傲慢や横柄などといったコミュニケーションをするのに必要な対人関係の基盤に謙虚な態度というものがある。
謙虚であるとは、自分を慎むことであると一般には言われているけれど言い換えればそれは心の態度として他人を蔑んでみないということである。
他人を蔑んでみる人の特徴は、自分が評価されているかどうか評価されたいと常に躍起になっている人のことである。
自分が評価され自分が周囲に認められたいと思えば思うほどに、自分を価値あるものにするために他を自分の評価基準の一つとして見下すようになっていく。
人から尊敬される仕事をしている人が自分を隠すために謙虚そうに振る舞ってみせていることがある。
例えば一見、へりくだったように自分を出さないように見せてみたり、自分からはガツガツしていなければ謙虚なのだと勘違いする人がいて、実際はその根底に自分が評価されたいという強烈な欲求が隠れているのだから当然その振る舞いは見た目よりも確実に傲慢に見えるものである。
よく人は、肩書やその他人の風評や風貌、その経歴などで判断し、そのことで扱い方を変えたり、関わり方を分けたりとされてしまうこともある。
そういうことから、自分が評価されていないと思い評価されているかどうかばかりを気にして生きれば次第に傲慢になり、結果的に心が捻くれてしまい素直になれないということにもなりかねない。
謙虚になるためにはまず傲慢にならないということを教わったことがあるけれど、傲慢の本質は自他の評価自体を気にしないということなのであると私は思う。
自分がどう他人に思われようが、自分の心に素直に生きることが謙虚であるのであろうとも思う。評価をする心そのものが自他を裁いていることになり、そういう心の姿勢が傲慢になるのである。
そうではなく、そのままの自分それは他人を意識している自分の感情の自分ではなく素直なままの善良な自分、あるがままの善心のままでいれば即ち慎んでいるということであると私は思う。
自分を慎むとは、いつもの平常心で誰に会おうが態度を変えずに接することができることである。
私自身、評価されたがっている人が苦手てどうしてもそういう人の傲慢さが目についてしまい気にしてしまい接しにくいことがある。これは私の中にもたくさんの傲慢さがあり、評価しようとしているところに未熟さがでているのである。
しかし決心している生き方としての自分自身は自分のあり方の方が大事なのだからこそ変わらずいつもの心でいるようにいることが子どもの心を守るためにも大切なことになる。
明日から夏休みに入る。
今回は、以上のことから子ども心についてまとめてみようと思う。
今の在り様を観て、子ども心でいつまでもいることが如何に大切なことか、その心を自分たち自身が見守り続けることがどれだけ素敵な思いやりあう豊かな社会を築くことができるのか。
これまで私が気づくところまでを明日からは少し書いてみたいと思います。
コメント
その人の行動そのものを見るこたが大切だと思います。肩書きで人を選ぶ人は、目に見えるところから学び、あらゆることから学べる機会があることを見逃していると思います。
自分にとって都合のいいことだけに目を向ければ、それ以外が自分の評価対象にならず、蔑むのではないでしょうか。
子どもは大人の行動をそのまま真似するからこそ、大人をよく観ていると表現するのだと思います。そのまま真似をすることは、評価しない心のあり様から捉えた行動ということでしょうか。
私自身小さい頃比べられたり、評価される経験が記憶の中で薄いこと、一つ得意なことがあればいいという母からの言葉が、今の自分を形成していると思います。見守られて育った環境を私自身も周りの人に還元して行きたいと感じています。
評価云々からの行動を観るのではなく、その人の持つ善さからの行動と捉え、言動の背景を考えその人の行動から学んで行きたいと思います。
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