真心の交流

3日前からイランの方々が来庵され文化交流を深めています。生き方や信仰を磨いている方で、すでに一か月ほど永平寺をはじめ他の寺院に入り修行や体験をし帰国前に私のところに来られました。

禅の修行をしてこられたこともあり、食事や坐禅の作法もととのっており日本的な精神や文化を真摯に学んでおられます。日本人も来庵されることが多いのですが、海外の方は先入観がないから特に深く純粋に感性を発揮して学ばれます。

知識がないというのは、それだけ体験の純度も高くなり限られた時間ですが共に過ごすことで私も学び直すことが増えています。これは、お互いの文化の違いや体験してきたこと、環境、価値観などが複雑に作用しあうからです。

ある方は、イランイラク戦争のときに13歳でアメリカに1人で移住しました。戦争にいき亡くなるよりはと両親も本人も苦渋の決断をして渡航されました。英語もできずほとんど知り合いもおらず、渡航後も資金が尽きて公園の木の下で寝て、ゴミ箱をあさりながら食を繋ぎ、必死に生きていたといいます。

その後は、親切な先生からの紹介でアメリカでの農場を営む夫婦の養子になり、正確には養父母になってもらい大学を出て弁護士になり独立し今では移民などを支援したり、大学の臨時講師をつとめておられるそうです。若い時に大変苦労されておられ、とても謙虚で観えない世界にも感謝や信仰を持っておられます。

この観えない世界に感謝できるという人は、苦労している人が多いような気がします。何物かわからないものに助けていただいていることを忘れてはいないということ、自分というものがこの世で生きている意味を深く感じているということ。人は苦労するほどに、目に見えないものに対する感謝があるように思います。

また日本の精神性にも感激されておられ、その理由の一つは古いものや懐かしいもの、ご先祖様を大切にしているところ、また根源というものを大切にしているからといわれます。

この根源というのは、火や水をはじめ自然というものや徳や循環というもののことです。形だけのものではなく、真に中身や実践が暮らしの中にあることなどもここにきてとても感動されておられました。昨夜は、イランのハーフェズ詩集を使った書物占いをしていただきました。具体的には、ハーフェズ詩集を手に取り、適当なところでページを繰る手を止めて、そのページに書かれている対句から隠された意味を読み取るものです。このハーフェズ詩集は、東西の文化に影響を与えたものでゲーテは晩年、ハーフェズの詩に感銘を受けて「西東詩集」を綴ったといわれます。

どの詩も深く、まさに文化交流としてみんなの心を捉えました。一期一会にご縁というのは、有難いもので日本の子どもたち、子孫へと伝承していける知恵になります。

出会いを大切にして、お互いの真心を交流していきたいと思います。

偉大な人

私たちは、もともと根源というものを持っています。これは原始ともいえます。この根源や原始の感覚というのは、知識をまた前の自分ともいえます。

知識を持つとそこが起点となり、根源や原始の感覚を忘れていくものです。これは経験や体験が増えていくにつれて仕方のないことともいえます。

しかしふとしたことから、例えば死にかけるような体験、あるいは生まれ変わるような体験を通して目覚めて、それまでの知識を削り取っていくような学びの削除に向かっていく方々がおられます。

つまり根源や原始に近づいていくような生き方です。すると、現代の価値観からはかなり遠ざかってしまつことがあります。

そうなると奇人変人とも言われ、狂っているとも言われたりするものです。

しかし、それは人々に知識があり、その知識を通しているからこそ、そう見えるというものがあります。知識がある人は知識がない人を狂ったように感じるからです。

これは子どもや老人だと、仕方ないと受け入れてもまともな成人であればなかなか許されないことです。しかし、そうではないこともあるのですからよくよく考えないといけません。

人類は偉大な人たちによってたくさん助けていただきました。偉大な人が育つ環境をととのえていくことが子孫のためにも必要です。

これからの時代の学び方を伝承していきたいと思います。

感覚と記憶

昨日から聴福庵に来客があっていますが、その方は感覚を最優先して物事を理解されている方です。外国の方なので言葉は通じませんが、感覚で色々なことを伝えてきます。言語というものを用いなくても、人はコミュニケーションをたくさんとっていることを再認識します。

つい対話には言葉ができないとと考えてしまうものですが、実際には言葉を用いなくても様々なものと対話をしています。むしろ言葉にすることによって、そのものを感じることやそのものと対話することよりも先入観や自分の思い込みを走らせてしまい対話を濁らせていることの方が往々にしてよくあるのです。

一日、喋らないで過ごしているだけで精神が研ぎ澄まされ濁らなくなった経験もたくさんあります。特に山の中で静かに作務をして、瞑想や坐禅、あるいは静かに山の風や音に耳を傾けていると自分が澄んでいく感覚になります。

私たちは言語化していくことで、感覚を閉じてしまいそのことであらゆるものが便利に使えるようになってきました。この道具というものは、知識となりその知識量の多さで感覚を用いなくてもよくなってきました。

しかし根源的なものや、原始的なものに触れようとするのならやはり人間も感覚を最優先していかなければそのものと触れることができないように思います。

感覚というものは、無二のものです。

だからこそ、頭で考えないということが必要なのでしょう。矛盾があるのはこのブログは言語化していることです。言語化するというのは、自分の中の整理で使いますし忘れないようにと記しますがこの文章は物事のほんの一端を忘れないように記録しているだけです。記録は記憶のほんの一部を記すものです。

そう考えてみると、感覚と記憶というものは無限です。

今日も、感性の喜びや感謝を忘れないようにして過ごしていきたいと思います。

野の心

野生の生き物というのは、自然の中にあり生きるか死ぬかの境地で生きていますから本気で本能があります。当たり前ですが、ぬくぬくと安心安全のなかで生きているとあっという間に襲われてしまいます。

例えば、天敵のいない島で餌が豊富にありぬくぬくと生きていた生き物がある時、島に流れ着いた別の生き物によって全滅したということはよく聞く話です。戦う必要がないようなところにいれば、戦うことを捨てていくのが私たち生き物の姿です。

動物園で人工的に飼育された生き物たちも、長い時間をかけて野生の本能や本気は削り取られていくものです。戦うという状態を維持するというのは、それだけ戦闘本能を常に磨いている状態になっているということです。

平和ボケという言葉もありますが、これは人間でいえば主に戦争や平和、安全保障などの現実について無関心、または現実逃避し甘い幻想に入り浸っていること。またはそれを揶揄した言葉だと言われます。

まさかそこまではないだろうや、そんなことはないだろうと危機意識が欠如していることをいいます。これは生きるか死ぬかのところにいないからこそ、そういう甘えが出てその隙をつかれるということです。

平和ボケを目覚めるには、現実によるショックが必要になります。前回の戦争で私たちの先祖は310万人くらい亡くなっているといいます。私の住んでいる市は13万人くらいですから全滅です。福岡県の人口が、510万人ですからほとんど半分以上が亡くなります。関東大震災で10万人です。同じではありませんが、規模が数字から実感できません。これも平和ボケの一つでしょう。

人間は、現実のことに置き換えるときに実体験していないことまた自分の身近で味わえないことはわからないのです。頭ではわかっていても、それを危機に感じるまではいかないのです。実体験してはじめて、これはまずいとはじめてわかりはじめてボケから目覚めます。

しかしそれでは手遅れだったということが歴史を省みると往々としてあるのです。だからこそリーダーは、実体験をしていなくてもまるで実体験であったかのように野生と本気、生きるか死ぬかのところで冷静さと情熱をもって自分一人でも行動しないといけません。

平和ボケこそ、戦争を生む切っ掛けになることを忘れてはならないということでしょう。野生を失わないような環境や教育はこれからさらに必要になります。

子どもたちにも野の心を伝承していきたいと思います。

暮らしの豊かさ

もうずいぶん前から自然養鶏を通して烏骨鶏を飼育していますが、色々とあって雄が一羽になってしまいました。病気もあり、イタチやタヌキなどに襲われたこともあり、だいぶ減ってしまいました。病気の時の看護も大変で、一羽でも病気になると他の鶏たちがその鶏を追い出そうといじめていきます。なので別飼いをしては、お世話をするのですが食事の世話や健康管理は簡単ではありませんでした。

また天敵に狙われるのも、大雨の日や風の強い日、あるいは夜中などに偶然外に出てしまった鶏などが狙われました。一度、成功したら次を狙っていつも近づいてきます。それを防ぎ撃退しようにも、野生の方が上手でまさにイタチごっこです。

鶏はいつから人間と暮らしだしたのか、色々な説がありますがエジプトでは紀元前1500年くらいからともいわれます。日本では、弥生時代だといいますがきっとその前から飼育ははじまっていたはずです。

私たちの先祖は、日々に太陽を拝んでいました。太陽が出てくる前に起きてきてご挨拶をし、「お早うございます」とお互いの早起きを確認しました。そして太陽を観てはご機嫌よくなり、よい一日を過ごすように心を努めていきました。鶏は太陽を知らせる存在として太陽と深いつながりがあると信じられていました。

今では当たり前に食べている鶏肉や卵が江戸時代までは鶏は天照大御神の神使として尊重されたため、それを屠殺して、卵をとることも含め食べることは忌み嫌われて避けていたそうです。世界が闇に包まれた時、鶏がそれを明るくするとも信じられていました。

私も今は、毎朝、鶏の声で目覚めますがタイマーなどとは違ってとても清々しい音が周囲に響いてきます。鳴かないときは、それなりに理由があり心配になります。

一緒に暮らす家族の一員として、犬をはじめ鶏も豊かになる存在です。

時代が変わっても、大切な存在であることは変わりません。新たな命と共にまた鶏が増えていきますが、代々の暮らしの豊かさに感謝していきたいと思います。

徳の周波数~暮らしフルネスの智慧

今、私は水鳥が飛来してくるような場所に住んでいて朝から様々な鳥の鳴き声が聞こえてきます。特にこの時期は、繁殖期でもありとても賑やかです。また耳を澄ますと小さな虫の羽音や植物の葉が風で擦れているような音も聴こえます。池の周りを歩いている人の話し声、車が通りすぎるエンジンやタイヤの音もたまに混ざります。

夜中にふと目が覚めるとそういう音は聞こえてきません。ただ、頭の中に響いているようなキーンという一定の響きだけが聞こえてきます。無音というものはそう考えてみるとありません。そして周波数もなくなることはありません。それはすべてのものは音を発しているということになります。

そして振動というものがあります。二つ以上の周波数が混ざり合って振動するというものです。音楽などはあらゆる音が振動して共鳴することで成り立ちます。鳥がお互いに鳴き合っていたらもはやそれは音楽ともいえます。

また地球上にあらゆる音が流れるとそれも音楽です。海の音、太陽が昇る音、風の音や地震、雷や雪などあらゆるものが自然の音を奏でています。周波数というのは、その存在そのものを顕現するように思います。

これはどんな周波数だろうかと私たちは音を聴きます。それは対話でも同じく、場を味わうときも同じです。そこに流れている周波数を通して、そのものの正体を察知することができるのです。

ある意味、すべての物質も周波数を常に奏でています。そして同時にそれが集まれば振動となります。どのような共鳴をするか、どのような調和をするかは、その周波数を感じる人によって調整、調律されるのです。

私は、手で調整や調律をします。それをお手入れともいいます。一つ一つのものを手で触り、それを磨き調えて適切に配置してそのものがそのものであるように、そして持ち味が活かせるように配置していきます。そのものがもっとも喜んでいるとき、喜びの周波数が出てきます。その喜びの周波数を自分が同時に喜んでいるとき、そこに徳の周波数が発生します。

徳の周波数を大切にすれば、人はその徳に目覚め徳の素晴らしさに感動するのです。引き続きこの知恵を子孫へと場を通して伝承していきたいと思います。

味と場

食べ物は熟成や発酵、あるいは組み合わせによって味が調い健康によいものになるものがたくさんあります。例えば、酵素玄米なども時間をかけて熟成することで酵素が働きより美味しく健康な食べ物になっていきます。

お漬物なども私は13年漬け続けている高菜を持っていますが、その味わいはまるで熟成されたウィスキーのような芳醇な味わいで食べるとやはり美味しく体も喜んでいる感じになります。

経年変化で劣化すると思われているものもあれば、先ほどの熟成や発酵など時間をかければかけるほどにさらに人間にとって善いものになることもあります。これらは何がそうなっているのかということです。

そもそもこの熟成や発酵というものは、よく観察すると科学的な効果とは別に関係性というものがあります。長い時間をかけて関係を持つことで生まれてくる信頼関係やお互いを必要としあう共生関係が結ばれていきます。

私たちは時間をかけることに由って信頼関係は強くそして深く結ばれていきます。そのことから安心し、喜びや豊かさも増えていきます。この関係性というものは、味の中に私は入っているものと感じています。

なぜなら、田んぼでのお米づくりや伝統在来種の高菜でも自らそのものの生産に深く関わりそのものが喜んでくれるようにと共に働き合っていると美味しく感じ、仕合せや豊かさが増えていくのを実感しているからです。

まだ科学では証明できなくても体感として間違いなくあるものは、存在すると私は信じています。それだけまだ科学が追いついてきていない世界が私たちが生きているこの場なのでしょう。

場の中に入っているものだからこそ、私はそれを場の中で顕現させていきます。これは味も同じことです。つまり味というのは、そういう意味で場を感じるための大切な感覚の一つです。

引き続き、味と場を探求して美味しいものや健康であることの意味を子孫へと伝承していきたいと思います。

味を深める

味というのは不思議なものです。私たちは生まれてきて、色々なものを食べてきました。その食べたものを美味しいと思う感覚はどこから来るのか。最初に食べるときはお母さんから母乳をいただきます。そして身近な信頼できる存在から与えられたものを食べていきます。気が付くと、自分で食べたいものがでてきてはそれを食べるようになります。

美味しいと思うのは、自分のどの感覚が反応しているのか。これは一つは、身体が欲しているものということがあります。あとは、五感を含めて感じたものを美味しいと思います。味わいたいと思う感覚のものです。そのほかは、脳が知ってしまって自動化されたきっと美味しいだろうと思っているものを欲しがります。これは思い込みの部分が大半です。そうやって人間は、味を学びます。

他には、人生を味わいたいというように食べること以外にも味を感じようとします。つまりは、味とは体験の感覚のことで心や魂と繋がり得ている感覚ともいえます。さらに別のものでは妙味がわかるというように智慧とも結ばれます。自然や宇宙の真理とも味は関係しているともいえます。

私たちは味を人に伝えるとき、色々な伝え方をします。その表現の数は無数にあります。例えば、味わい一つにいっても食感や食音、複雑な風味や香り見た目や温度などニュアンスで人は味を伝えます。言葉にできないから味で伝えるのです。

味というのは、感覚を表現するもっとも私たちが直観し理解するそのものの本質であることがわかります。味を知り味がわかるというのは、奥深い真理がありそれが人生をどれだけ色鮮やかに豊かさを与えてくれるかと思うと偉大な感謝を感じます。

産まれてきて、味わえるという喜びは何よりも格別なものです。

その味を忘れてしまい、当たり前になったりあるいは忙しさのあまりに味わうのをやめて便利で時短のものにするのはとてももったいないことだなと改めて感じます。一期一会の味わい深いこの瞬間も、すべて味であるとし味を深めていきたいと思います。

発酵の妙味

発酵のことを学んでいると、色々と人類の固定概念が覆ってきた歴史を感じます。そもそもこの発酵というものの技術は人類を長い間支えてきたものです。日本でも、麹菌をはじめ納豆などの枯草菌や土を元氣にする土壌微生物は太古のむかしから共存していますしペニシリンなどのカビ菌も健康を下支えしてくれてきました。

この菌というものは最初は、無から誕生するといわれ信じられてきました。顕微鏡もなかった時代、物質の時間的変化を観てはそう思ったのも無理はありません。空間の中に突如として別のことが発生するというとき、人はそれを神掛かりとしたのでしょう。

その後、パスツールの実験によって変化は空間の微生物の仕業だと解明されます。しかし実際のところ、宇宙根源から観たらアリストテレスの言う「自然発生的に無から出てきた」というのは真理だということは直観できるものです。そもそも今の地球がどこから誕生したのか、宇宙が何から誕生したのか、未だに解明されていませんし解明することもありません。それはこの世はすべて目に見えるものだけしかないわけではなく、意識や念、魂というような目に見えないものも同時に渾然一体となっているからです。

しかし科学というものは、その中から解明できる部分だけを発見しそれを都合が善い部分だけ人工的に利用することで人類の思い通りに加工してきてそれを進歩や発展としてきたのでそれが真理のように取って換わってきたように思います。

この発酵というものは、実際のところはいのちの話ですからよく分からないところはまだまだたくさんあります。麹菌においても、日本人に合うように飼育されて変化して今に至りますし、田んぼの土なども真心を籠めて見守り関わっていると微生物との関係性ができて地力があがりよく作物が育つようになります。人間の腸内細菌もまた、同様に腸内フローラがよくなるような生き方や食べ物によって健康が保たれます。

まるで意志を持ち、人間と同じような個性や特性を持っている菌を果たしてどう捉えるか。ある人は、人間の正体は本当は菌であるという人もいます。確かに、腸内細菌が脳を支配し、全身の微生物の調和によってウイルスなどとも和合し自然の循環の中で自然と共生しているのも菌です。

またある人は、人間はミミズが変化したものともいいます。土を食べ、菌が食べてさらによい土にしていくという循環の仕組みは本来は人間と同じです。

現代は、人間が科学的なものや不自然ものを摂取して体内の微生物たちも色々と変化していますが本来は自然と共生する菌たちの相互扶助の仕組みで生命は循環しているのでしょう。

目には観えなくても、この手のひらにも空気中にも、そして水の中にも微生物たちで満たされています。最近は、殺菌ばかりしていますがこれも何だか本末転倒というかちぐはぐというか知的文明を語りながら刷り込みというのは滑稽なことだなと感じます。

もちろんどうしても滅菌している空間でないと難しい時は当然ですが、自分たちが微生物の親類であることを忘れるのは残念なことです。今でも私たちはお酒をはじめパン、みそ汁など日々は微生物の活躍に頼っています。

尊敬の気持ちを忘れずに、子孫たちへ発酵の妙味を伝承していきたいと思います。

伝統の魂

現在、英彦山の宿坊での暮らしを調えていくなかでかつてその場所で行われていたことを一つ一つを甦生させています。その中で、学び直すことが多く私たちの先人たちがどのような伝統を創造してきたかも気づき直しています。

知識というものは、先に持つこともできますが実際には後で持つ方がためになります。何のためになるかといえば、革新するときのためになるのです。先に伝統を学ぶのではなく、先に伝統に親しむ方が後から変化させることが容易くできます。

私の場合は、場から学び、そのものから理解する癖があり体験を重視し気づきを尊重するので知識が後になることがほとんどです。このブログも、後の知識であることがほとんとで先には親しむだけです。この親しむというものも、素直さが必要でありよくそのものに使われるような謙虚な気持ちがなければなかなかそうならないものです。

よく考えてみると、幼い子どもたちは先に知識がありません。そのものからよく使われているうちに次第に知識が集まり習熟していきます。発達というのは、そのものであるということでしょう。

また伝統というものは、誰かがそれをはじめに創造してそれが時間をかけて繰り返される中で育まれていくものです。しかし気が付くと、形ばかりに囚われて中身がないものがたくさん出てきます。この時の中身とは何か、それは魂ともいえるものです。

かつて柔道の父といわれる嘉納治五郎氏が「伝統とは形を継承することを言わず、その魂を、その精神を継承することを言う」と仰っていました。まさに私も全く同感で伝統だけを保存することに何の意味があるのかと感じます。保存というのは、活かすことであり単にショーケースに居れたり形だけを保ち続けることではないのです。

そこには魂が宿るのですから、その魂を受け継ぐことが真に伝統を革新しているということになると私は思います。

また南方熊楠がこうもいいました。「森を破壊して、何の伝統ぞ。何の神道ぞ。何の日本ぞ。」と。そもそも伝統が最優先ではなく、子孫や自然を如何に守るかということでしょう。その手段としての伝統や神道などがあるということでしょう。

そもそも何のために伝統があるのかを考えれば、そこには守りたいものがあるからでありその守りたいものを守るところに魂があるということです。

伝統の魂を守ることを伝承ともいいます。伝承には純度が必要でそこには魂が宿っていることが最低であり絶対条件でしょう。周囲がどういおうと信念をもって実践できるかどうかが志の登竜門ということでしょう。

引き続き、子孫のためにも英彦山で伝統の革新を続けていきたいと思います。