浄化の一日

今日は、冬至です。外は一面の銀世界で雪景色です。畑の高菜もすっぽりと雪に隠れ、寒々しくもところどころ深い碧い空から光が漏れてきます。日本は四季が豊かで、毎日外を眺めては変化を已まず飽きることがありません。

同じ場所にじっと佇んでいても、これだけ四季の変化の彩りがあれば退屈することはありません。むかしの先人たちは、この変化に驚き好奇心を働かせ色々な暮らしを紡いできたのでしょう。

時代が変わっても、自然の巡りや変化、その循環の妙には魅せられ続けます。故郷にあってその変化を味わえることに深い喜びを感じます。

今年は振り返ってみると、病気に怪我に死別にと苦しく辛いことが思い出されます。しかし同時に、新たな出会いと挑戦、徳を実感するような出来事も思い出します。人生は、一期一会とはわかってはいても生々しい出会いと別れに一喜一憂するものです。

今思えば、二度と同じことはなくそしてこれからも二度と同じことはない。この世のすべては変化しないことはなく、元に戻ることはないということを実感することばかりの一年でした。

健康の有難さは年々より明白になり、自分の役割や天命もまた近づいてくることも明瞭になります。

家族や仲間との旅路もいつか終わる日がきます。恩師やメンター、同志たちも同様です。冬至だからか一年の終焉と人生の終了を思います。そして同時に、甦生といって新たになることの意味を感じます。何が終わり、何がまた新たになるのか。何が集まってそして役目を終え分散し、何がまた新たに集まるのか。

思いというものがこの世を創造し、思いによって世界はできます。

一つの思いを思い出し、新たな思いを思い出す。

出てくる思いにしたがって、また綴る新たなご縁と物語に一期一会は存在します。太陽を浴びる時間が一番少ないからこそ、闇の有難さを感じます。穢れを祓い、浄化するよい一日にしていきたいと思います。

暮らしフルネスの冬至祭

いよいよ明日は、暮らしフルネスの冬至祭が行われます。そもそも暮らしフルネスは、足るを知る暮らしのことで暮らすだけで仕合せという暮らしそのものに生き方や人生の在り方、生きざまなどがすべて凝縮されたものです。人間は自然のリズムから遠ざかり人間だけの刷り込まれた世界にいると喜びが半減していきます。もともと私たちは、全体と一緒に生きているいのちであり、その循環のなかで役割をいただき天寿を全うしていきます。この寿命というものを深めると、自然に四季のめぐりの素晴らしさや暮らしができる喜びを味わえるものです。

話を冬至に戻せば、明日が北半球において太陽の位置が1年で最も低くなり、日照時間が最も短くなる日です。この冬至を境に、23日から日照時間が長くなります。むかしの人たちは、太陽を観て生活をし、月を観ては内省をして暮らしを紡いできましたからこの太陽が最も短い日はもっとも不安になった日でもあったでしょう。そこから、生まれ変わりという「甦生」の意識が誕生し、古いものが新たになりそして力を取り戻すと信じられたのでしょう。

この甦生は、日本だけでなく古来から世界各地でも似たような行事がありこの冬至の祝祭が盛大に行われています。クリスマスなども誕生祭ともいいますが、この太陽とのつながりからだともいわれます。

中国においては、陰が極まり再び陽にかえる日という意味で「一陽来復(いちようらいふく)」といって、冬至を境に運が上昇すると信じられていました。運とは、下降もすれば上昇もします。太陽がまた上昇してくるということを意識して、太陽の力の恩恵を肖り自分も天高く昇っていこうとしたのかもしれません。

この冬至には、運を上昇するために「ん」のつくものをたくさん食べるといいといいます。由来は、いろはにほへとの最後が「ん」になるのでそこからまたはじまるという意味もあるとの説も。阿吽のうんも「ん」で終わり、すべての終わりは「ん」からというのできちんと終わるということを意味するのかもしれません。

また春の七草があるように、冬の七草というものがあります。これは、なんきん:南京、かぼちゃ、れんこん:蓮根、にんじん:人参、ぎんなん:銀杏、きんかん:金柑、かんてん:寒天、うんどん:饂飩です。

他にも、体を温める作用の強い野菜を七つ集めて冬の七草ともいいます。それは白菜、大根、ネギ、春菊、キャベツ、小松菜、ホウレンソウの七つです。またゆず湯といって、強い臭いで邪気払いをして穢れを祓うというものもあります。冬至にゆず湯に入ると風邪をひかずに冬を越せると信じられてきました。

こうやって私たちの先祖は、自然を深く尊敬し暮らしの中で自然と共に生きてきました。現代は、お金や経済のことばかりで忙しく仕事ばかりに追われる日々に流されてしまいそうですがふと足を止めて、一生に一度しかないこの日を深く味わうことで人生の真の豊かさや自然への感謝に気づきたいものです。そしてそういう偉大な存在への感謝を仲間と共に音楽を奏でながら喜んでもらおうとするのがお祭りです。

子孫のためにも、知恵や慈悲を伝承してよりよい徳を循環させていきたいと思います。

徳育と伝承

故郷や地域の歴史を深めていると、立派な功績を遺してくださっている偉人に出会います。特に、子孫のためにと活動して命を賭して取り組んだ人の遺徳は今でも地域の宝として残っています。

時代背景が変わり、暮らしが変わっただけでなく大切にしてきたことも変わってきました。今があるのは、当然、むかしの御蔭の集積であり、私たちはその積み立ててきた徳によって存在することができています。恩人たちの恩を如何に次世代に伝えていくかは、人がその場所でより善く幸せに生きるためにも子孫への教育は重要になってきます。

この子孫への教育とは何をすべきか、それは徳や恩を伝承することだと私は思います。学校の一般的な教科などを教えることも大切かもしれませんが、そもそも自分たちのルーツがどうなっているのか、そしてなぜこの土地で今の自分たちが暮らしているのかなどの原点や文化などを学ぶことで自分たちがどう生きるのかを感じるように思います。

私もルーツを辿ったり、故郷の遺徳を学ばなければ自分の心身を通して脈々と流れている生きている歴史を知ることはありませんでした。なぜ今、此処にいるのか、そしてこれをやるのかなどの理由の初種はすべてむかしからの結びや繋がりにあります。

そして出会う人たちもまたむかしにご縁のあった人たちばかりで、あるいはその志を同じくする仲間や友人たちが姿かたちを変えて顕れているからです。言い方を換えれば、懐かしい人たち共に懐かしい時間を味わいながら時を旅しているともいえます。

この時の旅を知ることは、自分がなぜ今、ここにありこれをやるのかを知ることであり天命を知り安心するためにも重要です。

現代は、歴史も過去の終わったものになり、遺徳も古臭い昔話になっていたりします。本来の意味を忘れ、現代の目先にどっぷりと沈んでしまえば時の旅をしていることを忘れて今の享楽にただ浸ってしまうものです。

自分の天命を思い出すことや、自分の仕合せやご縁に立ち返るためにはまず自分のルーツを知り今までのすべてに感謝する機会を持つことが重要だと私は感じます。子孫の仕合せもまたそこにあります。

教育の中でももっとも尊いこの徳育を伝承していきたいと思います。

徳の余韻

むかしから水路を引くというのはとても大きな事業だったことがわかります。今では機械も設備も方法も増えてあまり河川工事についての関心がなくなりましたが、かつては河川が氾濫するたびに農民をはじめほとんどの人たちの暮らしが破壊されました。

私が甦生している飯塚市幸袋の古民家も、何度も川が氾濫し家が浸水した形跡があります。2階にはいつ川が氾濫してもいいようにと五平太船が括りつけてありました。むかしの人たちは自然の猛威に対して、なすすべがなく苦労が多かったことがわかります。

そんな中、浮羽とのご縁から五庄屋物語というのを知りました。むかしの道徳教育の教科書(協同)にも掲載されていたそうです。そこにはこう記されます。

「久留米〔現福岡県久留米市〕の東、筑後川の流れに沿う地方では、川よりも高所に田畑があるため、水を引くことが不便で作物が出来ず農民は貧しい暮らしをしていました。寛文3年〔1663年〕にこの地域の庄屋五人(栗林次兵衛・本松平右衛門・山下助左衛門・重富平左衛門・猪山作之丞)が、村々の貧困を救う方法はないかと考えた末、筑後川に大きな堰を設け掘割を作って水を引くより他はないと決しました。しかし大河である筑後川に堰を設けることは莫大な費用がかかる大工事であるため、財政難であった久留米藩(有馬藩)は彼らの申し出をなかなか認めようとはしません。そこで五人の庄屋達は費用は自分らの身代を潰してでも自分らで賄い、また工事が成就しなかった場合には自らの命をもって償うと血判することで久留米藩の許可を得ることに成功しました。この計画に賛同し協力しようとする他の庄屋達はいるものの、中には堰建設により洪水の恐れが生じるという理由で反対した庄屋も多々見られました。ついに大工事が始まりましたが農民達は「五人の庄屋を死なせてはいけない」と言って懸命に働き計画通り大きな堰が完成し、村々に筑後川の水が行き渡るようになりました。すると工事に反対していた庄屋達は、堰の水利にあずかりたいと願い出てきました。最初から五庄屋に賛同していた庄屋達は、彼らは工事に反対していたのだから我々の村に水が来るまでは差し控えさせるようにと申し立てました。が、五人の庄屋は「この工事はもともとこの地方のために起こしたことなのでその水利はできるだけ広く受けさせたい」と答え、反対していた庄屋の村々にも水を分け隔て無く与えるようにしました。この地域が収穫の多い豊かな土地になったのは、この五人の庄屋をはじめ村々が心を合わせ必死になって尽くしたおかげであります。我々の住む市町村は、昔から人々が協同一致して郷土のために力を尽くしたおかげで、今日のように開けてきたのです。協同の精神は、人々が市町村を成し、全体を繁栄させる基であります。」

実際に筑後川に来てみると、その雄大な流れと広さに驚きます。この数年、豪雨災害で何度も氾濫していますが近隣の山々から流れ込んでくる水は膨大です。それが有明海まで流れていくのですが、下流の方は水嵩も増えていくのもすぐにわかります。しかしこの河川は、扱い方次第では人間には大変な恩恵を与えてくれます。

偉大な事業というものは、目先の損得では行われません。だからこそ人は自分の身可愛さにそういう事業に反対するものです。遠大でさらに徳に関する事業こそ、余計なことはせずにこのままでいいとする人が多いものです。

しかし子どもたちや子孫のため、未来のためを思うと自分たちが犠牲になっても構わないという生き方の人たちが時代を超えて徳を推譲していくものです。

先人たちの遺徳を偲びながら、この浮羽で何ができるのか、よく省みて活動していきたいと思います。

石といのち

世の中には、どのように形成されたものかがわからない鉱物というものが存在します。私もむかしの日本の石風呂を現代に甦生するときに、色々と鉱物を調べましたがその奥深さにはとても驚きました。私たちが石として観るものも、同じ石は一つとしてこの世に存在しません。いくら分類わけしても、成分や配列、そして重さから形にいたるまですべて異なっています。加工をしたとしても、その性質は同じものはなく関係性によってもまたその土地の地場や使う人によっても変化しますからまさに石は一期一会です。

その石の中でも、長い歴史があるものがほとんどで長いものだと数十億年前、隕石にいたっては数百億年前というものまで存在します。この世に形成している鉱物がこれだけの長い年月、一期一会に姿を留めては力を発揮しているというのは宇宙の偉大さの一端を感じさせるものです。

特に地球の中にある石においても、薬石と呼ばれるもの、そしてあらゆる奇跡を引き起こすものなどもあります。私は薬石を深めていたときに、その石から出ている何かというもの、あるいは石が吸引していく力があることなどを学びました。これは感覚的なものでまだ科学的には証明されていないものがほとんどです。

例えば、水を入れることで水に伝導する波動のようなものであったり、火を入れることで遠赤外線が別の何かに入れ替わっていくように神秘的な変化を促します。他にも、音を響かせることで石もその音に反応して別の音を奏でます。石というものは、無機物だと人間は認識しますがそうではなく一つの気が集まった集合体でありこれはいのちそのものの姿とも言えます。

私たち人間は、自分と同じものしか生きていないと認識します。例えば、動いているもの、血液があるもの、手足があるものなど、人間と同じ要素があればあるほどいのちがあると思い込みます。しかし宇宙から観たら、人間は単なる一つの細胞の一つであり全体を構成しているものはもっと偉大なものです。

石を深めるということは、いのちを深めることです。今週は、穢れを祓うために石風呂を使いますがまさにこの石と水と火と風と光と闇と木と音の総合芸術を味わいます。ご縁のある方々と一緒に、本来の徳が何かを磨いて心を調えていきたいと思います。

休むということ

人は頑張りすぎると疲れるものです。その疲れは心身に響きます。現代は、脳が付かれているという言われ方もしますが実際には自律神経が疲れているように私は思います。

私もいつも120パーセント出し切るような生き方をしていますから、よく疲れます。疲れても、それがバランスよく疲れている場合は、すぐに回復して日々を味わい深く過ごすことができています。疲れることがわるいのではなく、疲れても健康であればほとんど問題はありません。ここでの健康は、心身の健康で快復もまたバランスよく調っているときです。

しかし何か身体的や心に大きな傷を負ったりすると急にバランスを崩してしまいます。私でいえば、無二の親友の亡くしたり骨折して歩けなくなると自律神経が不調和を起こします。すると、日々に細胞を甦生させて調っていたようなバランスが崩れ、歪な甦生がはじまります。すると、そこから全体のバランスにも影響が出て回復が遅れ気が付くと疲れが蓄積していくようになります。

この疲れというのは、自律神経が調和させているように私は思います。自律神経というのは、無意識や潜在意識にはじまり心臓を躍動させたり、呼吸をして肺を収縮させたり、時には感情と結びつき体をコントロールしたりと常に自分を陰で支えるパートナーです。

そのパートナーとの不調がはじまると、私たちは健康を維持することができなくなります。自律神経を回復させるには、休むしかありません。休むというのは、心身を休ませるということです。それは睡眠がもっとも効果的だともいわれます。他にも呼吸法であったり、ストレッチやヨガなどもいいともいいます。しかし大切なのは、やはり休むということでしょう。これは力を蓄えるということでもあります。

これから活動するために、どう力を蓄え心身を養っていくのか。休養というのは、大きなリズムでの大切な活動の一部です。

来年は、辰年で私にとってはとても意味のある一年です。臥竜のように深淵に沈み、天を仰ぎ観て心を静かに燃やして雲を待つ大切な時期です。丁寧に過ごしていきたいと思います。

本物と五感

人は幼い時に本物に触れることはとても大切です。何が本物で何が偽物かを知ることで、感覚が本物を理解するからです。例えば、生まれてすぐからインスタント食品や化学的に便利に調理された加工食品ばかりを食べているとその味が通常の味として感覚が染みつきます。すると、その味が基準となって美味しいというものや、合っているというものになっていきます。合わせて、食べ方というものもあります。丁寧に味わって食べることで、全身の感覚で味わう食べ方と、一気に流し込むような噛まずに食べるような食べ方をしていたら感覚もそれを基準にして活動することになります。

つまり、この身体や五感というものは五感というものを研ぎ澄ますことで察知する仕組みになっていてその時に本物に触れるということで磨かれるということです。

ここでの本物というものは何か、それは五感を使うものということになります。そして五感を使わなければ使えないものこそが本物ともいえます。むかしの道具なども、今ほど便利ではなくどちらかというと大変不便ですが五感を使うものばかりです。五感を使う道具とは、人間の持っている力を引き出す道具ということです。先ほどの味でいえば、私たちは五感によって味を察知できます。ということは、五感を使う道具を用いてその五感でしか察知できない味を引き出しているのです。

この引き出していくというのは、元々持っているものに近づけるという意味でもあります。別の言い方をすれば、調っている状態にするということです。この調った状態とは、自然ともいいます。不自然とは、歪になっている状態のことです。

私たちは煩雑とした都会ではなく、シンプルで洗練された自然などに身を置くと心身の感覚が覚めわたっていくものです。これも五感が動き出し、自然に調ってくるからです。

つまり本物というものは、この五感によってしかわからないものでありその五感を発揮させることによって私たちは自分というものを自覚し、人間本来の姿を認識し、健康や幸福、あるいは人生までを感覚的に感受することができるように私は思います。

だからこそ暮らしの中で五感をどう磨いていくか、そしてそれをさらにどう高めていくかというのが修養の本質であり、本物を知るということになるように私は思います。

日本人が日本人になるのもまた、日本人として五感で磨かれてきた文化を体験させてこそです。子どもたちのためにも、本物に触れる機会や教育を増やしていきたいと思います。

暮らしの価値

世の中では、人々が物の価値をつけていきますから本物だから高いわけでもなく偽物だから安いというわけではありません。価格というのは、他人の価値で決まっているものですからその価格はそれを求める人と与える人で変わってきます。特に今の時代は、便利さに加え情報格差や情報操作などいくらでも私たちの認識を変えるものがありますからなかなか難しい時代です。

例えば、食糧難や資源が不足すると宝石や貨幣はあまり価値がなくなります。それは宝石や貨幣は目先の食糧にはならないからです。本当の危機が来れば、今の時代の価値は一掃されて別の価値が発生します。砂漠で飲み水が高額なのは、不足するからです。不足すると価値が出て、それを手に入れようと人は躍起になるものです。

その逆に、物が溢れて便利で何でも手に入る時代は食糧や資源は価値がなくなります。そして貨幣や宝石はじめ贅沢品が価値がでます。この数年の変化をみていたら、人々の物に対する価値も変わってきています。それだけ流行や時代の変化によって、価値は変動し続けているのです。商売人というのは、それをよく観察して人々の価値に合わせて取り扱うものや売り方などを変えていきます。

しかし、よくよく観察していると普遍的な価値というものがあります。それは健康に対するものであったり教育であったり、あるいは時間、場所、それに安心や幸福というものです。

一般的に、人は競争することや目先のメリットを追い求めていると普遍的なものの価値よりもそうではないものに価値があると信じ込んでいきます。思い込みで生きていると、本当に自分にとって価値があるものとそうではないものもわからなくなっていきます。

私たちの暮らし方を観察していると、それがよく分かります。暮らしというのは、人間の生き方でありどのように暮らしていくかによって価値も変化させていくことができます。むかしの懐かしい暮らしには、むかしの懐かしい価値がそのまま残っているものです。

私が実践する暮らしフルネスは、そういう懐かしい心や大切な価値を守り続けていこうとした人々の記憶と一緒に生きていくことに似ています。年末に入り、世間は猛スピードで市場経済の活性化に尽力していますがふと足を止めてみると変わらずに流れている自然のリズムや宇宙のいのちの鼓動があります。

丁寧に一つずつ、呼吸をするように暮らしを味わっていきたいと思います。

お迎えする心

昨日は、12月13日ということで聴福庵の煤払いを行いました。一年間、お世話になった竈の周辺や台所、神棚をきれいに掃除して浄化していきます。みんなで朝から作業をして、夕方までには終了しました。一見、綺麗にみえても灰や煤は隅々まで広がっていて煤払いをしたあとの空気中の埃や塵がずっと舞い上がっていました。

むかしからこの日に、煤払いをする行事を日本人は実践してきましたがきっと同じように灰や煤の埃まみれで掃除をしたのだろうと懐かしい感じにほっこりしました。煤払いが終わった後に、神棚に一年間の感謝をし、正月を迎えるための準備がはじまります。

気が付くと暮らしもしっかりと調ってきて、仕事しかしていなかった頃が懐かしく思います。私たちは、色々なものに囲まれて暮らしを調えています。その暮らしの道具たちや暮らしの場にどれだけ感謝できているでしょうか。立ち止まることもなく、見向きもしない日々を過ごしていたら当たり前の感謝にも気づき難くなることです。

本来、神様をお迎えするというのはおもてなしの実践です。私たちのおもてなしとは、神様に対してなのでお客様は神様ということになります。そういう気持ちで丁寧に浄化して場を清め調えるというのは私たちの先祖から今にいたるまで連綿と繰り返してきた日本の伝承の一つです。

私は、聴福庵に倣い学んだのはそのおもてなしの心です。すべての道具や場が、お越しになる方々へ向けられ静かにその様子を見守っていく。心は、四方八方すべてに調和しそれがすべて慈悲の心になっていること。

居心地のよい場所というのは、お迎えする心がある場所です。そういう場所にするところには、たくさんの神様がお越しになるようにお客様もまたお越しになるように私は思います。

来年は辰年で、歳男です。ご縁からまた古民家甦生を新たに一軒、手掛けることになりましたがその辰年に相応しい場所になりました。聴福庵で学んだことを基本にして、神様を迎えるような場所に丁寧に丹誠を籠めて仕上げていきたいと思います。

美意識と安心

日本人の美意識の一つに調和というものがあるように思います。自然のあるがままの姿、何もしない洗練された美、そのシンプルなものに徳を感じるものです。調和というのは、無理をしない姿でありないものはない、そこには完全そのものと実感できるものです。

私たちは善く調ったものを観ると安心します。それは調っているものは、自然に近いからです。この自然は、それぞれが安心している姿でもあります。場が調っているというのは、その場が安心しているということです。

万物の条理として、自然というのは絶対に変わらないものではありません。すべては変化していきますから調和もまた変わってきます。変化に対する調和があるということです。

例えば、花生けに花を活けても次第に枯れていきます。そして季節は廻りますし暮らしもまた変化していきます。その変化に対して、私たちは変化に合わせて花を生け直していきます。そのことによって調い、安心するのです。自然の変化に合わせて自分を変化させていくところに調和があります。そしてこの安心が美意識として私たちの心に薫ります。

つまりは美意識とは、安心することであり、安心とは自然であるということです。

不思議なことですが、自然のリズムやいのちの循環というものは私たちに全体との一体感を与えてくれます。これは私たちが個として認識する切り離されたものではなく、常に一体になって活動しているということの事実です。

変化の豊かさというのは心の豊かさであり、自然と共に歩んでいくいのちの喜びは、心の喜びです。日々、この今今を大切に味わって安心していきたいと思います。