深い學び

今年のことを振り返っていると新たなご縁が増えた一年になりました。特に体のことを深めることが多く、色々な体のメンテナンスや調え方、食事に生活の方法などを学び直しました。

例えば、座禅や瞑想、松葉などの薬草や和漢方、またお水やお塩などの基礎調味料、またヨガをはじめ合気道やアーユルベーダなどの伝統医療を学びました。もともと英彦山の宿坊に棲み始めてからの山岳信仰やその思想、歩き方や巡り方なども深く関係してきます。

私たちはこの体の持つ神秘に触れることで人類が太古のむかしからもっている智慧やその潜在能力に気づきます。私たちが何かによって活かされているということの事実を、体を深めれば深めるほどに感じることばかりです。

来年は、スリランカのマヒヤンガナの森でヴェッダ族の長老と4日間森の中でご一緒に過ごしながら伝統医療の本質を学びます。

このスリランカの先住民族は今ではヘラ族と総称され、その中にヤッカ族とナーガ族がいたといわれます。このヤッカ族がヴェッダ族のことです。そしてスリランカの伝承医学を、ヘラ・ウェダカマ(ヘラ医療)、パーランパリカ・ウェダカマ(受け継がれる・医療)、デーシャ・チキタサ(地元の・薬)と呼ばれるのはその理由からだそうです。

もしかしたらと直観するのは、ヤッカとはヤタガラス一族でナーガは龍一族ということではないかとも感じます。山岳信仰に触れてから太陽神や烏や天狗のことばかりが身近にあり森とこの烏がとても深い関係があることに気づくことばかりです。森の民といわれるヴェッダ族はまさに山岳修験の起源ともいえるのではないかと私は思います。

ヴェッダ族が今でもこのような暮らしを続けていることが、現代の人類の奇跡そのものです。

時代と共に、ヴェッダ族も数々の危険や危機に遭遇してきました。ある時は植民地化、またある時は強制移住や疎外があったといわれます。

そして今では資本主義経済が入り込んできて、少しずつ他の民族が滅んだことと同じやり方で浸食しはじめているともいいます。

私が暮らしフルネスを実践する中で、どうしてもわからないことがありました。また太古から続く普遍的な道を、あるいは仏陀が歩んだ軌跡の原点を学び直せるのではないかとも直観しています。

心静かに準備をしていきたいと思います。

道を守る

時代時代に私たちは時代の影響を受けています。いくら本質的に人間らしくいようとしても、時代の背景によってはそれもできなくなるようなことがたくさんあります。例えば、現代では物質文明のなかで資本主義中心の搾取や消費を優先する時代ではスピードも増し、利便性ばかりが価値があることになれば自然から遠ざかる一方です。だからといって、その時代の流行にばかりに合わせていたら時代が変わった時に歪が産まれ対応することもできません。

時代時代に流行があったとしても、普遍的な大道や王道のようなところを歩んでいる人たちの御蔭で人としての道も途切れずに繋がっていくものです。

ではどのようにしてその道を守ってきたのか、その一つは意識を保つことです。そして二つ目が心を磨くこと、そして最後が暮らしを変えることだと私は感じます。

意識を保つというのは、例えば食品なども主食を正食という玄米中心の食生活にすれば副食は質素で健康的なものになっていきます。それは玄米を主食にするという意識を持っていることで意識が正常に保たれるからです。主食がパンやお菓子などになってしまえば、食の意識が変わってしまいます。人を良くすると書いて食ですが、その食の中心は日本では玄米です。

また心を磨くというのは、日々に己と向き合うことです。手間暇をかけたり、小さなことを大切にしたり、あるいは丁寧さなどは心を用います。心を用いる人は、心を使うことを忘れません。心は、流行に流されず普遍的な道に中にいます。真心ともいいますが、理想や理念、初心を守り生きていくことで心は磨かれ研ぎ澄まされていきます。

そして最も重要なのは暮らしが変わることです。生き方や働き方を突き詰めていくと、暮らし方が変わります。その時だけ暮らすなどという言葉はありません。暮らすというのは、常に先ほどの意識や心を保つ実践をすることです。するとそれが暮らしになります。

暮らしを変え続けることは、日々に意識を保ち心を磨くのですが同時に小さな変化に気づくということです。例えば、自然の変化、そしてご縁の変化、今までとの変化、世界の変化、自分の変化に気づき続けるということです。どの瞬間も、今に集中して変化に応じてご縁を一期一会に過ごしていくこと。そうすると、流行で大勢の価値観が津波のように流れてこようと凪のようにあるいは深海のように静かに穏やかにその場に止まります。

暮らしが調っているというのは、つまり全体調和しているということです。そして変化を乗りこなしているということでもあります。一人一人が暮らしを調えていくことができるのなら人の道は途絶えることはなく、かえって道が明かに弘がります。

私が暮らしフルネスを提唱し実践するのは、人の道を守るためでもあります。私がこうやって今を生きられるのは何の御蔭様か。あらゆる全体調和の御蔭様です。だからこそ、その全体調和の有難さに拝む気持ちで暮らしフルネスを実践しています。

今日は仕事納めで振り返りをしますが、どれだけ暮らしを大切に変えてきたか。様々な角度から振り返り感謝と改善を続けていきたいと思います。

地域の宝徳

昨日は早朝より庄内中学校の有志の生徒たちが100人以上が集まり飯塚市の桜の名所の一つでもある鳥羽池周辺の清掃とゴミ拾いを行いました。地域代表としてお手伝いに参加してからもう3年目になります。最初は生徒会で実験的に取り組んでみて、その後は部活動の生徒たちが参加し、今では全校生徒で有志が集めいつも100人以上の参加するほどになりました。

庄内中学校は、校内にあるメタセコイヤの大木にイルミネーションをつけて地域を明るくする活動や、その資金調達にクラウドファウンディングに取り組むなど、実社会に基づいた社会への参画を色々と挑戦しています。またブロックチェーンの講義を受けたり、コロナ後の地域のお祭りに新たに積極的に参加したりとこの数年は特に目覚ましい活躍です。学校行事も次々と生徒が主体的に自由に取り組んでいるのが拝見でき、素晴らしい教育と大勢の見守りのある学校だと改めて母校の変化に感銘を受けました。

この鳥羽池の清掃では、初年度のゴミは恐ろしいほどの量で粗大ゴミや産業ゴミなどとても中学生の手におえないほどのものが出てきました。池の水が少なくなるこの冬の時期に誰かが捨てたものが池の中から出てきます。この場所は、夜は住宅が少なく人目につかないからと捨てに来る人がいるのでしょう。それを真摯に靴も泥だらけになり汗をかいて拾っている子どもたちの姿を見たら捨てられるはずはありません。

またゴミのほとんどを分別すると、ビールやコーヒー、ジュースの空き缶とペットボトル、それにお菓子や弁当などの袋、プラスチックや発泡スチロール、それに釣り道具などです。自然には容易に分解されないゴミばかりが池の周辺や池の中に大量に出てきます。同じ場所に吸い殻や同じ空き缶があるところは、同じ人がそこで捨てているのかもしれません。

この取り組んでから3年間、毎日散歩している人が拾ったり、ゴミ箱を設置してあってもゴミは1年に1度、生徒たちで清掃すると同じくらいの量が出てきます。しかもゴミ袋30袋以上の大量のごみです。これは一体なぜでしょうか。

一つには金融構造や欲望優先の消費経済、他にもシチズンシップや家庭教育の問題などいろいろとあるでしょう。以前、ゴミ処理場を運営している経営者にゴミ処理場を経営したら日本という国がどういう国かがよくわかると教えていただいたことがあります。ゴミの処分の仕方、ゴミに対する政策の内容、そしてゴミの種類や捨て方などにすべてが日本という国のありのままの姿が出ているからというのです。

以前、イエローハットで掃除道で有名な鍵山秀三郎氏から「足元のゴミ一つ拾えない人間に、何ができましょうか」という言葉を聴いたことがあります。そして著書でこう続きます。「『ひとつ拾えば、ひとつだけきれいになる』私の信念を込めた言葉です。ゴミを拾っていて感じることは、ゴミを捨てる人は捨てる一方。まず、拾うことはしないということです。反対に、拾う人は無神経に捨てることもしません。この差は年月がたてばたつほど大きな差となって表れてきます。人生はすべてこうしたことの積み重ねですから、ゴミひとつといえども小さなことではありません。」と。

これは徳を積むことも同じです。地域の代表として私からはみんなに「コツはコツコツ」の話をしました。コツは一つだけではなく、継続しコツコツとなることで非凡になると。ゴミ拾いというのは、継続と凡事徹底を學ぶ智慧にもなり、徳を磨き、己の心を育てるための素晴らしい教育になるということです。これは私の徳積財団の活動や丁寧な暮らしや社業の実践でいつも話していることです。

私がこれを改めて皆さんに発信したいと思ったのは地域の人たちに庄内中学校の生徒たちが真摯にキラキラと心を磨きお掃除をする姿を伝えていきたいと思ったからです。地域を守ることは、一人一人がコツコツと心をみんなで磨いていくことだと私は思います。

日本人は元々、来た時よりも美しくという精神を持っていて世界では試合後のゴミ掃除の姿がとても尊敬されています。正々堂々として清らかであろうと、荒んだ心を調えて和を尊ぶ国民性がある人たちといわれます。

都会に出て地域に子どもが少ないとか人口減少で過疎化しているとか不平不満ばかり並べる前に、凡事徹底して地域の宝や徳を磨き、それを未来へと大切に見守っていけるような日本人でありたいと思います。

 

お手入れの功徳

日本には古来から穢れという概念があります。これは別の書き方で氣枯れともいいます。元氣が枯れていくということで元氣がなくなるということでしょう。元氣というものは、どういうときに失われていくのか。それを一つ一つ見つめていると、わかりやすいものに病気というものがあります。病は気からという言葉もありますが、気が枯れることで病気になっているとも言えます。

そもそもこの病気の定義は、身体の病気、心の病気、精神の病気、あるいは環境の病気、場の病気、あらゆるところに病気はあります。その一つ一つを取り除いていくことが、穢れを祓うことであり、清めていくということになります。

この清めるというものは、どのようなものか。それは私たちは日常の中ですぐに感覚として理解できるものがあります。これは掃除です。掃除は、あらゆるものを祓い清めてくれます。先ほどの身体も心も、精神も場も清められます。私たち日本人が、清々しさを大切にするのは古来より気枯れを予防するような生き方をしてきたからです。

気枯れは、例えば不安、心配、恐怖、また苦痛や執着、猜疑心や嫉妬などあらゆる悩みからも発生します。また水が澱み、風通しがわるいときも発生します。他には、ゴミのように使わなくなったものが増え、消費や浪費が多いところにも発生します。不平不満をもって文句を言えばすぐに発生するものです。

人間は生きていれば、知らず知らずのうちにこれらの感情に呑み込まれていきます。特に現代のようなお金を優先にして比較されたり差別されるような格差環境では気枯れは容易に発生します。

だからこそ主体的にそれを乗り越えていくような祓い清めが必要になります。つまり気枯れではなく、「元氣」になるように生き方や心の持ち方を換えていく実践が必要になります。

心の世界は、心の世界で禍を転じて福にするために感謝や徳を積むという実践があります。精神の世界では、全てをお任せで安心の境地に入る実践があったり、身体の健康ではちゃんと真に元氣があるものを食べるような医食同源の実践があります。

しかしこれらを全部ひっくるめてやっぱり最も効果があるものは何かと突き詰めれば「掃除の実践」であるのは間違いありません。掃除は私はお手入れともいいますが、お手入れをして穢れを祓い清めるのです。

日々の小さな実践でもっとも効果があるのはこのお手入れの功徳です。丁寧な暮らしを通して、子どもたちと一緒にお手入れの功徳を積んでいきたいと思います。

大根飴

昨日から喉が痛くなりむかしからの民間療法で知られる「大根飴」をつくりました。ちょうど、自然農法で畑をなさっている方から新鮮な大根をいただいたこともありそれを蜂蜜と一緒に仕込みました。御蔭さまで、今朝は随分喉の痛みが緩和されて快復傾向です。

この大根飴の効果は、科学的には大根に含まれているイソチオシアネートが炎症を鎮めてくれるといいます。また、はちみつと一緒に組み合わせることでその殺菌作用や抗菌作用が働きより快復を速めてくれるといいます。

このイソチオシアネートという1つの成分のことをいうのではなく、ある分子構造が共通している「イソチオシアネート類」と呼ばれる仲間の総称のことです。辛み成分の中に含まれており、アブラナ科の中に多くあるといわれます。私が取り組んでいる伝統在来種の日子鷹菜の中にも大量のイソチオシアネートの元になる成分が入っています。

また大根は消化酵素が働きやすくなり、胃腸にとても効果があります。よく食べすぎや体調不良などの時は、私は大根おろしをお蕎麦に入れて食べます。すると、しばらくするとお腹の調子がよくなってきます。これも大根と蕎麦の組み合わせが絶妙であるからです。

民間療法の素晴らしさは、その組み合わせにこそあります。一つの材料と別の何かのバランスが見事に調和するとそれが大きな薬になります。副作用も少なく、効果は絶大です。

また冬至の翌日から休眠中だったぬか床を甦生し、ぬか漬けをはじめました。この時期のぬか漬けの主役はやっぱり大根です。ぬかの発酵も胃腸に効果がありますが、その漬けこまれた菌と一緒に大根を食べるもの身体が喜びます。

この一年、身体も酷使することばかりでした。身体を労うようにと、不調も訪れます。そんな時は、先人の智慧の結晶でもある民間療法が大きな助けになります。大根飴をいただきながら、年末に向けて心身を労っていきたいと思います。

お水のある暮らし

私たちが生きていくために必要なものはお水です。お水がなければ、人間は生きていけません。実際には、体内の20パーセントの水がなくなれば私たちは死んでしまいます。その逆に、水中毒といって水を摂取しすぎても死んでしまいます。私たちの身体は絶妙な水分を保つことによって健康を保っています。

そのお水をどのようにして確保するかは古代からの命題でした。今では日本などは上下水道が確保されて、蛇口をひねれば水が出て、トイレの排水なども別の排水路で処理されます。しかし世界にはまだまだお水の確保ができない国がたくさんあり、何キロから十数キロ先まで飲める水を確保するために歩いたり、雨水を貯めて乗り切ったり、汚染された水で病気が増えている場所もあります。

このお水の確保は、私たちの生命線です。英彦山の宿坊に住んでみて感じることは、お水の尊さです。お水が貯水できる山は、むかしから大変貴重なお山として信仰の対象になりました。原初の信仰は、お水です。その理由は先ほどのようにお水がなければ生きていけず、お水に活かされているといことを自覚することが信仰の原点だったからです。

そして世界の文明のほとんどが、そのお水の確保やお水との関係によって築かれていきます。例えば、遺跡などもよく観察すると岩や石で構成されます。岩や石は、水を上手に活かすためには必要不可欠です。これが泥であれば、濁って澱んでしまいます。お水は流れないとその生命を維持することができません。体内と同じように、常に水が流れ続けているから私たちは腐敗せずに健康を保てます。

同時にお水が確保できるお山は水が滾々と湧き出ています。お水の確保ができるのお山に近くに住むことは私たちが生命を維持することにおいてとても重要だったのは間違いありません。そして太陽を拝み、食べ物を確保していくのです。

太陽を拝みお水を供物としてお祀りして捧げることは雲を呼び雨を降らせまた循環させ続けてくれる存在への感謝だったのでしょう。

時代が変わって文明によって何でも便利になって忘れてしまいますが、お水こそが生命や暮らしの中心でありそこがあってはじめて私たち人間は人間であることができるということでしょう。

お水に感謝して、お水のある暮らしを調えていきたいと思います。

いのちゆらゆら

昨日は御蔭様で無事に冬至祭を豊かに仕合せに過ごすことができました。各地からこの日にこの場に集まり太陽に祈り感謝でお祝いできることも一期一会で二度とないことです。

私たちは毎回、生まれ変わり新しくなっていきます。これは、時を過ごすときによく感じるものです。同じように朝起きて祈り挨拶をしても同じことはありません。この世にいるとき、私たちは同じことを繰り返しているようで全く同じではないことの体験をしています。これは地球が自転していることも同様で、まわっていても地球上では同じことは起こりません。毎回、新しいことに巡り会うのです。

しかし私たちは、同じように繰り返し生死を巡ります。これは生死ではなく、一つの回転ということです。この回転には、ゆらぎがあります。このゆらぎがあるからこそ、私たちは同じことが起きないのです。

ゆらぎというのは、波動とも呼びます。私たちの生命は、このゆらぎや波動こそその正体ともいえます。そのゆらぎを感じるとき、私たちはゆらいでいるという感覚を知ります。ゆらいでいるからこそ、「感じる」ことができるということです。ゆりかごのように私たちのいのちはゆらいでいるのです。

冬至というのは、ゆらぎを感じる大切な瞬間です。むかしの人たちは、光と影でそれを感じたのかもしれませんし、あるいはこころの働きや動きでそれを感じたのかもしれません。

地球の地軸が23.43度傾いたのは、隕石の衝突という説もあります。しかし、私はそうではなく地球自体がゆらいでいるからという氣がしています。このゆらゆらとゆらぐことで、いのちをゆらします。

いのちゆらゆらとあることの有難さに適うものはありません。

御蔭さまで柚子の香りが充ちている場で、いのちが甦生することの喜びを味わう一日になりました。新たな一年を歩いていきたいと思います。

冬至の巡礼

今日はこれからBAで冬至祭があるため、柚子の仕込みや準備をしています。今年は英彦山守静坊の敷地にある山伏柚子が大豊作だったのでその山伏柚子をつかってみんなで柚子三昧をします。

この柚子というのは、先人の智慧の結晶、むかしからの保存食です。日持ちがよく、あらゆる調理に使えます。柚子胡椒、柚子味噌、柚子茶など、工夫して柚子を健康保持に役立ててきました。

また柚子は、ゆず湯が有名ですがこれは科学的にも効果が認められていて柚子に含まれるリモネンという成分にリラックス効果があり、ビタミンCも豊富でお湯に入れることで皮膚から体内に吸収されるんです。また柚子の香りの成分も自律神経系に働き、ストレス解消や睡眠に効果があります。湯上りにも湯冷めしにくいともあり、最高です。これは平安時代頃から続いている行事ですが、柚子を太陽に見立ててその力に肖るという縁起ものです。

もともとこの冬至は、現代は知らない人の方が増えていますが実際にはこの日がもっとも一年のうちで大切な日でしたから今でいう正月のようにお祭りのような日だったといわれます。朝からお餅つきをし、柚子三昧で過ごし、夜は大晦日のように過ごし、翌日の朝日をお迎えして「明けましておめでとうございます」とご挨拶するのです。

明治以降に、スケジュールやカレンダーといった西洋の暦を中心にした時間だけをみるような生活に代わりましたが本来は自然や宇宙、星や太陽の運行にあわせていのちのリズムや自然の全体調和に合わせて私たちは暮らしを営んでいました。

冬至は、その太陽が甦生するという一年で最も大切な日。いつも以上に太陽に感謝しながら過ごせる最高の日です。この日こそ一年で最も豊かな日です。

私は暮らしフルネスの実践を通して、この冬至の豊かさに氣づきました。そしてその御蔭で、年々、暮らしが豊かになってきました。これは物質的な豊かさというよりも、太陽や空気、そして光や風や生きものたちとの触れ合いが増えた喜びです。

私たちは「意識」というものをいつもどのように保っているかで、感じるものが変わります。感性というものは、この「意識」によって左右されます。意識は実践や継続をするとき、主体的になりますが意識がどこを向いているか、どの境地でいるのかは人生の豊かさにとても大きな影響を与えるものです。

冬至に祈り、暮らす人々は、意識が太陽から離れません。太陽の周りを巡りながら一緒に太陽と銀河を旅しているのが私たちですから一周巡るたびにまた一ついのちは磨かれていきます。

一期一会の冬至の巡礼を味わって過ごしていきたいと思います。

太陽が甦生する日

明日は、冬至祭をBAで行います。この冬至というのは、1年で最も昼が短く夜の時間が長い日のことです。先人たちは、この日を陰極まって陽になると信じ、一陽来復とも呼びました。太陽が生まれ変わる日、つまり甦生する日として太古のむかしからこの日を特別な日としてお祝いしてきました。

よく考えてみると、今のように知識がなかった時代、私たちは太陽しか観ていませんでした。太陽の動きに合わせて、地球上のすべての生き物たち、植物たちも生きていきます。太陽の運行をよく観察することで、自身の体調の変化だけではなくあらゆる自然のリズムを感じて暮らしてきました。だからこそ、この太陽が甦生する日は地球上のすべての生き物においてとても大切な意味がある日でした。

そして2024年は12月21日18時21分に太陽が「山羊座」に入る瞬間が冬至点になります。この冬至点というものは、黄道上で黄経270度の点のことです。つまり黄道上で最も南にあり、太陽がこの点に来たときが冬至ということになります。

この冬至点の時に、私たちは深く祈り甦生をします。

私は場道家でもありますが、同時に甦生家でもあります。何をすることが甦生するのかを色々な古く懐かしいものを磨き甦生させていきます。その中の一つに、節目という甦生方法があります。これは節目をよく観察し、その節目にそれまでの記憶を洗い清めて新しい初心を定めていくというものです。

そしてそれが自然のリズムと調和することになり、同時にタイミングという御刻と和合していくことになります。

大河に浮かぶ舟のように、私たちは風に吹かれて自然の恩恵に恵まれて旅をしていきます。どの時期に船出をするのがもっともよいタイミングなのか、あるいはどの時期に舟を停泊させることがもっとも安心なのか、これは運が決めます。しかしその運には自然の運行、宇宙の運行、あらゆる運行が緻密に結ばれていてその偉大な全体最適に和合するのにこの冬至や夏至という目印がとても大きな役割を持っていると私は直観しています。

先人たちはどうにもならないようなこと、偉大で畏敬があるものの存在をいつも感じてきました。そうすると太陽と地球の運行の中に、その運命を決めるリズムがあることを発見し、そこからこの冬至の大切な意味を悟ったのではないかと私は思います。

暮らしフルネスは、この冬至や夏至がとても大切な節目として先人たちの智慧と豊かな仕合せを子孫へと繋いでいくために徳積の一環として伝承しています。

今年は特に大切な節目で、これからを生きていく人たちと共に柚子を使った清めやお餅つき、おめでたいこと盡していきます。冬至点には、フルートや法螺貝で平和を祈ります。

大切な節目をどれだけ大切に感じて過ごしたかは、その人の人生を決めていきます。色々なことがあるなかで、普遍的な太古からの道を見失わずに歩んでいきたいと思います。

元氣の根源

「志を立てて以て万事の源と為す。」これは、吉田松陰の言葉です。これはすべての根源は志を立てることだという意味です。この文章はいとこが元服するときに贈った言葉だと言われます。またその続きには、「士の行は質実、欺かざるを以て要と為し、巧詐、過ちを文るを以て恥と為す。」とあります。これは立派な大人として、誠実で素直、決して自他を欺かず、騙したり嘘をつくことは恥ずかしいという意味です。

この志という字は、そもそもどのような成り立ちかを考えるとその心が向かうところという意味です。そしてこの心とは何か、これは氣であると孟子はいいます。孟子は、その言葉の中で「志は気の帥なり。」といいます。

これは万物全ては氣で満ちており、志が立つのならばその氣はこれに従うとあります。つまり志こそがすべての氣の源泉であるという意味です。志とは、心が向かうところと書きましたが心が目指すところがしっかりと定まり醸成されているのなら氣は満ち溢れてくるという意味でしょう。

吉田松陰はこうもいいます。

志専らならずんば、業盛なること能はず」

これは志に集中していないのならば、どのような事業も学問も大成することはありえないと。ここでもすべては志だといいます。また「己に真の志あれば、無志はおのずから引き去る。恐るるにたらず」ともいいます。これは、自分の中に志が立っているのならそうではない人はみんな自然にいなくなっていくもので怖がったり不安になる必要は全くないという意味です。

志こそ氣の正体ですから、立志の人物は元氣に充ちているということでしょう。この元氣があればどのようなことも実現できると信じるのです。できるかできないかを悩む前に、志はどうなっているのかと初心を確認することが吉田松陰の學問の真髄で姿勢だったのでしょう。

最後にこういいます。

「志定まれば氣ますます盛んなり」と。

志さえあるのなら、どのような環境下や状況下でも氣は常に充実しているのだと。まさに、志を実践することこそが第一義でありそれ以外はないという生き方。もう逝去されだいぶ経ちますが吉田松陰の志は後世を生きる私たちの心にも元氣を分けてくれているように思います。

よくよく元氣の根源を振り返り、その志を磨き上げていきたいと思います。