徳を積む生き方

アメリカからの懐かしい友との話の中で「発酵道」につて語り合いました。もともと酒蔵、寺田本家の二十三代目の当主、寺田啓佐さんと親しかったこともあり色々と生前のことをお聴きしました。

私はどこか生き方が似ているところが多いようで、共通点がたくさんあります。微生物についても、むかしからずっと親しくしていてお漬物などの発酵食品づくりをはじめ、自然農の田んぼや畑、また会社経営にもその発酵の仕組みを取り入れています。

自然界は腐敗と発酵というものがあります。しかしこれは腐敗VS発酵ではなくどちらも大きな意味では発酵です。腐敗も自然界に循環するための大切な発酵の一つということです。しかし人類にとって悪い作用を施すのを腐敗と呼んでいるのです。実際には、腐敗も一つの浄化作用ともいえます。この辺になってくると、どれが善い悪いではなく愛と調和の話になってきます。

発酵道のなかでもその辺はよく語られています。以前、俳優の窪塚洋介さんが私のいる聴福庵や場に来られたとき私の実践する「腸活」の体験をしていただきました。諸事情があって彼の番組にはなりませんでしたが、腸が活き活きしすぎて大変なデトックスになったととても喜んでおられました。本質的に腸活になったこと、発酵の一期一会になったことを覚えています。

もともと私はこれらの実践を発酵という言い方ではなく最近ではもっぱら「徳」という言い方をします。私にとっては発酵=徳という定義です。発酵について、寺田啓佐さんはその著書「発酵道」でこのような言葉を遺しています。

「それは決して嫌々やっていることではなく、微生物にとってそうすることが快くて、自分の好きなことをしている。そして、楽しく働いている。私には、そう感じられる。生命のおもむく方向へ、自ら進んで行っているのではないかと。きっとそうやって自分らしく生きることが、微生物にとっては自然なのだろう。まさに微生物というのは、本当の意味で自分のために生きている、「自分好き」なのだ。こうやって微生物の世界をのぞいているうちに、生命のおもむくまま、「自分にとって最も快いことを選択していく」ことが、実は自分を生かす最良の生き方なのではと思うようになってきた。」

ここからわかるのは自分の喜びそのものが全体の喜びになっているのが発酵ということです。そして自分が好きなこと、喜びになることに専念している、その自分自身を深く愛しているからこそ自立して自由にこの世界を素晴らしいものにしていく生き方となるというのでしょう。

これが発酵する生き方、私にすれば徳を積む生き方のことです。

自他を活かす、全体快適に生きる、まさに嬉しき楽しき有難きという仕合せないのちの響き合いです。酒造りの智慧は、生き方の智慧ともいえます。日本酒がなぜ神様の大切な供物の一つなのかはここからも気づけます。

今年はお米のことに深く関わる機会をたくさんいただいています。何よりもかたじけなく有難く思います。引き続き、徳を精進していきたいと思います。

七夕と徳

昨日から色々な友人たちが遠くから遊びにきていただいています。ちょうど本日は七夕ということもあり、これからそうめんを茹でてみんなで無病息災を祈り味わいます。

私たちが何気なく暮らしの中で味わっている行事には歴史があります。その意味もわからずなんとなくそれぞれに楽しんでいますが意味がわかるとより一層その行事の効果や伝承の醍醐味も味わえるものです。

形式的な行事よりも暮らしに溶け込んでいるものの方が私たちは素直に伝承していくことができますが、ふとみんなで意味を感じ直すとその歴史に積み重ねられた豊かさに感動するものです。

いつの時代も、物語と歴史と行事はセットで伝承されてきました。失いたくない大切な教訓や知恵、そして記憶は今を生きる私たちの中にも結ばれていますから新鮮さを忘れないでいたいものです。

七夕にそうめんを食べるというのは、色々な説があります。一つはそうめんを織姫が使う糸に見立てたものとあったり、中国では元々病や魔よけのために小麦粉を練って作られた菓子を食べていたというものもあります。他には中国では帝の子が7月7日に亡くなりその霊を供養するためや、乞巧奠(きこうでん)という手芸が芸事の上達を祈る行事で糸を祭壇にお供えするときに似た供物としてというものもあります。天の川に見立てたり、陰陽五行の5色のそうめんもあります。

不思議ですが、私の家族を含め友人たちもこの時期にはそうめんが食べたくなります。長い年月、行われてきた伝統行事は心を和ませる効果もあるように思います。ご先祖様がそうしてきたように、今も私たちが体験できるというのはとても仕合せなことです。

暮らしの中で信仰を保てることは、何よりも自分自身の喜びがあり徳が積めます。引き続き子どもたちの未来のためにも暮らしフルネスを実践していきたいと思います。

七夕のものがたり

明日は七夕です。もともとこの七夕の行事は中国から渡来したものが日本文化と融合したものです。「たなばた」という言葉も、本来は「しちせき」と呼ばれていました。これが日本の「棚機つ女(たなばたつめ)」伝説と重なります。

この「棚機つ女」は神様を迎えるために水辺に設けた機屋に入り棚機(たなばた)と呼ばれる機織り機で神様に捧げる神御衣(かんみそ)を織りあげる女性の呼び名です。この「棚」は神棚ともいうように神様が籠る神聖な場のことをいい、機はそれを実現する法具や神具のことです。

日本古来の神話によれば七月六日には水辺の機屋(はたや)で神さまの訪れを待ちます。水の神様をお迎えした女性はその夜に天から降りてくる神様の一夜妻になり、女性自身も神さまになると信じられていましたそしてその女性がその夜に織りあげた布を棚に置き機屋を出て水辺で禊をすると町や村が豊穣になり、厄を祓えるという伝承です。同時に川で禊をし髪を洗うと髪が美しくなるともいわれたそうです。

また願い事を「梶」の葉に書く事から書道の上達をも願うようにもなりました。それに技芸の上達及び福徳を願うようになり特に弁財天、弁天様が豊饒と技芸の上達を叶えるてくれるということで弁天祭と習合しました。そして陰陽五行の五色の短冊に願い事を書き、飾り物を笹に吊すだけの簡略化された七夕祭りになっています。また笹竹は天の神様が依りつくところ(依り代)とされていて願いを込めた飾りものを笹竹につるすようになりました。

そう思うと、色々な伝説が集合して今の七夕になっています。

似たようなものに、神仏習合というものがあります。最初のお水の神様が水分の神で瀬織津姫や宗像三女神と呼ばれたり、仏教が伝来しそれが龍神や弁財天や不動明王になったりと混淆しています。祈り方やお祭りも色々なものが組み合わさっています。

そう考えてみると私たちの先祖は、海外から来た神話や伝説も受容してそれを上手に取り入れて味わいました。それぞれの風土で誕生したものも、同じ願いや祈りを持っているものなら共に祈りお祀りして行事として実践をしてきたのです。

私たちはつい簡略化されたものばかりを見知って関心が薄れていますが、本来はどのようにその行事が発生したのかを深めていると先人たちの大切にしてきた真心を感じるものです。

大切な節目として、味わい深い暮らしフルネスを実践していきたいと思います。

変化と感覚

人間の感覚というのはとても鋭敏です。例えば、何かに力が入りすぎたりすると「力む」状態になります。よく緊張している状態で身体が強張ります。すると無駄に力が入ることで瞬発力もなくなり、怪我をしたりします。また肩こりや筋肉痛なども発生します。すぐに緊張するタイプは、力んでしまうタイプともいえます。

しかし力むということが分かるというのは、力んだことがあるからです。力まないがわかるのも力まなかったことがあるからです。つまりはこれは感覚でつかむものです。

いくら頭でわかっても、実際に力まないはわかりません。何度も繰り返し、感覚でその状態に近づけていくしかありません。実際には、自分の身体の感覚というのは変化を已みません。その時の体調の善し悪しもあれば、蓄積してきた疲労とかもあります。また精神的なものや心の中の状態なども変化します。

つまりその時の状況は変化し続けますからその変化に気づく感覚が必要になります。力む力まないというのは、感覚で行うものです。そしてこれは心身だけでなく、その時の今、つまり一期一会の状況を味わうや活かすといった瞬間と場との変化にも適応していることになります。

同じ状況など一切ないというのが感覚の世界です。これは音の世界も同じで、同じ音なども一切ないということです。一度、聴いてしまった音は二回目には同じ音には聴こえません。それは自分の中にその音が入っているからです。これは経験も同じです。同じ経験は二度とありません、一度体験したらその次は別の経験になっているからです。

毎回、自分の感じるその感覚が変わっていることに気付けるか。これが先ほどの力まない状態に近づいていくことに似ているということでしょう。

感覚の世界というのは、全身全霊を活用します。そしてそれは全体最適を目指していることに似ています。別の言い方では、中庸でありバランス感覚、柔軟性ともいえます。

毎回、その感覚の世界を味わい生きている人は新鮮さを失いません。そして最高の状態というものを自覚していきます。これはそのものの持ち味を喜び、徳を引き出すことにも似ています。

感覚を磨くというのは、どの分野においても大切な要素です。身体的な感覚を法螺貝を通して磨いていきたいと思います。

日本人の真心を味わう

お米というのは、私たち日本人にはとても尊いものです。お米を食べて今まで生きてきましたが、身体を支えていただいているだけでなく心や精神までも深く結ばれているように思います。

私たちはお米作りをしながら神事を行います。お米作りを単なる食べ物を物として栽培するのではなくまさにお米を私たちのいのちを深く支える尊い存在として共存共栄してきた伴侶のように大切にしてきたように思います。

お米はそれだけ歴史があるように、私たちとの深い関係性があり私たちのいのりに通じているようにも思います。その証拠に、お米の味わいなどに変化が出てくるからです。化学肥料や農薬を使っているお米は、えぐみのようなものが出てきます。特に私は玄米食ですから、お米を丸ごと食べています。すると、そのお米の味や香りがはっきりとわかります。白米にして削れば、おおよそ味は強くでませんが玄米のままだとはっきりと味がわかります。

その時、生産する人たちがお米にどのような心や姿勢で関わったかで味が変わるのです。以前、北海道にある牛がひらく牧場の斎藤牧場さんにお伺いしてはじめて牛乳を飲みましたがその味は忘れられません。牛をどれだけ大切に共存共栄する存在として接してきたかが味に現れていました。他にも鶏の卵なども同様です。愛情や思いやりといった真心や感謝は確実に味に現れます。

その味を活かそうとすれば、その味のままに加工していく必要があります。つまりは生産した人の心のままに料理をするのです。

私が在来種の高菜なども自分で種を蒔き育てお漬物にして加工して料理して提供するのは、その「まごころの味」をお伝えしたいからです。これは日本人の真心のことをいいます。

「日本人の真心を味わう時間」こそ、私は日本人の甦生になると信じています。引き続き、小さな実践ではありますが求めている人には革命的な気づきがあることを信じて丁寧に丹誠を籠めて取り組んでいきたいと思います。

日本人の本当の心

日本人とは何か、これを何度も反芻してきましたがそれは先祖伝来の懐かしい暮らしの中にあることを感じています。そしてそれを私は「暮らしフルネス」と名付けて実践しています。

そもそも神道をはじめ修験道、茶道も華道も道というあらゆるものは暮らしの中に存在しているものです。その暮らしは、口伝のように人の暮らしの実践の伝承によって人伝えに智慧の継承が行われてきました。

それを体系化し、組織化し、知識として学問にしたことで宗派と呼ばれるような派閥や系統に分かれていきました。仏道と仏教が異なるように、仏教は数多く宗派が分かれています。分かれたものが一つになることは難しく、その違いが諍いになっていたりもします。

例えば、私たちもどこかの国家に属します。国家に属しているから国家が戦争をすればその戦争に国民として巻き込まれます。本来、地球は一つ、世界は一つだったといってもこれだけ国家が分かれれば一つに戻ることはなかなかできません。

しかし遠い先祖はどうだったでしょうか。

そこにはただ、「道」がありました。

その道は争いのない分断のない清らかな心がありました。常に清らかであろうと心掛けました。これこそ私は日本人の本当の心ではないかと思います。そのために、私たちは場を清めます。

私が実践する場の道場では結局はやっていることは、お水を大切にお祀りして場を磨きととのえるだけです。そうすることで、清らかな気持ちになります。清らかになれば分断や分裂がなくなっていきます。

私たちは教義だけでは、そう簡単に清らかになることはできません。だからこそ場に自分を運び、そこで場に佇み共に磨き合うことで道に入ります。これを私は「場と道」として場道と名付けています。それを実践する人を場道家ということです。

時代が変わっても、日本人の本当の心はいつまでも継承していき子孫たちへも伝承していきたいと思います。

徳の伝承

古典、易経に「義は利の本なり、利は義の和なり」があります。また孔子の春秋左氏伝に「義は利の本なり」があります。これは義=利であり、利とは義のことであるという意味です。

現代はこの利と義は別のものになっているといいます。利益は損益と比較されますが自分が損をすることは利ではない、自分が損をしないことを利とも定義しています。また義というのは、大義とあるように全体最適、自分を含めて全体みんなに利があることをいいます。

孔子は「君子は義に喩り、小人は利に喩る」ともいいます。また「利に放って行えば怨み多し」ともいいました。これは自分だけの利益を追うのは本来の人間の徳ではなく、全体の喜び中に自分の喜びもあることが徳の人であるといいます。そして自分の利益だけを追求すると、怨みが増えると。つまりは、世の中がネガティブで不平や不満やネガティブな感情に包まれていくといいます。

経済が道徳であり、道徳こそが経済であるという言葉に道徳経済の一致というものがあります。これは先ほどの利=義と同じ意味です。

そもそもが、本来の経済とは何かを突き詰めていけばみんなの仕合せと徳の循環です。そして道徳を同じく突き詰めれば、自分の喜びがみんなの喜びになるような本来の人間の徳を積むことが全体最適であり大義になるという意味でしょう。

なぜ今、こうではなくなったのか。

それは利と義を反発させようとする力が働いているからでしょう。不和ともいい、お互いに譲り合うことを忘れ、謙虚さを失い、勝ち負けにこだわり、法律ばかりを増やしては権利ばかりを主張する。これに和はありません。そもそも和というのは、思いやりのことです。お互いを思いやるなかでこそ、利も義も調和していきます。先ほどの怨み多しとは、利に放っているからです。

何のための利益かという、そもそもの動機や理念を定めずに単に目先の利益だけを追いかける仕組みになっているともいえます。例えば、長期的な利益、つまり1000年後など何世代も先のためのことやあるいは地球全体のいのちへの思いやりなどといった動機があれば利益は目先にばかりにならないはずです。

現代は何でも近視眼的になり、みんなが目先のことばかりに追いかけられています。それは余裕のなさやゆとりのなさにあるとも言えますが、これは義に喩る活動が減退しているからでしょう。

かつての私塾、懐徳堂や適塾、昌平坂学問所のような仁義を学ぶところが失われ目先の損得ばかりを学ぶところが増えたともいえます。

私はこういう世の中だからこそ今こそ、日本の先人たちの遺徳を偲び、現代にその思想や学びを甦生させていく必要を感じています。

私の取り組みは小さくても、その値打ちは偉大だと思っています。徳積堂を中心に、子孫たちへと徳を伝承していきたいと思います。

古代からの感覚

お山にいくとお水があります。そのお水の清らかさは明らかに平地とは異なり澄み切った冷涼な透明感があります。そしてそのお水の傍から吹いてくる風がまた同様に清々しいものです。

私たちはこのお山のお水を感じるとき、言葉にできない清浄な元氣を味わっているともいえます。これは本質的には、お山そのもの元氣をいただいているということです。

私たちの元氣というものは、根源的ないのちの正体ともいえます。私たちの身体は元氣と一体になって活動しています。元氣がなければ、いくら身体が動いても気力がなく何もしようとは思えません。この元氣を蓄えるのは、お山の元氣をいただくときに実現するものです。

お山を歩いているだけでも元氣は蓄積します。そしてこのお山の元氣を目に見える形にしているのがお水ということです。お水にはお山の元氣が溶け込んでいるということです。

私たちの元氣は、この溶け込んでいるお水を取り入れるときに発生します。お水がいのちの根源ということです。そのお水をどのように取り入れるかは意識に左右されます。

お水に対する尊敬やお山に対する畏敬があれはあるほどにお水の元氣をいただきます。だからこそ、私たちはお山で祈るのです。そしてお水の力は、火によって顕現します。火はお水を反射してそのお水の持つ徳を活かしていきます。

あらゆる古代の信仰は、このお水からはじまったといっても過言ではありません。そしてお水をお祀りするためにお火を用いたということでしょう。火は自分たちの中にある熱であり水が形を変えたものです。

感覚を研ぎ澄ませていくと、古代から伝承されている叡智に気づくものです。

引き続き自分に流れる古代からの感覚を信じて、精進していきたいと思います。

自然体の生き方

昨日は、2年ぶりに故川口由一先生の自然農の田んぼにお伺いしてご供養をさせていただきました。今でもこの場所に静かに腰掛け佇んでおられるような気配が周囲に薫り、「ああ、野見山さん」と優しく爽やかに語りかけてくる声が心に聴こえてくるようでした。

いつもお会いするときは、私の近況のことや取り組んでいることに真摯に耳を傾けてくださりお土産話に花を咲かせその意味を深めてくださっていました。また真善美について、学んだことや体験したこと、すべて自然に照らし合わせてその叡智や知恵を語って見せてくださっていました。

正直で飾らず穏やかで和やかで安らか、その深い優しさからにじみ出てくるお人柄が大好きで心から尊敬していました。お会いするたびに先生の後ろ姿からは、いつも自然体の生き方を学び直していました。奥様も陰ひなたから見守ってくださり、以前までお元氣であるときにご馳走していただいた親子丼の味が今でも心に忘れることはできません。

いつも何が自然で不自然か、そして自然とは本当はどういうことをいうのかということをその生きざまから伝承してくださっていました。「一つの種がでて、その種が芽吹き、成長し花を咲かせ実をつけ種になり、枯れて斃れて新たな種が芽吹いてくる。」そんな当たり前のことを、ごく自然に当たり前に信じてただ一人の道を歩んでおられる先生に恥ずかしくないようにと私も田んぼに一人で立てる人間になろうと覚悟し、ここまで歩んでこれました。今でも迷いが出たときには、一人で田んぼや畑に立つようにその場所で一人立ち覚悟を見つめ直しています。志と革命は、常に裏で一人です。

墓前にてそして先生からいただいた美しい真心の光は、私の心田の中にしっかりと透明に光っています。このいただいた光を水に静め、私の光に換えてさらなる新たな宇宙へと発光させていきたいと改めて誓いました。

今、振り返るとお会いしてからずっと先生と一緒に自然の中にいました。今の私の周囲の自然のなかにも音の中にも先生の自然を感じない日はありません。それくらい自然の生き方の道に、導いてくださっていたことを思い改めて感謝がこみあげます。

「無為自然、いのちが光り輝く自然農、種は空の彼方に、花はこの心に、まきむく未来へ結ばれる。」

一期一会のご縁に心から感謝しています、その感謝に報いるためにも自然の生き方の続きを私も磨き続けます。引き続き風に吹かれて次の章へと喜び勇んで邁進します。

これからもよろしくお願いします。

自然の叡智

もともと文化というのは先人の知恵です。先人の知恵をどのように今でも暮らしに活かしているかで文化人かどうかがわかります。つまりは文化人とは、先人の生き方を尊敬しその知恵を今でも伝承している人のことです。

文化人とは決して何か崇高な職業や有名な伝統文化を継承している人たちだけのものではありません。つまり連綿と結ばれてきた歴史のなかで、知恵を守り続けていることが文化人ということでしょう。

地球のあちこち、つまりそれぞれの地域風土にはそれぞれの文化があります。これは長い年月の中で、その風土の知恵を活かしてきたものです。例えばこの地域を広げていけば、福岡や九州、西日本、日本、アジア、世界というように風土と文化は密接でそのエリアのなかで気候や自然環境によって暮らしと共に変化してきました。

私たちは都市化した生活に切り替えてから風土や文化を尊重するのをやめていきました。自分たち、人間の都合で便利な生活をするなかで最も失われていくものがこの文化や知恵ということでしょう。

知恵においては、私たちは自然の叡智や循環の仕組みをお借りして恩恵を得てきました。この知恵は、深い尊敬から常に産まれてきます。深い尊敬がなければ、浅知恵というようなものになります。

深さというものは、積み重ねてきたものです。経年変化に対して、知恵を活かし続けてきた証でもあります。それはとても深い知恵であり自然そのものの叡智に近づいていきます。

そう考えてみると、知恵とは自然の叡智そのものであることに気づきます。私たちも自然の存在として自然の叡智の結晶の一つです。だからこそ、自然であることを忘れずに自然の叡智を活かすこと。むかしの農家やむかしの先人たちの生き方をよく学び直して今に活かし続けることがその叡智を継承していくことにもなります。

常に新しいことにチャレンジはしていきますが、子どもたちの未来のためにもその根元にはいつも自然の叡智があることを忘れないようにしていきたいと思います。