現代の慈悲無尽講

現在、保険や共済など当たり前に日常で使われていますがこの仕組みが生まれる歴史というものがあります。むかしから危機に備えるための仕組みというのは、私たちが社会を形成する根源でもあり本来はそのためにコミュニティも組織も集団も形成してきたともいえます。

何のために私たちは人間関係や人間社会を形成するのか、それはシンプルに言えば助け合うことができるからです。助け合う中に喜びがあり、愛があり慈悲もあります。そういう人間として与えられた徳を活かそうとする仕組みが相互扶助であり互譲互助のシステムを発展させてきました。

保険と共済の違いは、保険は営利を目的にされていて共済はそうではないことと定義されます。共済は組合員が一定の掛け金を払えば不慮の事故などのときにそこから支払われるものです。保険は、自分が保険に加入して掛け金を支払えば保険会社から支払われます。

今の時代は、本当に貧しい人たちが入れるものではありません。どちらかといえば、お金を盛っている裕福な人たちが加入しているものがほとんどです。江戸時代には、無尽講という仕組みが誕生します。これは本当に苦しむ人々のために、それを見捨てるのではなくみんなで助け合おうとするものです。今ではバラバラ個人主義が当たり前で自分のことは自分でなんとかしろという様相ですが、かつてはみんなで共同体として一緒に生きる存在としての緩やかに結ばれている個がありました。誰かが困ったときにはみんなで乗り越えようと知恵を出す中に、相互扶助の仕組みがありそのことによって村が助け合うことを大切にするような意識に変わっていったのでしょう。

よく考えてみれば、村の移動もできずその場所でなんとかしないといけなかった時代、その土地で困ったことをみんなでなんとかしようとするのは善い村です。善い村には善い人が集まり、善い暮らしができます。今でいうまちづくりの根幹はこの助け合いの仕組みが柱になっていたように私は思います。

三浦梅園先生のいた富永村も同じように、あまり豊かな村ではなく農民は不作や災害で苦しむことが多くありました。そこで「慈悲無尽」という仕組みをつくります。

これは、①みんなが助け合いを理解すること。②みんなができる範囲で、米麦お金を出し合うこと。③出せない人には無理には出させないこと。④集まったものを毎年活用し増やしていくこと。⑤みんなで相談して一番困った人から順に助けていくこと。

としました。この仕組みは、その後、明治に入り保険や共済が出てくるまで190年以上村で利用され多くの人たちを助ける仕組みとして活用されてきました。例えば、明治時代に入ってからそれまでに貯めたお金で田んぼを購入し「慈悲無人田」と名付けて収穫されたお米を売ってそのお金で村人を救済していきました。

次第に、個人主義が蔓延して範囲が拡大し不正をする人やねずみ講のように組織を増やして詐欺行為をする人たちがでてこの仕組みも失われていきました。これは本来の心の救済が失われ、単に物の救済に変わっていったからかもしれません。目的が、単なる金銭のことになってしまえば本来の助け合うことを常に意識して善い人、徳を醸成しようとした話ではなくなってしまいます。

ではどのようにして、現代にこの慈悲無尽講を甦生させることができるのか。それを私はブロックチェーン技術を活用し徳積帳によって実現させてみたいと思っています。

歴史に学び、先人の遺徳に発明する。御蔭様に何よりも心から感謝しています。

自然の羅針盤

来週末にいよいよ三浦梅園先生の生家で生誕300年の行事を行います。300年前と同じ間取りで生家が残っているということも奇跡ですが、その風景や暮らしの気配も残っているのを実感できることもまた奇跡です。

今から300年前というのは想像できるでしょうか。3年の10倍が30年でその10倍が300年です。日にちで計算すると109575日、時間にすると2629800時間です。一般的に人間は自分の一生くらいしか、実感できる感覚は持っていないものです。例えば、1万年といわれてもピンときませんし、46億年といわれても相当長い時間かかったくらいの認識でしょう。

人間は時間というものを考えるのも、人間の知識によって創作されています。そもそも自然には時間というものがあるのか。そこから疑う方が本当の時間というものを認識するのにいいのかもしれません。禅の道でも今しかないといいますが、自然には時間はなく今のみだと私は思います。

この今のみとういう、感覚は過去や未来の今ということではなく流れている最中の今のことです。滝行をすると、よくわかるのですが流れている水の中に身を投じると流れているものの中に入ります。流れているそのものを感じるとき、私たちは今を味わえます。自然も同様に頭で考えるものではなく、ずっと変わり続けていることを感じるようなものです。しかし人間は知識を持ち、頭で考えるようになっていきましたからこの感覚は微睡んでいきました。今では、もうそれがどうだったかを思い出すこともありません。

毎日の喧騒に追われる中で、ほとんど人はこの自然の時間という今のみを感じることはなくなりました。マインドフルネスとか色々とビジネスに取り入れていますが、不自然だなといつも感じます。そのマインドフルネスですら、効率をあげたり効果を出したりと人間の作為が働いています。結局、人間のみの優先される人間の世の中にしてしまうことで私たちはもともとある普遍的な道を感じる力を失いました。

しかし、今もむかしもどんなに世間が人間優先であっても上手にバランスを保ち、徳を積み、先祖や子孫のためにと今を善くする実践を貫いた人たちがいます。その人たちは、真に天命を生き、自然と調和して暮らしを遺してくれました。

まさに時代の羅針盤です。

その羅針盤において、最も自然の羅針盤を持つ人こそ三浦梅園先生だったのではないかと私は思います。それは生家や墓場においてそれを直感することができます。人間は知識とは別に意識というものがあります。意識は磨いていけば、澄ませていけば感覚的に直観できるものです。

大切な人類の節目に、今こそ自然羅針盤が必要です。時間を超越してメッセージを発信していきたいと思います。

自然体の道

人は無理をするというのは過信があるものです。もっとできる、もっとやれるというように頑張りますがその時は自信ではないものです。ついなんでも無理をしてしまいますし、そういう教育を施されてきていますからそれが苦しみの原因にもなるのです。

自然体でいるということは、何よりも楽しめますが不自然になるから苦しくなり無理が発生するともいえます。

松下幸之助さんにこういう言葉があります。

『苦しかったらやめればいい、無理をしてはならない。無理をしないといけないのはレベルが低い証拠。真剣に生きる人ほど無理はしない。無理をしないというのは消極的な意味ではない。願いはするが無理はしない。努力はしても天命に従う。これが疲れないこつである。』

無理する人は、無理をしないのは頑張っていない、或いは努力が足りない、逃げているなど消極的なものと思い込み決めつけているものです。しかし実際には、天命にしたがうとかご縁を信じるという努力をしていないともいえます。全部必然と思い、無理をせずに取り組むことこそ自然体に近いように思います。

また無理をしないことは他にも大切な要素があります。松下幸之助さんはこうもいいます。

『富士山は西からでも東からでも登れる。西の道が悪ければ東から登ればよい。東がけわしければ西から登ればよい。道はいくつもある。時と場合に応じて、自在に道を変えればよいのである。一つの道に執すればムリが出る。ムリを通そうとするとゆきづまる。動かない山を動かそうとするからである。そんなときは、山はそのままに身軽に自分の身体を動かせば、またそこに新しい道がひらけてくる。何ごともゆきづまれば、まず自分のものの見方を変えることである。』

何か事件があったり、挑戦しているなかで行き詰ったり、困窮や困難に陥ったりします。しかしそういう時に、無理に同じことをまたやろうとするのではなく、別のやり方、別の観方、別の道があるとするメッセージとも受け取ればいいのです。つまり、無理をするよりもそこから別の道にいけばいいと楽観的に捉えていくことが大切だということです。道は無数にあるという考え方だからこそ、その方が別の道がひらくと思えばいいということです。

大切なのは、挑戦をし続けること、継続して目的地に向かっていくことであってそのためには一度、降りてもいいし、別の道を探してもいい、最後まで諦めていないのだからそれは逃げたのでも努力していないのでも、頑張っていないのでもないのです。

人生は、ちゃんと自分の目的に向かうように潜在意識や内面の自分、あるいは本当の意識は導いていくものです。それを信じて、道は無数にあると思うこと、これしかないではなく、あれもあるこれもある、自分にしかない道があると辿り着くことの中に人生の妙味があるように思います。

追い込まれないよう、追い詰めないよう、自然体で何でもちょうどよかったと楽しく融通無碍に道を歩んでいきたいと思います。

本物

私たちは便利な世の中で加工食品も増え、保存技術も様々に開発され消費期限も伸びてなんでも食べられるようになりました。しかしその分、便利な食品ばかりが台頭しむかしからあるような自然のもの、本物、手間暇かかるもの、期限が短いものは失われていきました。

同じ名前であっても、むかしの本物と今の加工品はまるで別物になっているものがたくさんあります。例えば、私は100年前の梅干しをいただき今も大切に食べていますが今の時代の梅干しとは全く異なります。食べ比べするとすぐにわかるほど、梅干しの味が異なるのです。どう異なるかといえば、塩も今の塩よりもずっとしっかりと塩の味がし、梅干しもほんの少し舐めるだけでも今の梅干しの数個分食べたほどの満足感があります。

他にも私は伝統固定種の高菜を無肥料無農薬で自然のなかで育てていますが、それを漬物にし食べますが市販されている高菜の漬物とは全く味が異なります。その異なる味は、味付けという問題ではなくもともとの素材を含め時間も道具も取り組み方も全部違うといったことから生まれる味です。

つまり味というのは、ある意味五感の一つを使うものですから誤魔化せません。しかしそれを誤魔化せるとしたら、本物がこの世から消えてしまえば誤魔化せるのです。誰も本物を知らない世の中にすれば、誰も本物が何かがわからなくなるからです。

その仕組みで世の中は本物が失われていき、別の本物にとってかわられます。これは決して食品だけに限らず、ありとあらゆるものがこの仕組みで別物になっていくのです。

見た目が同じでも別物になる、似たように似せても別物になる、理屈では同じでも別物になる、しかしそのどれもが本物として表現されて残っていくのです。これはとても残念なことのように思います。

むかしの本物を知っている人が、食べたり触ったり、聴いたり感じたりすればすぐに本物かわかりますがそれを知らないまま、別の本物を教えられた人たちは思い込みや刷り込みも入ってきますから余計に本物を見出すことが難しくなります。

経済というものは、この本物を駆逐するときに便利さを利用して拡大していくように思います。本物の経世済民もまた、同じ仕組みで消えていきました。今では徳を当たり前のように語る経世家もほとんどいなくなり、得ばかりを競いあう経営者ばかりが常に争いしのぎを削っています。自由や豊かさも、むかしの本物を知る人が失われ今ではそれも別物に換えられました。

子どもたちや子孫に何を遺していこうかと考えるとき、できたら本物をそのままに遺してあげられないかと願います。引き続き、本物に取り組んでいきたいと思います。

シンプルなもの

シンプルなものというのは洗練されているものです。言い換えればそこには嘘がありません。嘘とは何かと定義すると色々とありますが、簡単にいえば何かを盛っている、足しているともいえます。嘘も方便という言葉もあります。これは便宜的にスムーズに事が運ぶために嘘も役に立つという意味で使われます。つまりは、嘘というのは本当のことではないということです。

では本当のことは何か、それはとてもシンプルなものです。つまりそのままあるがままの姿であることです。例えば、健康というものも何か特別な健康食品を食べたら健康になるかというとそうではありません。シンプルに当たり前に自然に学び、自然の力が入るように育てられた風土の旬のものをその素材のいのちが壊れないようにして食べれば健康を保ちやすくなります。

しかし実際には都会的な生活で風土からも離れていますからそんなことはできないと健康食品やサプリが流行ります。健康を手に入れるためには、そういうものを摂取しないとと大量にドラッグストアやコンビニで栄養剤や健康食品が流通しています。また偉い先生と呼ばれる大学やその道のプロや専門家が、それぞれに効能や特徴、効果などを科学的に分析し、地味な成果を少し「盛って」話をします。それが嘘になっているということです。しかし口をそろえて、嘘も方便といいますから結局この方便を使うというのが嘘ということなのでしょう。

テレビや報道、ありとあらゆる情報は少し盛っています。なのでそれが当たり前になっている世間では、嘘が当たり前で本当のことは面白くもありません。方便が上手な人たちが世の中では目立ち、注目されます。それがバレないようにまた別の方便を磨いていきます。まるで方便合戦です。

そういう私も、会社で営業をしていた期間も長く、また大勢の人に話をする機会が多かったから相手が喜ぶように、またみんなが感動するようにと努力しているうちに話を少し盛る癖がつきました。しかし、歳を経て、色々なことを体験し、徳を積むことなどに真摯に取り組むようになってくるとこの方便が自分を苦しめることがわかってきました。

自分が少し盛る癖があると、その分、本当のことやシンプルなことに自信がなくなってくるのです。もっと周囲が喜ぶようにや感動するようにとやっていると、何が本当で何が嘘かがわからなくなるのです。

実際の人生を顧みると、波乱万丈なことばかりでそれをそのまま伝えた方がみんなが驚きます。そこには嘘がなく、特に盛るわけでもなくあった事実をありのままに伝えるだけです。これは自然でもあります。他にも、私の場合は古民家甦生や自然農など他にも自然物を使って色々と発明するのでそれをそのまま伝えた方がみんな驚かれます。そこには盛る必要もなく、ただあったことを伝えるのみです。すごいと見せる必要もなく、ただそれをシンプルに伝えるだけです。

本物というのはとても力があるものです。なぜなら嘘がないからです。嘘で塗り固められた本物風というのはどうも嫌な香りが匂ってきます。そこには心地よい余韻もありません。

子どもたちは刷り込みがないからこそ本物がわかります。子供だましのような世間とは別に、子どもに誠実に子どもに方便を使わないでシンプルなものを伝承していきたいと思います。

いのちの本体

家の庭の景色はいよいよ秋から冬の気配です。鳥の乾いた鳴き声や、枯れ葉に朝露がかかる様子、また無風で何も動かずに冷たい空気、夜空に寒さで揺れる星月などを眺めるととても味わい深いものがあります。

不思議なことですが、加齢とともに秋冬や侘びさびなどの美しさ、夕陽や静けさなどが居心地がよくなってくるものです。いのちというものは、自然のリズムに私たちが合わせています。自然から切り離されて人間中心に時間もスケジュールも動いていますが、心は自然のリズムに沿って心身を委ねているものです。

その証拠に身体も冬は節約し、春は毒を抜き、夏は燃焼し秋は貯えます。これは私たちが自然のリズムに合わせているからです。人間の傍で生きている他の生き物たちも似たようなリズムで共生し助け合って暮らしています。

体の声を聴くことは、心の声を聴くことであり、心の声に従えば、体の声にも従っています。つまりは身体一如であり、自然身体も一如ということです。

だからこそ、心で季節を味わうことや、体で季節を体験することは自然と安らぎ自然の豊かさを直感する大切ないのちの呼吸になります。

私たちはいのちを感じるとき、そこに呼吸があります。深夜に目が覚めて、ふと自分の呼吸に意識を集めてみます。すると、それが自然や宇宙、自然と一体になっていることに気づくものです。私たちは呼吸を通して、自然の一部として共生しており、同時に呼吸によってあらゆる意識と結ばれているともいえます。空気というものは、いのちの本体ともいえます。

どこから出でてどこにか帰る、その扉は空気だけが結ばれ通じているものです。この何もない中に無尽蔵の何かがあるという意識こそ、自然を観察する醍醐味かもしれません。

季節は微細にまたダイナミックに変化しています。その豊かさに感謝しながら、豊かな今を味わっていきたいと思います。

本物の体験

誰もが毎日、様々な体験をするものです。その体験は、自分の思い込みで行う体験と自分の澄んだ心の側の体験というものが二つが一つになっているものです。これは内省をするとよくわかりますが、知識の中での他人軸や人間軸での認識ともう一つは知恵の中での自分軸や自然軸での認識があるということです。

人には誰もが刷り込みというものがあり、嘘を信じ込まされているものです。それはある時から知識を覚え、その知識が当たり前になっているほど信じ込まされているなかで常識というものを持っていきます。周りが言っていることを鵜呑みにしているうちにそれを疑うことをやめてしまいます。すると本当のことがわかっても、自分の常識に合わせてなんとか修正をしようとしているものです。常識と違うものは、混乱するから修正しようとするのです。水が燃えたり、火が流れたり、風が固まったりとおかしなことがあることはおかしいと何かの間違いだと補正しようとするのです。

人間が信じる世界というのは、実際には人間の常識の世界ということでしょう。信仰心というものも宗教が組織を保つために嘘で塗り固められた権威みたいなものもあるのでそれを信じているというのは自然や宇宙とは関係がないことのようにも私は思います。

本来は、嘘かどうかは自然や宇宙の観察に由ります。つまりそこに人間の知識が介在せずにありのまま、あるがままを直感するということです。この直感というのは、感じたままに直に観るとも言えます。何も濁り澱んでいない知識、つまりは知恵のままに素直に直観するということです。

空を空で観ず、海を海で観ない、そのままにあるがままに観るということです。これは自分というものにも言えるものです。自分を自分として観ないということです。すると常識を外していくことが重要になります。

日々の自分の体験は、思い込みがしていることなのか、それとも思い込みのない自分がしているものなのか。思い込みのない自分がしている体験こそ、本物の体験なのです。

こんなことを書いても、ちょっと変だと思われるかもしれませんが私が目指すのはこの世で本当の体験をして魂を磨く仕合せを味わいたいということですから引き続き、自然にこだわり続けていきたいと思います。

私の好きなもの

自分の好きなことを掘り下げてみると、自分の得意なことや興味関心があることに気づきます。その好きなことというのは、単に物質的な好きなものではなく具体的に取り組んでいこうとする気持ちの好きな方に自分の本心があることにも気づきます。

例えば、私は小さい頃から発明が大好きでした。自分にしか観えないものを形にしていくのは気持ちがよく、それが何の役に立つのかわからなくてもなんでも創造していました。また大人になると発明は多種多様になり、調理なども好きで様々な組み合わせで実験したりして楽しんでいました。今でも、何か新しいことをするのが好きなのは発明したいからです。

この発明の意味は辞書には従来みられなかった新規な物や方法を考え出すことであるとし、また自然法則を利用した技術的思想の創作のうち、高度なものともあり、物の道理を明らかにするものともあります。

私の興味関心は自然にこそあり、人間の知識ではなく自然そのものを明らかにしたいということが好きであることがわかります。本当のことを知りたい欲求や、元々がどうだったのかということを学びたいという願望はとても強いように思います。このかんながらの道ブログも、元来の道を探るために日々に深めているものでもあります。いついかなる時も、自然を観察して自然の道理を読もうという意味では自然科学者に憧れたのかもしれません。三浦梅園先生を尊敬するのもその根っこのところの共感にあるようにも思います。

また他にも好きなことといえば、浄化することです。この浄化は、今の言い方ではシンプルにすること、洗練させることです。磨くことといってもいいかもしれません。何かを為さなくても、日々に磨いたり洗練させたりシンプルにするのがとても好きです。もっと言えば、本物が好きともいえます。本物にしたいのです。

この本物というものの定義は自然になるということです。不自然を正して自然に帰す。先ほどは、発明ということで自然を知りたい願望でしたがそのあとは自然を知って自然に原点回帰したいという願望です。それも単にむかしに戻すというようなことが自然とは思ってはいません。今更縄文時代にというのは不自然です。今の時代に産まれているのが自然ですから、今の時代でもどうあれば不自然ではないかを試行錯誤するのが好きなのです。

それを突き詰めていたら、暮らしフルネスになっていくということでしょう。そう考えてみると、好きなことをやっているものです。せっかくなのでそれを世の中のために役立てようとして、それが仕事になるものを探しているということです。世の中の人に貢献するために発明していますが、なかなかこの発明が時代に適合するのには時間がかかります。

引き続き、それも楽しみ味わいながら発明の人生と自然の道を歩んでいきたいと思います。

場と気の流れ

私たちは場を考えるとき、空間というものの中にあるものを捉えます。空間は空っぽではなく、その空間には気が宿ります。この気というものは、気の流れともいいますがそれぞれが結ばれて気を関係しあうことで空間の中に絶妙な調和をもたらすものです。

例えば、自然界でいってもどの位置に山があり谷があり川があるのかでもその空間の場の空気は変わってきます。よく空気が美味しいという言い方もしますが、そこには空気を美味しくするような場が調っているということです。

これは空気に限らず、水でも火でも、絶妙な調和をもたらせている場所が力を宿す場になっているということです。むかしからそのような場所は、祈りの場所にしたり、癒しの場所にしたりと工夫されてきました。

私たちの感じる居心地のよさというもののまた調和をするときに感じるものです。つまりこの調和を本能的に自覚しているということになります。安心ともいい、喜びともいいます。

こういう場づくりはどのように行うのか、私は自然の中にその調和を見出していきます。そこにはそうなるように絶妙に仕組まれた経緯があります。その経緯を読むのです。

経緯というものは、ご縁とも言い換えることができます。これでは抽象的になりますが、実際には場と縁というのは切っても切り離すことができないものです。このお互いの関係性に気付けるかどうかが善い場を形成するための要諦になります。

ある山に入り、光と水と風、そして木々と音と火や煙、土と岩の絶妙な場所で人が祈る。これだけでもそこには見事な調和や場が誕生します。

つまりこれは気の流れの話です。気をどうするのか、気をどうしたのか、これはその気が観えていること、気を動かせる人、気を鎮められる人というように調和に導く存在の関係性の中で醸成されていきます。

私が場の道場のなかで特に磨いているのはこの一点といっても過言ではありません。この気の流れを読む力は、日々の一期一会のご縁を大切にしていく生き方によって高まっていくものです。

何のために場をつくるのか、この問いが大事になります。

引き続き、子どもたち、子孫のためにも廃れていくものを拾い集め、本来のいのちを場に置き換えてさらなる徳を磨いていきたいと思います。

先人からの願い

昨日は、千葉のむかしの田んぼと福岡の場で新嘗感謝祭を行いました。この行事も会社みんなで取り組みはじめて10年以上になります。毎年、お田植祭から草刈り、そして収穫し食べているお米の新米を御蔭様に感謝してみんなで一緒に食卓を囲み団欒します。汗水流して共に働く仲間と同じ釜の飯を食べることの仕合せは本当に格別なものです。

私は今回は、縁あって福岡の場でお祀りしたり祈祷をしたりすることが中心になりましたがこうやって毎年、色々なことがあっても有難いお米を一緒に食べられる喜びを深く感じています。

私たちは現代の食生活ではお米離れが増えていきました。お米がなくても生きていけると勘違いするくらい、お米以外のものを食べています。また食生活が変わると、お米に対する思いも失われてきています。

そもそもお米が日本になかったころは、植物では山にある樹木の実などを採取して食べていました。人口が少ない時はまだしも、現代のようにこれだけの人口を養える食べ物などはほとんどありません。

よく考えてみると、地球の人口が80億人を超えるというのはそれだけ食べ物があるということです。食べ物がなければ人口を維持することは不可能です。私たちの食糧問題というものは、大量生産大量消費するなかで発生したことで本質は増産できる仕組みが発明されたことによって発生したともいえます。

この増産の仕組みは、冷静に観察すれば一気一斉に搾取する技術を発展させたということです。自然のルールを人類は無視しようと決めたということでもあります。資源をこれでもかと自然から絞り出す仕組みを考え、後のことなど考えずに取り続けるという手法の発展です。これは資源が取れなくなったらそこで終了ですから、取りきれるまではありとあらゆる方法を使って続けられるということです。

もはや誰も気にとめないほど当たり前になっている世の中になって久しいものですが産業革命以降、資本主義もですが膨大にあると考えられた地球の資源をそれぞれの国家が我先にと奪い合い続けてきました。そのためには、人口を増やし貨幣を増産し流通させ、潤沢な資源を世界に売りさばき他の資源を買い続けて国力を富ましていきました。国力を増す際に、軍事力も増強しミサイルを増やし続け、同時に金融も増やしてきました。

世界は少しずつ資源が失われていくなかで、残りの資源の奪い合いが熾烈になっていくのも予想できます。

むかしの稲作は、みんなで手を取り合って作物を育てていきました。豊作の時は、みんなで食べ物がある喜びに感謝して仕合せを嚙みしめたように思います。自然のルールと等しく、食べ物があることが当たり前ではないほどにぎりぎりの生活をみんなで送っていました。時には飢饉が起きてたくさんの人が亡くなりました。しかし、そのことがかえってお米の大切さや日頃から備えることへの重要性を学び、助け合いや思いやりなどの相互扶助の精神も育っていきました。謙虚さを磨いて自然に対する姿勢を育ててきたのです。

しかしあまりにも膨大な資源が目の前にあればそんなことは感じないかもしれません。以前報道で作りすぎた野菜を大量に捨てているものをみても少し足りないくらいの方が、みんなが大切にしようと思うものです。いくらでもある資源、あるだけ使い切る資源というのはかえって徳を損ね、本来の有難さや感謝を感じにくくするものかもしれません。例えば、空気がなくなるといったら人類はどうなるでしょうか。もっと汚さないように、もっとなくならないようにと丁寧に呼吸をするはずです。

常に有難いと思う気持ちのままでいることは、私たちのいのちを長く助けます。引き続き、子孫のためにも先人からいただいた遺徳をさらに善いものへと発展させ、暮らしを紡いでいきたいと思います。