昨日は、埼玉にある自由の森学園の学園祭に参加する機会がありました。子ども達がそれぞれに日頃の部活動の成果を発表したり、自分を表現する場があるのですが大変ユニークでそれぞれに自分らしさを発揮して愉しんでいる様子に好きなことをやっていくことの豊かさを再確認しました。
昔から「好きこそものの上手なれ」という諺があります。好きなことは自ら熱中しますから上達も早いのです。自分からやりたいと思ったことに主体的に専念できる人は、ぐんぐん実力も伸びて次第にそのものと一体になっていきます。嫌々ながらやっていては決して何事も上達しないという故事です。
自由というものを満喫するというのは、自らの中に精神的自由があってこそ本質的な自由を得られるのかもしれません。
昨日は学校内を見学する中で、子どもが書いている標語のようなものが掲げてあるのを発見しました。 そこには「心構え2か条」とし、こう書かれていました。一つ目は「一生懸命に」、そして二つ目は「自分の選択に責任を持つ」と。子ども達が自分の自由を獲得するために、大切な要素を書き出したものでしょうが自由を学ぶ校風があることを子どもたちの実践する姿によって実感できます。
そもそも精神的自由は、やらされているという受け身の態度では得られることはありません。何でもそうですが自分でやっている人だけが同じ体験をしてもそこから大切なことに気づき、その人生を味わい自らを磨き、その魂を高めていくことができます。
しかし怠惰に流されてしまえば、本来の人生の目的も忘れ休憩しているうちにあっという間に人生の時は過ぎ去っていくかもしれません。
一度きりの今世の人生をどれだけ本気だったかは、その人の主体性や自由の精神に左右されていくものです。自分が初心を欠かさずに実践すると決めて、自分の初心に取り組むものたちはみんな自由を持ちます。そこに「真摯さ」というものがありますが、自分に正直に取り組むからこそその人が光り輝いていくのでしょう。
自由の場が自然の姿そのものであり、それは本来の生き物の「いのち輝き成長する」キッカケを引き出していきます。
日々は選択の連続ですが、過去の自分の選択が今の世界になっていきます。そういう意味では、選択をする自由とはとても厳しいものですがそれが自らの足で歩んでいく実感そのものでもあります。
自分で決めた人生を歩めるよう、子ども達をどう見守り、どう信じるかは周りの大人たちの生き方が決めます。表面に出ているものの奥にある、あり方を子どもの自由に取り組む姿から学び直してみたいと思います。
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自由を学ぶ校風、学園祭の写真を見ると本当にそれを象徴しており、羨ましくもあり、とても大事なことなのだと感じます。心構えのとくに2つ目は、一度身に付けたらどこへ行っても、自ら学んでいけることを感じます。そして、それは見守る保育でも重要なことだと感じています。その力を子どもたちが育んでいけるよう、先生方を通して自分ができることを尽くしていきたいと思います。
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「自由」とは、決して「フリー」ではありません。「自らに由る」とは、そうする根拠が自分のなかに明確にあるということです。したがって、そこに責任が伴うのは当然のことです。そもそも、「選択の自由」とは、より高邁な精神に向けての自由であり、堕落を選ぶのは自由とは言いません。「自由」とは自らの魂のうずきに従って「挑戦する自由」であり「創造する自由」なのではないでしょうか。
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大人になった自分自身は、何を何のために選択しているか。
そして一生懸命に自らの命を燃やしているか。自分に問いかけてみると選択することには責任を持っていても、その選択したことを遣りきることにまで責任を持っているだろうか?!と感じます。一日は短く、今日選択したことを今日だけで終わらせては、人生を振り返れば無責任に終わることも多くあるのだと感じます。しかし、遣りきれば今日一日で終わることも、何か別の事の繋がっていくのだと感じます。人生に一生懸命に。そんな思いを持って歩んでいきたいと思います。
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遊びゴコロを大事にする、と言いますが、それこそまさに内面的な主体性のことのようにも思います。真剣に取り組んでいる姿の中にその心が満たされている時もあれば、遊んでいるようでも実は遊べていないということもあるのかもしれません。今の子ども達は十分に遊びゴコロを発揮出来ているのでしょうか。自分自身もまた子どもの姿からそれを学び直していきたいと思います。