人が一人前に仕事ができるようになるというのは、様々が定義があるように思います。例えばそれは技術力が極まりミスがなくなることという人もいれば、結果が出せるようになるという人もいます。しかし私が思う一人前は思いやりで仕事ができるようになることであり、なるべく周りに迷惑をかけないようにしていくことのように思っています。
実際、人として当たり前のことができればそういうことは少なくなってきます。しかし実際にそれは大変に難しく、日常の挨拶から片付け、情報共有や労い、御礼など言い出せばきりがありませんが心構えができてその一つ一つのことを実践できつつも同時に一つのことに執らわれない心を如何に持てるかということが大切ではないかと齢と体験を経るたびに思えるからです。
どれだけ自分に打ち克ち我儘をしないで周りを思いやれるかは人間人格修養の一生の課題かとは思いますが、仕事というのはその人格を磨くための大切な機会になっているように私は思います。仕事が面白いのは、そういう自分の心を高め磨くリハビリにもなっているからです。
私がよく讀み直す大好きな本の一つに、千日回峰行を満行された塩沼亮潤さんがいます。この方の著書「執らわれない」(PHP研究所)の中にはその人生体験の中で得られたことを自分の言葉にして紹介している箇所がたくさんあります。
ここで仕事の思いやりについていくつかご紹介します。
『自分が正しいからと言って、強さが先行して優しさに欠けたり、心配りが足りなかったりすると、陰で涙を流す人がいたりします。ちょっとした加減で微妙に変化する人生は、方程式のように毎回同じようにはいきません。』
人は得てしてうまくいったパターンにとらわれてしまうと自分が正しいと思い込みます、そしてそれをやることが一番なのだと周囲を省みずに強引に進めていると周りを知らず知らずに傷つけてしまうものです。独りよがりの正義は思いやりを内包しませんから、正しいよりも楽しい方を選んだり、正しいからいいではなく真心を籠めるという力をつけなければなかなかみんなが倖せになるような行動ができないものです。私もいつも気を付けていますが、どうしても理想と現実の中にある中で頭で思い込み刷り込みに負けて真心や感謝が欠けると人間関係に失敗をしてしまうことばかりです。
『みんなのためにと思って行動しているときに、何か一つのことにとらわれすぎると、周囲との隔たりができたり、ものごとが裏目に出て、逆にみんなに迷惑をかけてしまうことがあります。』
よく法理法則では「部分最適ではなく全体最適を」という言い方をします。人は自分の考えに固執するのではなく、よく周りの意見を聴き相手を慮り譲歩しながら歩むならあまり行動が裏目に出ることもないように思います。きっとこれでいいはずだという思い込みは、不確定な状態では頼りになるのもしれませんがいつも心を周囲に開いていたり、真心や思いやりを忘れないように小まめに自己内省していき聴く姿勢を正していくことが本質的に迷惑をあまりかけない方法かもしれません。
どちらにしても「執らわれない」という塩沼亮潤さんが目指す理想が、私が目標にする姿と一致してその生き方に共感することばかりです。離れていても共に歩んでいる道があること、真っ直ぐに歩まれているその有難い存在に深い感謝を覚えます。
『強くなんかない。清くなんかない。唯そうありたいと、願い続けているだけ。人の一生はみじかい。いかなる道を歩もうか。思いなやむことなく、唯この道をひたすらに。』
執らわれない実践を積み重ねて歩んでいきたいと思います。
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高校時代、他人の評価に囚われずに生きて来れたと勘違いしたのは、そもそも社会と共に暮らすのではなく、社会の中で一人、若しくは少数で暮らしていたからだと、社会に出て気付きました。今でもまだまだ、多くの囚われがありますが、その一つ一つの発見が有難く、苦難の末のたからの様に感じます。人生の旅の中でどれだけの囚われを外せる鍵と出逢えるか。向き合い、歩み、楽しみたいと思います。
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人は、集中しようとすると「執らわれ」てしまい、いろいろ配慮しようとすると「散漫」になってしまいます。注意すべきは、自分の考え方を「正当化」しようとする態度です。「人は、自分の仮説を証明するように動く」と言われ、一旦思い込むと、周りの意見は自分に都合よくしか聞けず、勝手に取捨選択してしまいます。「自分の仮説」に執らわれ過ぎないように、自分を見つめる目を持ち続けたいと思います。
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解決しなければただ聞いただけになってしまいますが、この「聞く」でなくどうしたらいいのかを「聴く」。そのためにはどうしたら役に立ち、何をして欲しいのか、解決の糸口はどこにあるのかわかりませんが、これまでと同じ方法、やり方がいつも通用するほど甘くなく、むしろどうしていこうかを考えられることに期待感を覚えます。枠などはじめからなかったのかもしれませんが、自分で勝手に設けて迷惑をかけないようにする分、動きもその程度だったのかもしれません。自分自身が考え思い浮かぶ考えでなく、第三の意見を求め実行していきたいと思います。【〇】
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子どもの頃から正義感は強い方だと思いますが「独り善がりの正義」という言葉にはドキッとする部分があります。正論で迫り、かつ、思いやりの言葉で相手の逃げ道を塞ぐようなことをしてしまっている時があるのかもしれず、それはまるで強烈な事情聴衆の後のカツ丼のようなやり方なのかもしれません。そもそも自分、更には人間という軸からではなく、自然に照らした所からの正義という観方に切り替えていきたいと思います。