等身大の自分

全身全霊を捧げるという言葉があります。

これは文字通り、自分の持てるすべてを懸けてということでしょうが簡単なことではありません。人間には、我があり、その自我との調和がもっとも難しいと感じます。

いくら自分は捧げたと思っていても、そこには自分我が入ってきます。その我が入るからこそ、そこに邪念が発生して澄んだ清らかな気持ちを維持していくのが難しくなるのです。

全身全霊の境地というのは、とても泰然自若とした心境ではないかとも思います。

それは本当に全てを捧げる覚悟だったか、思いやりを優先し切っているかどうかと省みると、まだまだ足りないと思う処にいつも保身があったりするのです。

相手のことを自分のように思えるかというものも、全身全霊に近づく方法の一つのように思います。人は全ての力を出そうとはせず、これくらいやっているのだからや、周りが評価してくれるのだからと、自分のミッションや使命に生きることや遣り切っていくことよりも無難で在る方を選択してしまうものです。

一つ一つのそういう自分のわきの甘さに向き合って、今、何を優先したか、その優先する真心は何かと正対していく必要を感じています。感謝や謙虚というものの中に入るのもまた、そういう全身全霊を捧げることで実現するように思います。

自然界に野生する動植物たちは、我がないからあるがままの自然に同然しています。基本に据えているものの中に、慈愛や尊厳を感じているのかもしれません。

自分の都合を入れていないか、もっと周囲のために活動できているか、真心のままに日々を遣り切らせていただいているか、内省を深めて等身大の自分を錬成していきたいと思います。

等身大の自分であるかを常にチェックし、素直な心で自然を学び直していきたいと思います。

  1. コメント

    今日を振り返り、後悔しているか、、、と思ったとき、学びになったと思えど、後悔はない!という日を大切にしたいと思います。いいも悪いもやり切ってみての結果ではないかとも思いますが、やり切ってみると、自分自身がよく見える様にも思います。意味が後から着いて来る様な、実践重視の生き方と、軸足をいつも自分から放りだせる生き方を大切にしたいと思います。

  2. コメント

    覚悟が定まっていなければ、妥協癖がすぐに出てしまいます。それでは、持てる力を出し尽くすことができず、「自分の全力」がいかほどのものかわかりません。自ら主体となっているか、責任を背負う覚悟はあるか、信念をもって臨んでいるか?!を自問しながら、一事一事に心一杯を尽くせるよう、妥協心に負けない工夫を重ねたいと思います。

  3. コメント

    いくら自分が相手のことを思っていたと言って所で、相手から掛けられる声がその人にとって感じたことなのだと思います。その声から振り返り自分の至らない点を改善していきたいと思います。【●】

  4. コメント

    全身全霊や真心という言葉を容易に口に出せないのは、まだ自分の心の中で我が入っているという疚しさを感じているからなのだと思います。これでは「千万人といえども吾往かん」というような力強さが湧いてくるはずはありません。信念のために自分の生き方を正していきたいと思います。

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