものを実践を介して表現することであったり、大きな柱が立ち上がるようにいつも成果を一つの場所に集約したものを表現していくようなものである。

例えば、それがこだわりであり理念であったりするものを真摯に地味に発信し続けることで常に温故知新に上書きしていくようなものである。

変えていくものと変わらないものとを正しく発するには、正直な実践と誠実な態度と継続する信念が必要であるのだと思う。

情報リテラシーは、操作できるように勘違いしているようだけれどもそんなインチキな技術は所詮浮雲のように霧散するものである。

いつまでも語り継がれるような偉大な情報とは心の中を通じで残り譲られていくものである。

この仕事の奥の深さは、そういう情報に接する側の心構えにこそある。
これからも社業を通して本物のITを究めていこうと思う。

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